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ソマリア Somalia

翻訳|Somalia

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ソマリア
Somalia

正式名称 ソマリア連邦共和国 Jamhuuriyadda Federaalka ee Soomaaliya。
面積 63万7657km2
人口 1008万6000(2012推計)。
首都 モガディシオ

アフリカ大陸東部,「アフリカの角」の大部分を占める国。北はアデン湾,東はインド洋に臨み,西はエチオピアケニアジブチと国境を接する。アデン湾岸の海岸平野砂漠で,その南をエチオピアのアハマル山地に続くオゴ高地が東西に延びる。中・南部は半砂漠平原。年降水量は 330~500mm程度で,南部に多い。気温は高地で 0℃を下回るところもあるが,国土の大半を占める平原部では 42℃に達するところもある。森林はほとんどなく低木と草類が主。住民はハム系のソマリ族が約 90%。人口の約 75%がウシ,ラクダ,ヒツジ,ヤギを主とする遊牧民。南部のジュバ川シェベレ川の下流域はバナナ,サトウキビ,綿花,穀類を主とする農業地帯。公用語はソマリ語アラビア語。ほかにイタリア語,英語が広く用いられる。イスラム教が国教。古代エジプトがプントと呼んだ地にあたり,10世紀頃からアラビア半島から移住してきたイスラム教徒が沿岸部に交易基地を建設,19世紀には一時オスマン帝国オマーンに支配され,のちザンジバル王国の一部となった。1886年に北部がイギリス領ソマリランド,1889年に南部がイタリア領ソマリアとなり,植民地として分割された。1940年イタリアがイギリス領ソマリランドを占領したが,1941年イギリス軍が奪還,同時にイタリア領ソマリアをも占領し,1950年までイギリスが支配。イギリス領ソマリランドは 1948年に民政に移行,旧イタリア領ソマリアは 1950年に国際連合のイタリア信託統治領となり,1960年6月26日と 7月1日にそれぞれが独立,統合してソマリア共和国が成立,1969年のクーデターによりソマリア民主共和国となった。独立以来「大ソマリア主義」(汎ソマリ主義)を唱えて周辺国との国境紛争が絶えず,1977~78年エチオピアと武力によるオガデン紛争を引き起こした。1988年から複数の反政府武装勢力との内戦が本格化し,1991年政府が崩壊,武装勢力が各地に割拠し,無政府状態となった。内戦による難民の発生と干魃により,約 400万人が飢餓に直面した。2004年和平協定が結ばれ,2005年暫定連邦政府を樹立。2012年暫定憲法を採択し新連邦議会を召集,正式政府が発足し,国名をソマリア連邦共和国に改称した。(→ソマリア内戦ソマリランド

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

ソマリア

1960年に北部が英国から、中南部がイタリアからそれぞれ独立、合併して誕生。独裁政権が91年に崩壊し内戦となり、武装勢力が群雄割拠した。05年に暫定政府ができた。07年からアフリカ連合(AU)軍が展開している。

(2012-08-19 朝日新聞 朝刊 2総合)

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デジタル大辞泉の解説

ソマリア(Somalia)

アフリカ東端の民主共和国。首都モガディシオソマリア半島を占め、インド洋とアデン湾に面する。牧畜が盛ん。1960年、イタリア信託統治領とイギリス保護領とが独立・合併して成立。社会主義政権を経て、1990年代に内戦状態となり、国内で複数の勢力が独立を宣言している。人口1011万(2010)。

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世界大百科事典 第2版の解説

ソマリア【Somalia】

正式名称=ソマリ民主共和国Somali Democratic Republic面積=63万7657km2人口(1996)=680万人首都=モガディシュMogadishu(日本との時差=-6時間)主要言語=ソマリ語,アラビア語,英語,イタリア語通貨=ソマリ・シリングSomali Shillingアフリカ大陸の東端に位置する国。アデン湾の南岸からインド洋沿岸にかけて,かぎ形に展開する国土をもち,〈アフリカの角(つの)〉地域の主要部分を構成している。

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大辞林 第三版の解説

ソマリア【Somalia】

アフリカの東端部、アラビア海に面する民主共和国。1960年イギリス領ソマリランドとイタリア領ソマリアとが合併して独立。91年以降内戦が激化。遊牧が盛ん。バナナを産する。住民はソマリ族。ほとんどがイスラム教徒。主要言語はソマリ語・アラビア語。首都モガディシオ。面積63万8千平方キロメートル。人口820万( 2005)。正称、ソマリア民主共和国。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ソマリア
そまりあ
Somalia

アフリカ大陸北東端、「アフリカの角(つの)」とよばれるソマリ半島の大部分を占める国。正称はソマリア民主共和国Al-Jumhurya al-Somaliya al-Dimuqrtya。東と南はインド洋に面し、北は紅海の入口のアデン湾を隔ててイエメンに対し、北西端でジブチ、西はエチオピアおよびケニアと国境を接している。面積63万7657平方キロメートル、人口822万8000(2005推計)。首都はモガディシオ。[赤阪 賢]

自然

北部には、エチオピア高原から連なる標高2000メートル以上の山地があり、サバンナの平原を経て南の亜熱帯地方に続いている。河川は年間を通して水をたたえるジュバ川とシベリ川があり、海岸平野も形成されている。そのほかは乾燥した不毛の土地となっている。気候は一般に暑く、とくにアデン湾岸のベルベラの7月の平均気温は36℃に達する。ハルゲイサなど北部高地では比較的温和で、年平均気温は22℃である。[赤阪 賢]

地誌

人口密度は1平方キロメートル当り14人で、遊牧民のソマリ人が各地に分散して居住している。人口が集中しているのは、北部のベルベラ、ハルゲイサや、南部のモガディシオ、キスマユなどの都市と、ジュバ、シベリ両河川に挟まれた農耕地に限られている。首都モガディシオは人口約116万で、独立以降の人口集中が急激である。古い伝統のあるイスラム都市であったが、植民地時代の影響でイタリア式の建築が多く残っている。14世紀にはイブン・バットゥータも来訪し、その繁栄を記録にとどめている。南部のキスマユはジュバ川流域の中心地であり、肉や魚の缶詰工業が立地している。北部のベルベラは港町で、対岸のアデンへの家畜輸出の中心地となっている。[赤阪 賢]

歴史

古代エジプトと交易したプントの国をソマリアとする説もあり、古くから開けていた。とくに北部の紅海やアデン湾沿岸はシナモン海岸とよばれ香料の産地として知られた。10世紀ごろからアラビア人の交易基地が東部の海岸に建設され、ゴムや木材の輸出の拠点となった。モガディシオもその一つで、内陸の遊牧民へのイスラム教普及の基地となった。もともと遊牧民のソマリが居住していたが、彼らは10世紀にはイスラムに改宗し、アデン湾やインド洋と内陸のエチオピアなどとの交易を仲介した。ソマリ人は単一の集権国家を形成しなかったが、北部のアダル土侯国は16世紀に勢力を伸長し、エチオピア侵攻を果たしている。18世紀以降、ソマリ人の交易都市はアラブ人やオスマン帝国に支配された。ポルトガルも東アフリカからソマリアへ食指を動かしたが勢力は定着しなかった。一方、エチオピアを保護領としたイタリアが、ソマリアの東部および南部の海岸地域に勢力を拡大した。1892年にはザンジバルのスルタンから、モガディシオ、ブラバ、メルカ、ワルシェイクなどの港の租借権を得て、さらに1905年には直接統治を完成した。
 一方、北部では、1854年にイギリスの探検家リチャード・バートンが初めてハラール高原からソマリア北部に入った。1884年にはイギリスが北部をソマリランド保護領として支配し、西部のフランス、南部のイタリアと、ソマリアを三分した。住民の反抗も激しく、ムハンマド・アブディル・ハッサンの率いる反乱は20年間続き、「マッド・ムラー」として恐れられた。1935年のイタリア・エチオピア戦争の結果、イタリアはエチオピア全土を支配し、さらに1940年から第二次世界大戦中までソマリランド保護領を占領した。この間、北ケニアとジブチを除いてソマリアはイタリアの支配下にあった。1941年から42年にかけての北東アフリカにおけるイタリアの敗退で、イギリスがとってかわり、数年間同様の支配を受け継いだ。1941年5月、アディス・アベバに返り咲いたハイレ・セラシエ皇帝はイタリアの旧植民地の返還を要求したが、ソマリ人の居住するハウドおよびオガデン地方と、その他の保留地区はイギリスの軍政下に置かれたままとなった。1949年、旧ソマリ植民地を10年間イタリアの国連委任統治下に置くことが決定されたが、エチオピア皇帝はソマリ人の民族自決の原則を踏みにじるものと非難した。一方、モガディシオで結成されたソマリ青年同盟は文化的・政治的自由を叫び、その運動はソマリア全土に急速に広がった。
 1960年6月、北部はソマリランドとして独立、同年7月、イタリアの信託統治となっていた南部と合体してソマリア共和国となった。初代大統領にはソマリ青年同盟のシェルマルケが選出された。[赤阪 賢]

政治

独立後ソマリ青年同盟を中心とする連立政権が発足したが、小民族グループを代表する政党が分立し、政情は不安定な状態が続いた。1969年10月、大統領シェルマルケが暗殺されると、軍部が無血クーデターに成功し、軍参謀長モハメド・シアド・バーレを議長とする最高革命評議会が権力を握った。国名をソマリア民主共和国と改称、評議会議長バーレは大統領に就任し、憲法を停止して議会を解散した。
 1970年10月には社会主義国家の樹立を宣言し、新たに結成したソマリア社会主義革命党による一党独裁体制を敷いた。1979年8月、国民投票により新憲法を制定、1984年12月、大統領を直接選挙で選ぶよう憲法を改正した。その間、1974年にはソ連と友好協力条約を締結した。また、独立以来、エチオピア、ケニア、ジブチにまたがって分散しているソマリ人を結集する「大ソマリア主義」を打ち出し、とくにエチオピアと領土紛争を繰り返した。1977年7月にはソマリアとの合併を主張するエチオピアの西ソマリア解放戦線を支持し、オガデン地方に侵入した。しかし、ソ連の援助を受けたエチオピア軍に敗れ、オガデン地方から撤退するとともに従来の親ソ路線を転換し、1977年11月には対ソ友好協力条約を破棄した。1980年にはベルベラ港のアメリカ合衆国の海・空軍基地としての使用を認め、そのかわりに軍事援助を受けた。エチオピアとの武力衝突は、その後も82年、83年と再燃した。
 また、オガデン地方からの150万人に上る難民が存在し、さらにソマリア民主救国戦線、ソマリア民族運動などの反政府活動も活発で、バーレ政権は政治的、経済的に難問を抱えた。1977年のオガデン地方への侵入の際、ソマリアはアフリカ諸国から非難を浴び政治的に孤立したが、81年のアフリカ統一機構(OAU)首脳会議以降、ケニア国内のソマリ人分離運動のため冷却していたケニアとは和解した。1991年、反政府勢力統一ソマリア会議(USC)の首都制圧でモハメド暫定大統領が就任したが、北部などが反発、暫定大統領派とアイディード将軍派が対立し内乱状態に陥った。
 1992年4月国連ソマリア活動(UNOSOM)が設置され、93年5月には平和執行部隊(UNOSOM )が武力行使を行ったが、犠牲者を出すなど失敗に終わり、94年11月に撤退した。1995年6月アイディードは大統領就任を宣言し、アイディード派から離脱したアリ・アト・ソマリア国民同盟(SNA)議長派をはじめ、対立する各派と戦闘を継続したが、96年8月に戦闘中の負傷により死亡した。モハメド暫定大統領は一方的に停戦を宣言した。同年10月隣国ケニアの仲介でいったんアイディード、モハメド、アトの3派の停戦合意が成立したが、その後も戦闘は継続。3派を含む武装28派は、1997年12月カイロで無条件停戦などを定めた和平協定に調印した。しかしその後も内乱は続き、2000年5月ジブチで和平会議が開かれた。同年8月にアブディカシム・サラド・ハッサンが暫定大統領に選ばれたが、氏族間の闘争、混乱が続いた。
 2002年10月より、政府間開発機構(IGAD)主導によるソマリア国民和解会議がケニアにて開催。2004年8月にケニアのナイロビに暫定連邦議会が発足し、同議会は同年10月に暫定大統領としてアブドゥラヒ・ユスフを選出した。11月ユスフはアリ・モハメド・ゲディを首相に任命。2005年1月にゲディ首相の組閣した内閣が議会によって承認された。同年6月、暫定連邦政府はソマリア入りし、ジョハールを暫定首都とした。
 他方、2006年6月に、イスラム法廷連合がモガディシュを占拠し、その後、南部地域も制圧した。同年12月24日、エチオピア軍の支援を受けた暫定連邦政府軍とイスラム法廷連合との間で戦争が開始され、同月30日には暫定連邦政府軍およびエチオピア軍が首都モガディシュを占拠、さらに南部地域も制圧した。しかし2007年11月、暫定連邦政府に反対する勢力が、モガディシュにてゲリラ戦術による抵抗を強化。予断を許さない状況が続いている。[赤阪 賢]

経済

国内総生産(GDP)は48億0900万ドル(2005)、1人当り国民総生産600ドルという数字はアフリカで低い部類に入る。独立直後、ソマリアは「援助の墓場」というあだ名をもらった。1969年のバーレ政権成立以後、自立が強調されているが、なお多くを外国の経済援助に依存している。農業では独立後バナナの生産が増大したが、これはイタリア向けの輸出作物である。サトウキビ、アワ、トウモロコシ、イネ、タバコ、ラッカセイなどの商品作物の生産も増大している。農業投資はおもに南部、とくにジュバ川流域に集中している。ソマリ住民の60%はウシ、ラクダ、ヒツジ、ヤギなどの家畜の飼養を行う遊牧民で、皮革、バター、家畜は重要な輸出品である。しかし、1974年の干魃(かんばつ)で100万頭の家畜が失われ、その後農業や漁業への定住政策がとられた。1968年には肉の缶詰工場が導入され、マグロなど魚の缶詰工場も設立され、世界銀行の援助によりモガディシオ港の掘削も進められた。しかし、その後の内戦で穀物生産が著しく衰え、1996年世界食糧計画(WFP)の要請で各国が緊急援助を行った。貿易相手国としては、輸出がアラブ首長国連邦、イエメン、ナイジェリア、クウェートなど、輸入はジブチ、ケニア、インド、ブラジル、オマーンなどとなっている。[赤阪 賢]

社会

住民の大部分はソマリ人で、ディル、イサク、デキルなどの集団に分かれるが、それらには文化的、言語的、宗教的な共通の基盤がある。そのためソマリアはアフリカでも珍しい一民族、一文化、一言語の国である。また、100万人以上のソマリ人がケニアなど国境を越えて居住している。スンニー派のイスラム教を奉じ、言語ではハム語系のソマリ語が公用語であり、1972年以降ラテン文字表記で書くことになった。さらに、アラビア語、イタリア語、英語も教育のある人々に用いられている。南部の沿岸の町ではスワヒリ語も普及している。
 遊牧民が多いため、初等教育は義務教育にもかかわらずあまり進んでいない。初等学校生徒数は19万4335人、中等学校生徒数は3万7181人(1985)にすぎない。モガディシオのソマリア国立大学は1959年に創設され、4650人(1994)の学生がいる。[赤阪 賢]

日本との関係

日本は、1960年(昭和35)7月に独立を承認したが両国関係はいまだ希薄である。貿易は日本からの輸入が自動車、貨物自動車などで2800万円、日本への輸出は生鮮魚類などで6100万円(2005)。日本からの政府開発援助(ODA)実績は、2005年度までの累計で有償資金協力が64.70億円、無償資金協力が178.75億円、技術協力実績が8.68億円となっている。[赤阪 賢]

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