フランスの生物学者。フランス北部エソンヌ県ジュビジー・シュロルジュ生まれ。1992年パリのピエール・エ・マリー・キュリー大学(パリ第六大学。2018年以降ソルボンヌ大学)で生化学、遺伝学、微生物学を学び卒業。同大学大学院で学ぶかたわら、パスツール研究所で研究者としての第一歩を踏み出し、1995年微生物学の博士号を取得。1996年以降、ロックフェラー大学、ニューヨーク大学などで研究員として働き、2002年にオーストリアのウイーン大学の客員教授、その後、助教授、准教授。2009年からスウェーデンのウメオ大学准教授、客員教授。2013年ドイツのヘルムホルツ感染研究センター部門長、ハノーバー医科大学教授、2015年マックス・プランク感染生物学研究所所長、2018年からは新たに設立された同研究所病原体科学研究所長。
研究者の道に進んだシャルパンティエの興味は、病原体となる細菌がなぜ薬剤耐性を獲得するのか、どうすれば治療できるかだった。とくに「人食いバクテリア」と恐れられる溶血性連鎖球菌(溶連菌。化膿(かのう)連鎖球菌)に着目し、遺伝子がどのように制御されるかを研究した。2000年代初め、当時あまり注目されなかったCRISPR(クリスパー)に関心をもち、2011年に細菌の中に小さなRNA(リボ核酸)が大量に存在することを確認。その一つが、CRISPRの配列と一致するRNA(クリスパーRNA)であった。そのほかに別のRNA(tracr(トレーサー)RNA)、さらにCRISPR近くに存在するタンパク質(酵素)Cas9(キャスナイン)などを発見した。仕組みの詳細は不明だったが、これらが細菌の免疫システムの重要な鍵(かぎ)を握っていると予測していた。
CRISPRは、大阪大学名誉教授中田篤男(なかたあつお)と、九州大学教授石野良純(よしずみ)(1957― )らが1987年(昭和62)に大腸菌のゲノムの中で発見した塩基の繰り返し配列である。当時はなんのためにCRISPRがあるのか不明だったが、その後多くの細菌や古細菌でも発見され、しかも繰り返し配列にはさまれた部分(スペイサー)が、さまざまなウイルス由来の配列と一致したことから、細菌がウイルスの感染を阻止するためにウイルスのDNAを記憶する、免疫の一部を担っているとみられていた。
シャルパンティエは、RNA研究の第一人者で、CRISPRにも関心を示していたカリフォルニア大学バークレー校の教授ジェニファー・ダウドナに共同研究をもちかけた。ダウドナは、CRISPRの周辺にあるCasという遺伝子群が、DNAを切断したり、ほどいたりするタンパク質をコードする遺伝子配列にとてもよく似ていたことから、Cas9が侵入してきたウイルスのDNAの切断に関与しているとみていた。
2011年から共同研究をスタートさせた二人は、クリスパーRNAとtracrRNA、およびCas9がウイルスのDNA切断に不可欠で、Cas9は鋏(はさみ)のような働きをしていることをつきとめ、2012年に発表。tracrRNAと、クリスパーRNAのねらった部位を人工的に融合させて、「ガイドRNA」を作成し、それに導かれて、ねらった部位をCas9が切断することを確認した。これまでは制限酵素(DNA鎖の特定の塩基配列を認識して鎖を切断する酵素)で、DNAの特定部位を切断するには大きな手間がかかっていたが、簡単な手法でねらった部位を切断することが可能になった。二人が開発したCRISPR/Cas9の技術は、ねらったDNAの部位を、文章を編集するように切断したり、新たに挿入したりできることから「ゲノム編集」とよばれる。
この成果を報告すると、世界の研究チームがこの技術を使い、マウスやヒトのゲノムを改変する研究が広がった。農作物や魚類の品種改良のほか、遺伝子が関与する病気の発症メカニズムの解明、遺伝子を改変した細胞を用いたがん免疫療法などへの応用がすでに始まり、成果が期待されている。しかし、一方で中国で、この技術を使ってHIV(エイズウイルス)耐性遺伝子をもつ双子を誕生させたとの報告があり、世界中から非難を浴びた。ゲノム編集に関連した安全性や倫理面に対する懸念の議論も巻き起こっている。
シャルパンティエは、2015年スウェーデン王立科学アカデミー会員。2016年ガードナー国際賞、2017年日本国際賞、2018年カブリ賞(ナノ科学部門)、2020年ウルフ賞を受賞したほか、「ゲノム編集技術を開発した」功績で、ダウドナとともにノーベル化学賞を受賞した。
[玉村 治 2021年2月17日]
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フランスの作曲家。オルレアン公フィリップに音楽教師として仕えるかたわら,イエズス会の教会や修道院の音楽監督,またサント・シャペルの楽長を歴任し,これらのために宗教音楽や劇音楽を作曲した。1660年代ころに数年間,ローマでカリッシミに音楽を学び,帰国後もイタリア音楽を好むサークルに出入りした。彼は,フランスでオラトリオならびにカンタータを作曲した最初の一人とされ,ローマ楽派の様式をフランスに導入したといわれるが,とくに宗教音楽に,イタリア音楽の影響が顕著にみられる。作品には,テ・デウム,マニフィカトなど多数の宗教音楽,《聖ペテロの否認》などのオラトリオ(彼はこれを聖書物語と呼ぶ),《地獄に下るオルフェ》(1683)などのカンタータ(彼自身はこの名称を用いない),《メデ》(1693)などのオペラ,《気で病む男》(1672-73)などのコメディ・バレエのための音楽のほか,器楽曲がある。
執筆者:内野 允子
フランスの作曲家。リールとパリの音楽院で学び,1887年にカンタータ《ディドン》によってローマ大賞を受けた。管弦楽組曲《イタリアの印象》(1890),3幕の交響劇《詩人の生活》(1891。これをもとに4幕のオペラに拡大した《ジュリアン》1913),とりわけ自由恋愛と女性の自立を主題にしたオペラ《ルイーズ》(1900初演)で知られている。師マスネーの抒情的な作風にワーグナーの示導動機法,半音階法も加味して,ロマン主義と現実主義の混ざり合ったオペラを作曲した。勤労女性のための〈ミミ・パンソン音楽院L'œuvre de Mimi Pinson〉を1902年に設立し,また〈民衆劇場〉を計画したが,後者は挫折した。12年マスネーの後任として芸術アカデミー会員となる。
執筆者:平島 正郎
フランスの彫刻家,アール・ヌーボーの家具デザイナー。パリに生まれ,1890年代初期には生硬なイギリスのアーツ・アンド・クラフツ・ムーブメントの影響を示していたが,世紀末ころから曲線のアール・ヌーボー様式に共鳴し,曲がりくねった裸婦のレリーフを加えた,彫塑的でリズミカルな様式の家具を設計した。ブリュッセルの〈レ・バン(20人展)〉(1895)および〈自由美学展〉(1899)に出品,またパリでは装飾美術家ジャン・ダンなどと1895年に〈5人展〉を結成,応用美術の刷新を試みた。
執筆者:鍵和田 務
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…その壮美な趣は,王(ルイ14世)の威信を輝かすのにふさわしいものであった。以後リュリの後にM.A.シャルパンティエ,カンプラ,デトゥシュAndré Cardinal Destouches(1672‐1749)らが出て,イタリアの影響におりおりさらされながらも,フランス歌劇は偉大な作曲家であり理論家であったラモーを迎える。 しかしラモーのころ,時代は反古典主義の兆しをみせはじめていた。…
※「シャルパンティエ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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