1760年代終りから80年代半ばにかけてのドイツの文学運動。その名称は,クリンガーの同名の戯曲に由来する。〈天才時代〉とも呼ばれ,日本では〈疾風怒濤(どとう)〉と訳された。新しい生活感情と人生経験に基づき,合理的世界観と形式的秩序を重視する啓蒙主義の修正を目ざす芸術的革命運動である。E.ヤングの感性的な個性の独創性を重視する天才論,ルソーの自然への復帰を唱える文明論などの影響を受け,シェークスピア,オシアンを文学上の模範とした。先駆者には,レッシング,クロプシュトック,ハーマンなどいるが,この運動の芸術的要請はJ.G.ヘルダーによって表現された。《近代ドイツ文学論》(1767),《1769年のわが旅の記》などであるが,彼の小冊子《ドイツの特性と芸術について》(1773)に載せたシェークスピア論と《オシアンと古代諸民族の歌謡について》は,この文学運動の出生証書とみなされている。ゲーテの《若きウェルターの悩み》(1774)に見られるように,理性,規則,秩序に対して,人間の情熱,根源的空想力,個性的偉大さを強調する直截で力強い感情移入と創造的天才性こそ,真の文学の基本であり,社会的偏見と宗教的国家的強制からの自由と自決権の確立が,この運動の綱領となった。
この運動の主要な文学形式は戯曲で,三一致法則を廃棄し,韻文戯曲の妥当性への懐疑から散文で書かれ,気ままな場面転換と熱情のおもむくままに無拘束で自由な表現主義的語法がその特色となっている。シェークスピアを天才詩人と認知し,その戯曲を典型と仰いだが,この模倣的傾向は一方ではこの運動の限界ともなった。この運動の主要な劇作家は,クリンガーとJ.レンツの対比に見られるごとく,情熱的天才タイプと感傷的情緒不安定タイプに大別される。代表的戯曲を傾向別に挙げると,まず自己の本性の無限の実現を邪魔するいっさいの生活規範を否認する〈どえらい奴grosser Kerl〉を描くゲーテの《ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン》(1773),クリンガーの《双生児》(1776)など,次に普遍的人間的自由への革命的要請を歌いあげたシラーの《フィエスコの反乱》(1783),《たくらみと恋》(1784),第3に社会における個人の自由を求めたライゼウィッツJohann Anton Leisewitz(1752-1806)の《ターレントのユーリウス》(1776),シラーの《群盗》(1781),そして社会的被抑圧者のための正義を訴えたワーグナーHeinrich Leopold Wagner(1747-79)の《嬰児殺し》(1776),レンツの《軍人たち》(1776)に大別される。しかし,これらの独創的な天才たちが提示した文学の本質に関する基本的見解は,ゲーテやシラーの古典主義作品,さらにはロマン主義文学に受け継がれ,20世紀の表現主義文学にもつながる重要な発言であったが,この運動の持つ既成秩序に対する抗議,反抗といった側面は過渡期的現象に終わり,急速に衰退していった。
詩作品としては,G.A.ビュルガーのバラードやゲーテの《ゼーゼンハイムの歌》のごとき,民謡風で飾り気のない情熱的な私的体験を歌った抒情詩,ゲーテやC.F.D.シューバルトなどの頌歌や賛歌愛好などが目立った特徴である。
執筆者:長屋 代蔵
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「疾風怒濤(しっぷうどとう)」と訳される、18世紀60年代のなかばから80年代の終わりころまでのドイツの文芸運動。名称はクリンガーの同名の戯曲に由来する。一般に啓蒙(けいもう)主義とドイツ古典主義の中間に位置づけられ、前者の合理主義に対して感情中心の非合理主義を標榜(ひょうぼう)し、その革命的個人主義は後者の高貴な人間性の理想によって克服されたと考えられている。しかし疾風怒濤が反対したのは硬直化した啓蒙主義の悟性(ごせい)偏重や皮相的人間像にすぎない。またドイツ古典主義を完成したゲーテとシラーは、この新しい文芸運動によって初めて規則ではなく根源的な自然に根ざす文学の創作に目覚まされた。
シュトゥルム・ウント・ドラングの思想的淵源(えんげん)は、ルソーの文明批判、ヤングの天才観、敬虔(けいけん)主義の伝統、啓蒙主義の社会解放運動、ハーマンの神秘思想などであり、これらすべてに基づき強力な理論的指導者となったのはヘルダーである。とくに彼の編集発行した小冊子『ドイツの様式と芸術について』(1773)は疾風怒濤のマニフェスト(宣言)とみなされている。当時活躍した詩人ないし作家は、若いゲーテとシラーのほか、レンツ、クリンガー、H・L・ワーグナー、ユング・シュティリング、ビュルガー、シューバルト、ハインゼなど。
[木村直司]
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…《ハンブルク演劇論》は,劇評という枠を越えた実践的な理論的著作である。彼が晩年の傑作《賢者ナータン》を発表するころ,ゲーテ,レンツ,クリンガーなどの若い世代が,理性より感情の優位を主張する疾風怒濤(しつぷうどとう)(シュトゥルム・ウント・ドラング)の文学運動を開始した。劇作では,フランス古典主義演劇の形式を退けて,シェークスピアに範をとる多場面構成で,強烈な個性をもつ人物をもつ戯曲が求められた。…
…それによって演劇は,この世紀の最も重要なジャンルとなったが,この場合もその導き手となったのはほかならぬシェークスピア劇である。レッシングにつづくシュトゥルム・ウント・ドラング期の演劇は,ふたたび啓蒙精神を超えて,いわば自然としての人間を描くことになる。小説も,イギリスの小説やルソーを範として,啓蒙的教訓小説から内面的な感情を吐露する告白小説へと進展し,その頂点にゲーテの《若きウェルターの悩み》が立つことになる。…
…道中で記された《1769年のわが旅日記》は以後の思想的発展の萌芽を宿す。シュトラスブルク(現,ストラスブール)滞在中(1770‐71)に若きゲーテに多大の影響を与え,シュトゥルム・ウント・ドラング運動の契機となる。71年からビュッケブルクで宮廷牧師を務め,この文学運動の綱領とされるオシアン論とシェークスピア論を73年に発表。…
…一方,スコットランドの過去の歴史をよみがえらせ,中世騎士道精神と郷土愛を賞揚するスコットの一連の歴史小説Waverley Novelsは,歴史学と小説に中世賛美の機運を興し,過去の時代の精確な生き生きとした描写を目ざす一種のロマン主義的写実主義とも称すべき傾向を生み,ユゴーの《ノートル・ダム・ド・パリ》やメリメの《シャルル9世年代記》,あるいはミシュレの《フランス史》等に影響を与えた。 ドイツでは,1770年ころからフランスの文化支配を脱し,啓蒙主義に対抗して個人の感性と直観を重視する反体制的な文学運動シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)が展開されたが,そのほぼ20年後にシュレーゲル兄弟,ティーク,シュライエルマハーらによって提唱されたロマン主義文学理論は,この運動の主張を継承し,フランス古典主義に対抗するものとしてのロマン主義を明確に定義づけ,古代古典文学の再評価とドイツに固有の国民文学の創造を主張した。フィヒテやヘーゲルの観念論哲学と密接な関係をもったドイツ・ロマン主義文学は,自我の内的活動の探究,夢と現実あるいは生と死の境界領域の探索,イリュージョンの形成と自己破壊(アイロニー)などを主題とするきわめて観念論的かつ神秘主義的な色彩を帯び,ノバーリス,J.P.リヒター,ホフマンらの幻想的な作品を生み出した。…
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[ドイツにおけるロマン派演劇]
演劇におけるロマン主義の時代区分は,他のジャンルの場合とはやや異なるものの,およそ1770年代から1830年代までと考えてよかろう。なぜなら1770年代にドイツに起こった疾風怒濤(しつぷうどとう)(シュトゥルム・ウント・ドラング)の運動は,他のヨーロッパ諸国のロマン主義に与えた影響から考えると,広義のロマン派と呼びうるからである(ただドイツにおいては,疾風怒濤期以後に古典主義が成立し,またさらにロマン派が生まれ,疾風怒濤の代表作家だったゲーテ,シラーらが古典主義を確立して,ロマン派と対立するというやや特殊な事情も存在する)。疾風怒濤派は,とくに劇文学において,〈三統一〉の法則を典型とする古典主義の〈法則の強制〉に反発し,啓蒙的な合理主義に対して感情の優位を主張して,シェークスピアを天才的で自由な劇作の典型として崇拝した。…
※「シュトゥルムウントドラング」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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