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スカルノ スカルノSoekarno; Sukarno

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

スカルノ
Soekarno; Sukarno

[生]1901.6.6. スラバヤ
[没]1970.6.21. ジャカルタ
インドネシア建国の父と呼ばれる政治家。 1925年バンドン工科大学卒業後,ただちに独立運動の中核としてインドネシア国民党を結成。オランダの弾圧に抵抗,29年逮捕された。 33年再び逮捕され,42年まで流刑。インドネシアを占領した日本軍に釈放され,45年独立を宣言,49年オランダにも認めさせた。その後,西イリアン解放闘争,マレーシア対決を通じて反植民地闘争の先頭に立ち,特に 55年4月のバンドン会議を主宰してインドネシアの地位を高めた。 1960年代に入ると左傾化し,経済的混乱に対処することができなかったことと相まって反対勢力を刺激し,65年の九・三〇事件後,台頭した軍部右派勢力により,67年3月大統領の全権限を奪われた。提唱した「指導される民主主義」,「ナサコム体制」は,新興独立国の政治理念として関心を集めた。

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デジタル大辞泉の解説

スカルノ(Akhmed Sukarno)

[1901~1970]インドネシア政治家。1928年インドネシア国民党を結成して独立運動を推進。第二次大戦後、独立を宣言して対オランダ武力闘争を指導、1949年共和国初代大統領に就任。民族主義宗教共産主義を一体とするナサコム体制を提唱、1963年には終身大統領となったが、反共勢力の台頭で1967年に解任された。

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百科事典マイペディアの解説

スカルノ

インドネシアの政治家。1927年国民党を結成,独立運動を指導して1929年―1942年投獄と流刑。1945年独立とともに大統領。〈指導される民主主義〉を唱え,1959年以来ナサコム体制を推進,対外的にはネコリム反対を掲げてイリアン・ジャヤを回復する。
→関連項目アイディットアリ・サストロアミジョヨイワ・クスマ・スマントリインドネシアインドネシア共産党新興国競技大会スバンドリオSOBSIタン・マラカハッタムソモナス

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

スカルノ Sukarno

1901-1970 インドネシアの政治家。
1901年6月6日生まれ。オランダ植民地からの独立運動にバンドン工科大在学中から参加し,卒業後の1928年インドネシア国民党委員長。1945年日本降伏を機に独立を宣言,初代大統領に就任。民族主義,宗教,共産主義を結合し改革をすすめたが,1965年の九月三十日事件で失脚した。1970年6月21日死去。69歳。ジャワ出身。

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世界大百科事典 第2版の解説

スカルノ【Sukarno】

1901‐70
インドネシア民族主義運動の指導者,インドネシア共和国初代大統領。1901年6月6日,スラバヤでジャワ人の父とバリ人の母の間に生まれた。スラバヤの高等学校を卒業後,バンドンに遊学して26年にバンドン工科大学を卒業,建築技師の資格を得た。卒業当時のインドネシアは共産党の蜂起(1926‐27)が失敗し,新しい知識人による民族主義の胎動が始まっていた。スカルノはその中で新世代のチャンピオンとして登場した。植民地政府に対する非協力と即時独立を唱える彼は,投獄(1929‐31)と流刑(1933‐42)の生活を続けたが,独立の闘士としての声望が高まり,日本軍政中に政界に復帰すると民族第一の指導者の地位を確立した。

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大辞林 第三版の解説

スカルノ【Sukarno】

1901~1970) インドネシアの政治家。1928年インドネシア国民党を創設。45年オランダからの独立を宣言、初代大統領となる。民族主義・宗教・共産主義の連携を旗印に国内建設を進めたが、65年の9月三十日事件を機に失脚。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

スカルノ
すかるの
Sukarno
(1901―1970)

インドネシアの政治家。1901年6月6日東部ジャワに生まれる。高校生時代から民族運動に関心をもち、1920年バンドン工科大学入学時には「ブン・カルノ」(兄弟スカルノ)として知られた。1928年インドネシア国民党を結成、「民衆主義(マルハエニズム)」を唱えた。1929年植民地当局に逮捕されたが、反帝国主義・民族解放を訴えた法廷証言でかえって民族指導者としての名声を確立した。1942年日本軍によって釈放され、オランダ留学組のM・ハッタらとともに対日協力による独立を目ざした。日本の降伏直後の1945年8月17日独立を宣言、初代大統領に就任した。対オランダ独立闘争の過程で政局の主導権は抗日派の手に帰し、象徴的大統領として不遇の数年を送った。1955年第1回アジア・アフリカ会議(バンドン会議)を主催、非同盟中立外交の一方の雄として脚光を浴びたが、内政面では多党乱立ゆえの短命内閣が続いた。かくして1957年、内政混乱の原因は西欧型議会政治にあるとし、村落民主主義の伝統に立脚した「指導民主主義」を提唱、共産党・軍部という二大超議会勢力との提携を強めた。1958年反スカルノ派のスマトラ反乱を鎮圧、翌1959年余勢をかって「指導民主主義」体制への移行を強行した。1950年代末~1960年代初頭にかけて、国内での絶大な権力掌握をてこにオランダからの西イリアン解放闘争を展開、1963年これを達成、終身大統領となる。息継ぐ間もなく「マレーシア粉砕」という対決路線を選び、1965年冒頭には国連からも脱退。この間「北京(ペキン)・ジャカルタ枢軸」ともいうべき対中接近が進行する一方、国際的孤立と経済危機の深刻化を招いた。同年彼の健康悪化に伴い共産党と陸軍の権力闘争も激化、左派による「九月三〇日事件」といわれるクーデター未遂事件が発生した。1966年3月抵抗むなしくスハルト将軍率いる反共陸軍への実権移譲を余儀なくされ、1967年には大統領職を解かれ、1970年6月21日失意のうちに病没。近年に至り、建国の父として再評価する動きもある。
 また、長女のメガワティ・スカルノプトリは1987年、国会議員に当選。2001年には第5代大統領に就任している。[黒柳米司]
『田口三夫著『アジアを変えたクーデター――インドネシア9・30事件と日本大使』(1984・時事通信社) ▽白石隆著『スカルノとスハルト――偉大なるインドネシアをめざして』(1997・岩波書店) ▽『スカルノ自伝』(角川文庫)』

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世界大百科事典内のスカルノの言及

【インドネシア】より

…こうして共産党が壊滅した後に民族運動の表舞台に登場するのは,オランダから帰国した留学生を中心とする知的エリート層である。彼らは27年にスカルノを党首とするインドネシア国民党を結成し〈ムルデカ(独立)〉の合言葉に象徴される民族主義を鼓吹した。民族主義精神の高揚は翌28年10月に〈青年の誓い〉が採択されて,インドネシアというただ一つの祖国・民族・言語が高らかに宣言されたことにもよく示されていた。…

【インドネシア国民党】より

…1927年にスカルノを党首として結成された民族主義政党。インドネシアの統一と団結,インドネシアの独立を掲げ,それ以前にイスラム同盟やインドネシア共産党が主導した運動に参加した人々を再結集するとともに,各地の政治団体と各種の政党の大同団結をはかった。…

【九月三〇日事件】より

…クーデタは一時成功したかにみえたが,陸軍戦略予備軍司令官スハルト少将の機敏な指揮により政府軍は反乱軍を夕刻までに粉砕した。このクーデタの起因は明らかでなく,(1)同年6月に予定されていた第2回アジア・アフリカ会議流会以後,政界上層部の右傾化とスカルノ大統領の病気悪化説に焦慮した共産党が,蜂起するか軍部に圧殺されるかという二者択一を迫られ決起した,(2)スカルノの唱えるナサコム(民族主義,宗教,共産主義を一体化した統一戦線)体制に協力し人民革命によって政権を狙う共産勢力に危機感を抱いた将軍評議会が挑発した,(3)〈アメリカのCIAの陰謀である将軍評議会〉が企てているクーデタに対し,革命評議会が〈スカルノを守る〉ためにしかけた〈先制攻撃〉である,などの諸説がある。さらに中国がクーデタに関与したともいわれる。…

【タムリン】より

…その後,30年代を通じて穏健な民族主義路線の指導者として,国民参議会で活躍するかたわら,35年にはパリンドラ(大インドネシア党)の結成に参加し,39年のガピ(インドネシア政治連合)発足に際しては,シャリフディンらとともに中心的な役割を果たした。一方,スカルノらとの親交も厚く,フロレス島のエンデに流刑されていたスカルノの健康状態を心配して彼をスマトラへ移すために尽力し,スカルノ,ハッタ,ストモらの著名な民族主義指導者が政治舞台から去ったあとの30年代後半にはその令名を高めたが,41年1月逮捕され,4日後に拘置所で急死した。【土屋 健治】。…

【パルティンド】より

…正式名称はインドネシア党Partai Indonesia。オランダ植民地政庁による投獄でスカルノらの最高指導部を失ったインドネシア国民党のうち,党を解散して新たな組織で国民党の衣鉢を継ごうとする副委員長サルトノら党内多数派によって,1931年に結成された。対オランダ非協力と大衆運動を通じた民族独立の達成,という国民党の基本路線を継承し,人民の政治的権利の拡大と経済生活の向上,民主主義の原則に基づく人民政府の樹立のために闘うことを掲げた。…

【非同盟】より

…それは他人の災厄を見ながらお高くとまっている偽善的な態度を指すものではない。非同盟とは独立,永遠的平和,社会主義といった大義への積極的貢献を指している〉というスカルノ大統領(インドネシア)の第1回非同盟諸国会議での発言が,この言葉を採用するにいたった動機と,さらにこの言葉にかけられたやや混乱した期待をよく示している。 53年ころからの〈雪解け〉によりアジア・アフリカ諸国の独自の動きは活発になり,54年4月のコロンボ会議,55年4月のアジア・アフリカ29ヵ国のバンドン会議という形で盛り上がった。…

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