フランスの画家。大革命前からナポレオンの没落まで、新古典主義の指導者として、19世紀絵画の発端を形成した。パリに生まれる。聖ルカ組合に、ついでアカデミー・サン・リュックでジョゼフ・ビアンの教室に学び、数度の失敗ののち、1774年ローマ賞を受け、翌年ビアンとともにイタリアに行く。古代、ルネサンスの作品に深い感動を覚え、同時に当時の新古典主義の思潮に促され、パリの修業時代とはまったく逆に新古典主義を探究して80年帰国。翌年よりサロンに出品、83年にアカデミー会員となるが、最終的に再度のイタリア旅行で仕上げられた『ホラティウス兄弟の誓い』(1785サロン出品・ルーブル美術館)によって、テーマ的にも題材的にも新しい美学を確立し、新古典派を統率することとなる。古代風の英雄主義的モラル、色彩に対する形態や線の優位は、以後19世紀なかばに至るまでアカデミズムの基本的な原理となった。
こうした画風を生み出させた背景は、大革命からナポレオン時代へと展開するが、ダビッドはジャコバン党員、国民議会議員などの革命時の多彩な活動、ロベスピエール没後の二度の投獄、そしてナポレオンの首席画家、王政復古後のブリュッセル亡命(1816)という変転を経験する。大革命時の芸術活動は『マラーの死』(1793・ブリュッセル王立美術館)、ナポレオンの画家としては『ナポレオンの戴冠(たいかん)』(1805~07・ルーブル美術館)などがあり、単なる古典主義者ではない、現実の歴史の目撃者としてのダビッドの視覚の確かさや構想力の大きさを伝える。また、やはり古典主義の名作の一つ『サビニの女たち』(1799・ルーブル美術館)は投獄中に構想された。ブリュッセル亡命後は、王政との和解を拒否し、同地に没する。パリ時代以来、彼のアトリエはジロデ、ジェラール、グロなど多くの弟子を育成し、古典派、ロマン派の双方に影響を与えた。肖像画家としても優れ、『ラボアジエ夫妻像』(1788・メトロポリタン美術館)など同時代人を的確に見つめている。
[中山公男]
『大島清次解説『新潮美術文庫19 ダヴィッド』(1976・新潮社)』
フランスの法学者。パリに生まれる。パリ大学卒業後、グルノーブル大学、パリ大学、エクス・マルセイユ大学において比較法の講義を担当した。ナポレオン法典制定(1804)以降、法学者が自国の法の研究のみに専念してきたことに警鐘を鳴らし、国際関係があらゆる領域において重要性を帯びてきている現実を踏まえ、真の法文化構築のためには外国法に配慮することが必要だと説いた。そして法学に国境はないと指摘し、正義と平和を基調とする比較法研究の現代的意義を強調した。主著『比較民事法原論』Traité élémentaire de droit civil comparé(1950)において、宗教上、哲学上の相違等に基づいて現代世界の法を分類した。ヨーロッパ大陸法と英米コモン・ローの相違は法技術上の相違によるものであると指摘し、両者を西洋法として統一的に把握した。これを大学の講義のために要約した著書が『現代の主要法体系』Les grands systèmes de droit contemporains(1964)である。そのほか、フランスの法的伝統、立法・行政・司法、法曹、法概念、法源などについて論じた『フランス法』Le droit francais(2巻。1960)がある。
[野村敬造・畑 安次]
フランス新古典主義の代表的画家。フランス革命初期の数年間は熱烈な革命派として,ナポレオン台頭後はその主席画家として,革命およびナポレオン時代の諸事件の視覚的な記録を後世に残した。パリに生まれ,1766年,絵画における新古典主義様式の創始者の一人ビアンJ.Vienの弟子となる。74年,数度の失敗の後にローマ賞を獲得,翌年から5年間ローマに留学。この間ルネサンス以降のイタリア絵画から堅固な造形法と力強い陰影法を学び,また批評家カトルメール・ド・カンシーとの交友を通じて古代芸術の様式の構築性と古典的主題の偉大さに目覚め,ロココの軽妙洒脱を放棄するに至る。こうした新古典主義的な理想はパリ帰還後の,《ホラティウス兄弟の誓い》(1784),《ソクラテスの死》(1787)などによって達成され,パリ画壇の新潮流となった。89年,革命勃発直後のサロンにローマ共和政の理想をたたえた《ブルトゥスのもとに息子の遺骸を運ぶ警士たち》を出品,自他ともに認める革命派の芸術家となった。国民議会の委嘱により《ジュ・ド・ポームの誓い》(未完)下絵を制作,92年国民議会議員となり,ジャコバン派に属しつつ革命の綱領に沿うべく美術教育の再編成を行う。93年《マラーの死》制作。94年国民議会議長に任命されるが,ロベスピエール失脚とともに投獄される。99年,《サビニの女たち》によって画家としての名声を取りもどし,1801年《サン・ベルナール越えのボナパルト》を描く。04年,ナポレオンの皇帝即位とともにその主席画家に任命され,大作《ナポレオン戴冠式》をはじめ,皇帝を称揚する絵画を次々に制作する。ナポレオン失脚の後,ブリュッセルに亡命し,再三の帰国の機会を無視して同地で客死した。
ダビッドの芸術は,その最良の部分においては,フランス新古典主義の頂点を画すと同時に,西洋近代絵画の生んだ最も優れた写実主義を示している。しかし,むら気な性格であったといわれる彼は,生涯にわたってしばしば,青年期のロココ的雰囲気を漂わせた通俗な神話画を描いたり,理想化を伴わない無味乾燥な写実的技法による肖像画を描いている。
執筆者:鈴木 杜幾子
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…また,マリー・アントアネット,アルトア伯,シャルトル公の椅子や寝台なども製作した。フランス革命直前には,竪琴形の背もたれやギリシアのクリスモス(小椅子)のサーベル形の脚を導入し,新古典主義の画家J.L.ダビッドのために古典古代の家具の形をとり入れた実用的な家具を製作した。ジャコブはフランス革命で破産したが,ダビッドの支援を得てナポレオンの宮廷建築家C.ペルシエ,P.フォンテーヌの家具デザインを製作,古代ローマ風を基礎としたフランスのアンピール様式を確立させた。…
…また,イギリスで活躍したスイス人フュッスリ,デンマークのアビルゴールのように,ロマン派的気質を濃厚に持った画家たちが登場していることは,新古典主義がロマン主義と共通の根を持っていることを示している。 しかし,新古典主義の最も代表的芸術家は,絵画ではダビッド,彫刻ではカノーバである。ローマ滞在中の《ホラティウス兄弟の誓い》で名声を確立したダビッドは,革命期(《マラの死》《サビニの女たち》等),帝政期(《ナポレオンの戴冠式》)を通じて活躍し,多くの弟子たちを育てあげた。…
…【石坂 昭雄】
[美術]
近代国家としてのベルギーの誕生(1830)は,この地域における初期中世以来の古く豊かな美術伝統の断絶を意味するものではないが,ここでは便宜上19世紀初頭以降のみを扱う。 フランス新古典主義の領袖ダビッドが1816年から25年に没するまでをブリュッセルで送ったことは,同地を中心とした新古典主義アカデミズムの確立に決定的に作用し,ダビッドの一番弟子ナベスFrancois‐Joseph Navez(1787‐1869)はアングルを思わせる肖像画によって多大な名声を博した。他方,やや遅れてアントウェルペンでは,ワッペルスGustave Wappers(1803‐74),レイスHenri Leys(1815‐69)など,自国およびドイツの絵画伝統に根ざしながらフランスのドラクロアを範として自国の歴史的事件を描くロマン主義者が台頭する。…
※「ダビッド」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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