フランスの政治家。シーエスと発音される場合も多い。地中海岸のフレジュスに生まれ,その地のイエズス会修道院とパリの神学校で学んで聖職者になり,シャルトルの司教代理に任じられ,1787年オルレアン州議会議員になった。啓蒙思想の影響を受けて旧体制下の身分制に対して強い批判を抱き,88年に《特権論》を公表して貴族などの特権を攻撃し,次いで89年初頭には《第三身分とは何かQu'est-ce que le Tiers État?》を刊行し,第三身分こそが真の国民であり,聖職身分や貴族身分はその特権を放棄してはじめて国民の列に加わることができる,と力説した。これは,フランス革命の導火線となった全国三部会の召集に際して,旧体制を打倒しようとする世論の形成に大きな役割を果たした。その全国三部会に第三身分の代表として議員に選出されたシエイエスは,89年から91年にかけて,身分制の廃止による国民的統一の実現と制限選挙制に基づく立憲君主政の樹立とに際して理論的指導者として活躍した。さらに彼は92年に国民公会議員に選出され,国王の処刑に賛成したが,山岳派が権力を握ると表面に出ることを避けて恐怖政治の時期を乗り切った。テルミドール9日にロベスピエールが失脚したのちに公安委員会のメンバーになって外交を担当し,95年から99年にかけては,一方でプロイセン駐在全権大使として外交に活躍するとともに,他方で総裁政府の一員および五百人会の議員として内政にも関与した。99年にはナポレオン・ボナパルトを助けてブリュメール18日のクーデタを成功に導き,そこで成立した執政政府では3人の執政の一人になり,共和暦第8年の憲法の制定に貢献したが,第一帝政のもとではナポレオンの方針に同調せず,帝国貴族に列せられるにとどまった。こうしてシエイエスは,革命の初期に指導的役割を演じたのちは,一種の黒幕的な存在として革命期とナポレオン時代の激動の中をたくみに泳ぎ抜いた。だがナポレオン没落後の王政復古期には,かつて国王の処刑に賛成したことがわざわいして亡命(1815-30)を余儀なくされた。
→フランス革命
執筆者:遅塚 忠躬
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フランスの政治家。プロバンス州のフレジュスに生まれる。司祭になるが、ルソーに私淑し、1789年3月『第三身分とは何か』を著し、フランス革命の指導原理を創造。国民に「何者かになろう」と呼びかけた。同年開かれた三部会の議員に選ばれ、三部会を国民議会に改組する立憲派の先頭にたち、初期革命の推進者として活動した。「1791年憲法」の成立後、一時政界を離れたが、1792年9月国民公会の議員に返り咲く。しかし、ロベスピエールから「もぐら」と称されたように、多数議員の集まる平原派の群れに埋もれ、人民主義の狂態を冷眼視しつつ、沈黙を守って恐怖政治を生き続けた。1799年総裁政府の大臣につくが、エジプトから帰国したナポレオンを擁して、ブリュメール(霧月)のクーデターを計画し、統領政府を樹立。ナポレオンとともに統領(執政)に就任するが、まもなく彼と折り合わず、政界を退いた。アカデミーの会員に推され、百日天下期には伯爵に叙せられた。王政復古後にはルイ16世の処刑に賛同したかどで、国外追放にあい、オランダに一時身を避けた。
[金澤 誠]
『大岩誠訳『第三階級とは何か』(岩波文庫)』
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1748~1836
シーエスともいう。フランス革命の指導者。革命前は聖職者。『第三身分とは何か』(1788年)により名をあげ,特に革命初期に理論家として活躍。国民議会の成立,91年憲法への寄与は大きい。
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…当時のフランスでは,主権は単一不可分であるから,国民の主権を代表する議会もまた不可分でなければならず,議会を二院に分けることは,国民の意思を二つに分離することになるとする理論が広く受け入れられていた。シエイエスの〈上院は何の役に立つであろうか。それがもし下院と一致すれば無用であり,一致しなければ有害である〉とする有名な言葉は,こうした立場を要約したものといえよう。…
…こうして,命令的委任の禁止や議員の発言行動の免責は,身分利害から解放された議員の討論の自由を保障するという意味をもつと同時に,ルソー流の国民自身による直接決定,および,国民による議員のコントロールという思想を排除するものでもあった。そのような議会のありかたについて,シエイエスは,〈本当の民主制〉に対する対立原理であり,それよりもすぐれた原理だと述べていたし,コンドルセは,選挙民に対する議員の意見の〈絶対的独立性〉を保つことこそが,選挙民に対する議員の第一の義務だと説いていた。それに対し,のちに普通選挙(さしあたっては男子普通選挙制にとどまるが)が成立したあとの第三共和政の議会になってくると,実質上,選挙は単に議員を指名するという意味をこえ,再選されることをのぞむかぎり,議員が選挙民からのコントロールに服するということが積極的な評価をうけるようになり,議会は,選挙民の意思を反映しつつ決定をおこなうべきものとされることとなる。…
…さらに,憲法の成文化ということは,そもそも,人間意思を超えた〈事物の必然〉としてでなく,人間意思の所産としての憲法をつくるという考え方への転換を意味した,という点でも,きわめて歴史的な意義を持つものだった。大革命前夜に,旧体制の特権層の側では,国王の意思をもってしても動かすことのできぬ王国基本法の存在を援用して,憲法がすでにあるといおうとしたのに対し,シエイエスは,フランスは憲法をもっておらず,これから作らなければならない,と説き,憲法制定権力を持つ国民の意思による憲法の定立を主張した。彼にあっては,憲法制定権力は国民だけが持ちうるのであり,したがって,作られるものは必然的に民定憲法なのであるが,君主の憲法制定権力を前提として作られる欽定憲法という考え方自体,成文憲法原理と密接に対応しているのであって,それ以前には,憲法は,作られるものでなく在るものだったのである(欽定憲法,民定憲法および君民協約憲法という区別は,それぞれ,憲法制定の権威の所在が,君主の意思,国民の意思および両者の合意におかれることを示すものである)。…
…憲法をつくる権力pouvoir constituantを,憲法によってつくられた諸権限pouvoirs constituésと区別して呼ぶときの言葉。アメリカ革命期に,普通の立法権と区別された特別の憲法制定会議によって制定される憲法という観念が,立法府抑制の思想の一環として,マサチューセッツ憲法や合衆国憲法によって援用されたが,近代憲法思想史のなかで憲法制定権力の観念が次に述べるような独自の意味で登場するのはE.J.シエイエスの系譜につながる議論である。フランス革命前夜にシエイエスが,《第三身分とは何か》(1789)のなかで,一切の既存の法にしばられない万能の権力で,かつ,国民のみがもつものとして,憲法制定権力論を説き,アンシャン・レジームを根底からくつがえすことの正当性を示したものとして,多大の影響を与えた。…
…フランス革命勃発直前の1789年初めに,シエイエスが匿名で発表したパンフレット。当時のフランスの身分制社会を大胆に批判して大きな反響を呼び,革命に向けての世論の形成に重要な役割を果たした。…
…むしろその場合には,〈第二院は何の役に立つか。もし第一院と一致するならば無用であり,一致しなければ有害である〉といったE.J.シエイエスの言葉が妥当するであろう。しかし,議員は国民全体からみれば,統治を担当する少数者にほかならない。…
※「シエイエス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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