アフリカ大陸北東部,ウガンダとエチオピアの湖や山地から発して,スーダン,エジプトを貫流して地中海に注ぐ全長約6700kmの大河。アラビア語ではニールal-Nīlと呼ばれる。
ウガンダのビクトリア湖から流れ出た直後,ビクトリア・ナイルと呼ばれる流れはスーダン南部の大沼沢地を抜け,いくつかの流れを集めて白ナイルal-Nīl al-Abyaḍとなる。エチオピアのタナ湖から発する青ナイルal-Nīl al-Azraqはスーダンの首都ハルツームで白ナイルと合流してナイル本流となって北に向かう。青ナイルは,季節風による降雨の影響をうけて増水期に多量の水を流すことがあり,エジプトにおける洪水のもとともなる。スーダンのアトバラでさらにアトバラ川`Aṭbaraが合流する。ハルツームからエジプトのアスワンにかけて,途中六つの急流(瀑布)が形成される。アトバラ川の合流以降,合流ないし分岐する支流もなく北流し,エジプトの首都カイロの北でロゼッタ支流およびディムヤート(ダミエッタ)支流に分かれ,広大なナイル・デルタを形成して地中海に注ぐ。
長いナイル川の流域のうち,水源からスーダン南端にかけては熱帯雨林地帯,スーダンのうち南半分は半乾燥地帯をなし,それ以北地中海に至るまで砂漠に囲まれた乾燥地帯をなしている。
ナイル川の特性は,水源地帯での雪どけ水などのため,毎年きわめて正確な周期で増減水を繰り返す性格を備えていることにある。ナイル川の増水期は毎年7月半ばから11月ないし12月にかけ,減水期は1月から6月すぎにかけての期間である。ナイル川の年間平均流量はアスワンでの観測でおよそ820億m3であり,その80%にも相当する量が増水期に集中し,残るわずか20%が減水期に流れる。
ナイル川の水を人間生活に利用するには,増水期の水量はあまりに大きく,洪水を起こす危険があり,また減水期の水は増水期に比べあまりにも少量であるため,これまた利用が困難であった。ナイル川の水を灌漑用水として,またごく最近では水力発電のために,有効に利用しようとするくふうの歴史は長く,いくつかの発展段階からなり,主としてエジプトでの流域で展開されてきた。
ベースン灌漑とは,ナイル川の流域に堤防で囲ったベースンbasin(水盤,ため池などを意味する英語。アラビア語ではハウドhawḍ)をつらね,ナイル増水期の水の一部をベースン水路で導入し,各ベースンに水を張って数週間湛水し,その間にベースン内の土地に水を吸収させるとともに増水期の水が含む有機質肥料分に富むシルト(泥土)を地面に沈殿させる灌漑方式である。土地に十分な水分を吸収させた後余分な水を排水し,泥状の地面に小麦などが直接播種された。
この灌漑方式はエジプトで紀元前何千年もの昔に開発された。増水期ナイルの巨大な水のエネルギーに逆らわないため,まずナイル川西岸でのみベースン灌漑が導入され,東岸は増水期の水があふれるに任せ,安全弁の役を果たさせた。護岸技術が進み,ナイル川の堤防を強化することができるようになり,またファイユーム地区の大くぼ地を遊水池に仕立て,必要なら増水期の水の一部をそこに放水しうる体制が整えられた前1900年ころ以降に,東岸にもベースン灌漑が広げられた。
ベースン灌漑方式は,耕地となるベースン内の土地に水分と有機質肥料を供給したため,土地生産性のきわめて高い農業を可能にした。古代エジプトの諸王朝の繁栄や,ピラミッドなど巨大なモニュメントの築造に投入された膨大な量の非生産的奴隷労働力への食料供給は,主としてこの生産性の高い農業によってまかなわれたのであった。
ベースン灌漑方式はエジプトの長い歴史の過程で,ときに荒廃し,またときに修復されながら,19世紀初めまで基本的に維持されてきた。ベースン灌漑方式はすばらしい技術であったが,この方式では灌漑用水が得られるのは年1回の増水期のみであり,それに続く作付けも11月から12月に播種し翌春に収穫される小麦など,年1回のいわゆる冬作しかできないという欠点があった。
19世紀以降エジプトでは綿花を栽培して輸出することが計画されたが,綿花は,減水期でナイルの水位が最も低い3~4月に播種され,10月ころに収穫される夏作であり,ベースン灌漑では栽培不可能な作物であった。
ベースン灌漑方式のベースン水路は浅くて,ナイル川が増水し水位が高くなったときにのみ水が流入する水路であった。この水路を深く掘り下げ,減水期の低い水位の水でも流入するような運河が掘られ,この深い運河は夏運河と呼ばれた。夏運河には増水期では大量の水が,減水期でも低い水位ながら水が流入した。夏運河の低い水位の水は水車など揚水機具を使って耕地まで汲み上げられ,灌漑がなされた。これでナイルの増減水にかかわらず,年間を通じて灌漑が可能となった。
夏運河による通年灌漑方式はデルタ地帯を中心に導入され,綿花の栽培が普及した。エジプト綿花は品質の優れた長繊維綿花であり,今日に至るもエジプトの最も重要な輸出農産物である。
シルトを豊富に含むナイル増水期の水を使うベースン灌漑下の農業では,人工的な肥料を施す必要はほとんどなかった。夏運河によってシルトの少ない減水期の水を用いる綿花栽培が普及するにつれ,地力維持のため施肥や作付けローテーションを導入することがしだいに必要となった。
夏運河による通年灌漑は,単に運河を深く掘り下げて,低水位の水が流入するのを待つという受身で,幼稚な利水技術であった。やがて夏運河に積極的に水を送り込むくふうがなされるようになった。
減水期の低い水位で少ない水量のナイル本流の流れを,夏運河の取水口の所でせき止め,水位を上げて流入させようと堰堤が築かれるようになったのである。最初の堰堤は,ナイル川がロゼッタ,ディムヤートの2支流に分岐するところに築かれたデルタ堰堤で,1891年より稼働した。増水期の水圧で崩壊しないように,堰堤には多数の水門がつけられ,増水期には開門して水を流し,減水期には閉門して水をせき止め,水位を上げるようにくふうされていた。デルタ地帯に延びる幹線夏運河への減水期の水の流入は,従来に比べ大量・高速となり,夏運河通年灌漑面積の拡大をもたらした。同様の堰堤が上流のアシュート,ナグ・ハマディNaj`ḤamādīやイスナーIsnāなどにも築かれた。
ヨーロッパ先進国の技術援助で構築された堰堤は,ナイル川の流れに初めて積極的に立ち向かう近代的な利水技術であった。しかし堰堤は減水期の水をせき止め,水位をわずか上げるだけで,大量に貯水する技術ではなかった。さらに積極的な治水・利水技術として,増水期の水を貯水し,減水期に放水するためにはダムが建設されなければならなかった。
アスワン・ダムはこの目的で建造されたもので,1897年着工,1903年に完工し,それ以後何回か拡張工事が施された。アスワン・ダムの貯水能力は9億9000万m3であり,利用可能なナイル川の水のまだ一部分を貯水しうるにすぎなかった。貯水量を飛躍的に高め,ナイル川の水を余すところなく利用する体制を目ざしたのがアスワン・ハイ・ダムであり,ナイル川の近代的通年灌漑体系の完成をもたらすものであった。
アスワン・ハイ・ダムは多目的(灌漑,洪水調節,発電)ダムで,1960年ソ連の援助で着工され,10年の工期を要し70年に完工した。このダムによってできた大貯水池ナーセル湖(1981年ハイ・ダム湖と改められた)の貯水量は1570億m3と巨大である。増水期の水を大量に貯水し,減水期に放水して各地の堰堤で受けとめ,水位を上げて各幹線夏運河に送り込む体制が完成した。
アスワン・ハイ・ダムによって,通年灌漑の拡大・改善がなされた。まずナイル上流地域にまだ残っていた約294万haのベースン灌漑地が通年灌漑地に転換された。それによって従来年1回の作付けしかできなかったところで1回以上の作付けが可能となり,耕地面積は同じでも作付け面積の大幅拡大がもたらされた。
また,豊富な灌漑用水が利用できるようになり,約42万haもの耕地造成が見込まれ,エジプト全体の通年灌漑面積は約25%増となると期待されている。従来一応は通年灌漑化されていたところでも用水不足から十分な灌漑ができなかったような地域では,灌漑改善が実現し,土地生産性が高まると計画されている。
しかし,アスワン・ハイ・ダムによって深刻な問題が生じていることも確かである。その一つに,ハイ・ダム湖底にすべてのシルトが沈殿し,この有用な肥料分がまったく耕地に供給されなくなってしまったことがある。エジプトの農業は今後ますます化学肥料などに頼る体質が強まると懸念されている。また,灌漑用水が増大したのに対し,排水設備が立ち後れていることから,灌漑過多となり,地下水位が上昇して塩害が深刻になっていることも問題点の一つである。アスワン・ハイ・ダムの完工によって,ナイル川の水は余すところなく利用される体制は完成したとはいえ,エジプト農業がかかえる問題のすべてが解決したわけではないのである。
ナイル川の水を利用して農業開発を推進しているのはエジプトだけではない。スーダンでもナイル川の水の利用は盛んである。その代表的な例がゲジーラ農業開発地域である。青ナイルの上流センナールにダムを築き,灌漑用水を引いて,およそ80万haの農地で9万人の農民が開発に従事している。ここでのおもな作物は長繊維綿花で,穀物や油料作物,飼料作物も栽培されている。ゲジーラ地域の農業生産はスーダンのGNPに対しておよそ30%も寄与しており,スーダン経済の中心になっている。
スーダン南部の大沼沢地ではジョングレ運河計画が進行中である。この運河は沼沢地の水流を整え,白ナイルへの流水量を増加させ,全体としてナイル川の流量を増大させる遠大な利水プロジェクトである。スーダンには未利用の水資源をはじめ,豊富な農業資源が多い。アラブ諸国全体で資金や技術を拠出し合って,スーダンで農業開発を推進し,スーダンをアラブ全体の穀倉に育成しようとする壮大な25ヵ年計画もある。その成否はナイル川の水の利用にかかっている。
→エジプト
執筆者:石田 進
ナイル川の肥沃な流域とその規則的な氾濫は古代エジプト文明誕生の基礎となった。エジプトに統一国家が生まれたのは前3100年ころで,アスワンから地中海に至る1200kmの流域が文明の舞台として3000年間にわたって栄えた。前5世紀のギリシアの史家ヘロドトスは〈エジプトはナイル賜物(たまもの)〉と記した。後期のエジプト文明はアスワンより上流のヌビアにもひろがり,前7世紀成立のメロエ王国はエジプト的要素とアフリカ的要素を複合した独自の文化を築いた。ナイルの水源について古代エジプト人は知識をもっていなかった。後1世紀のギリシアの船乗りディオゲネスは,東アフリカ海岸から内陸部にはいり,ナイル川の水源が二つの湖であるとの情報をもたらした最初の人である。2世紀のアレクサンドリアの地理学者プトレマイオスはナイル水系図に二つの大湖を描いた。中世には,ナイル川,ニジェール川,コンゴ川,チャド湖は同一水系に属するものとみなされていた。1615年,ポルトガルの修道士ペドロ・パエスPedro Paez(1564-1622)はエチオピアに赴き,青ナイルの水源タナ湖に達した。これを水源として確証したのはスコットランドの探検家ジェームズ・ブルースで1770年10月のことである。
1820年,エジプト総督ムハンマド・アリーはナイル水系調査隊を派遣し,隊は白ナイルと青ナイルの合流点ハルツームまでを調査した。さらに同総督は1839年から42年にかけて3回にわたって調査隊を派遣した。隊の達した最南地点はゴンドコロで,ビクトリア湖の下流約500kmの地点であった。ナイル川をさかのぼるのではなしに,東アフリカ海岸から内陸に入るというコースを取ったのはイギリスの探検家R.F.バートンとスピークJohn Speke(1827-64)である。彼らは58年2月タンガニーカ湖を発見した。そのあとバートンが病気で動けなくなったため,スピークがしばらく単独調査を進め,同年7月30日,白ナイルの水源ビクトリア湖を発見した。ただしその証明は不十分であったので,スピークは60年に再度のビクトリア湖探査に赴き,61年7月21日,湖水が北流して出る口を発見,水系の主要部をゴンドコロまでたどった。ビクトリア湖が白ナイルの水源であることを確定的に証明するのはイギリスの(一時はアメリカ国籍)探検家H.スタンリーで,1875年のことである。
執筆者:酒井 傳六
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アフリカ東部を北流する世界最長の川。白ナイル川水系のビクトリア湖に流入する最大の河川であるカゲラ川の源流部(ブルンジ領)が水源とされる。そこから東地中海に流入するまでの全長は6690キロメートル、緯度差で30度に達する。白ナイル川、青ナイル川など多数の支流をあわせた全流域面積は300万7000平方キロメートルで、そこには、ブルンジ、ルワンダ、ウガンダ、スーダン、南スーダン各国の領土の大半と、エチオピア西部、エジプト東部、およびケニア、タンザニア、コンゴ民主共和国(旧ザイール)の各一部が含まれる。年降水量2000ミリメートルに達する熱帯山地で涵養(かんよう)された水を、一年中ほとんど雨の降らない下流の乾燥地帯に運ぶ、天然の一大水路である。
[田村俊和]
白ナイル川は上流域に年中多雨の地域を含み、またアフリカ最大の湖ビクトリア湖やその下流に連なるキョーガ湖沼群、西リフト・バレー(大地溝帯)、北部のエドワード湖やアルバート湖、さらには中流部の大湿地帯(スッド盆地)などで流量が調節されるため、その下流にもたらされる流量は年間であまり大きく変動せず、源流から主としてサバナおよびステップ地帯を4800キロメートル下ったハルトゥーム(青ナイル川との合流点)で、1日4000万立方メートル(4~6月)から1億1000万立方メートル(10~11月)の範囲にある。これに対して雨季・乾季の明瞭(めいりょう)なエチオピア高原に発する青ナイル川は、ハルトゥームでの流量が1日3000万立方メートル以下(12~5月)から3億7000万立方メートル(8~9月)と大きく変動する。ハルトゥームからアスワンまで約2000キロメートルの区間はおもに岩石砂漠で、基岩中の断層に支配されて流路がしばしば直角に曲がり、急流部(アスワン付近から上流へ順に番号でよばれる)も多いので、航行には利用しにくい。この区間でアトバラ川(8~9月に増水)をあわせ、ナセル湖に流入する水量は8~9月に1日約5億立方メートルあるが、11月には1億3000万立方メートルに減り、さらに翌年6月まで徐々に減少する。かつては、この季節変動の大きい流量が、そのままアスワンから砂漠に浮かぶ幅10~20キロメートルの緑の谷を千数百キロ流れ下ってデルタ地帯にもたらされ、そこでの農業およびデルタの地形そのものを発達させていた。
[田村俊和]
カイロ付近を頂点とするナイル・デルタは、東西を高原状の砂漠に挟まれた三角形の大オアシス(面積約2万平方キロ)である。流路は、ロゼッタ川、ダミエッタ川の二大分流をはじめ多数の流れに分岐し、各流路沿いには自然堤防が発達している。自然堤防に挟まれた低湿地に人工の土堤を築き、その囲みの中に増水期に氾濫(はんらん)水を導き入れ、1か月半ほど湛水(たんすい)させて濁水中の養分に富む泥土を沈殿させ、放流後翌年まで無肥料で作物を栽培するというのが、この地域の伝統的な氾濫灌漑(かんがい)(囲い式沈殿灌漑)である。これが世界最古の起源をもつ農耕文明の基盤であったが、1835年に前述の二大分流の分岐点に堰(せき)がつくられ、デルタ域で人工灌漑水路が整備され始めた。その後1902年のアスワン・ダム、1971年のアスワン・ハイ・ダムの完成により、下流部での氾濫はなくなり、一方で人工の用・排水路が整備されたため、氾濫灌漑は不要かつ不可能になった。しかし、蒸発の激しい砂漠地帯につくられたナセル湖に蓄えられた水を、これも蒸発の激しい地帯を覆いのない水路で各耕地に配水し、さらに蒸発の激しい畑地に灌漑することは、土壌中の塩分濃度を著しく高める。一方、かつては土壌中に集積した塩分を洗い流す役割も果たしていた氾濫水の湛水は、もはやまったく行われていない。したがってナイル・デルタ一帯では、いまや、塩類土壌の形成による農耕基盤の破壊が深刻な問題になっている。さらに、河川の運ぶ土砂がダムでせき止められるため、デルタ地帯の流路底や海岸部が侵食を激しく受けるようになり、デルタは現在縮小しつつある。
[田村俊和]
古代エジプト王国は、時代によって支配地に変化が生じているが、本来のエジプトはアスワンから地中海までであった。ここを流れるナイル川の長さは1500キロメートル。ヘロドトスの有名なことば「エジプトはナイルの賜物(たまもの)」は、もともとはデルタ地帯がナイルの流砂によって生まれたということを述べているのであるが、今日ではそれを拡大して、「エジプト文明はナイルの賜物」という意味に解するようになっている。そして、それは理にかなっている。
まずナイルは生産の母であった。ナイル自体の養う魚の富、流域に繁殖する鳥獣の富があり、そして、ナイルに依存する農耕地があった。他の地域のすべての川が夏になると弱るか涸(か)れるかするというのに、ナイルは夏になると勢いを増して氾濫する。7月から10月にかけてのこの氾濫が、エジプト農地に肥料をもたらし、塩分を排除し、地味を豊かにした。一方、デルタ地帯の沼沢地にはパピルスが密生した。これはまず造船材となり、ついで製紙材となり、その紙がエジプトの文字と絵画を発達させる重要な基礎となった。この氾濫は、エジプト人に治水、測地、天文の学と技術の開発を促し、そのことは流域住民のばらばらの集団を広範囲に結び付ける力となった。定期的氾濫はまた、エジプト人の復活と永遠の宗教思想を生み出すのにも一つの役割を果たした。
その次には、ナイルは交通路であり輸送路であった。交易も旅行も、あるいはまた軍事行動も輸送も、すべてこのナイルに依存していた。こうして、造船術と航海術が発達した。
ナイル流域の岩石はエジプト人の創造力をもっとも刺激し開花させた資源である。石灰岩、砂岩、花崗(かこう)岩、閃緑(せんりょく)岩、片岩、孔雀(くじゃく)石、アラバスターなどを切り出し、ピラミッド、神殿、オベリスク、彫像のほか、宗教用具、日常用具に仕上げた。そのとき、信仰、芸術、技術のほかに組織力が発揮された。
このようにしてナイルはエジプト人の政治、経済、文化、宗教の各分野に決定的な役割を果たした。古代エジプト人がナイルをハピと称して神格化したのも、ナイル賛歌を数多く捧(ささ)げたのも、きわめて自然なことであった。彼らは地理学上のナイルをさすときはイオテル(川)とよんだ。ナイルという呼称はギリシア語のネイロスに由来する。
[酒井傳六]
『NHK取材班『ナイル』(1968・日本放送出版協会)』▽『A・ムアヘッド著、篠田一士訳『白ナイル』(1970・筑摩書房)』▽『鈴木八司著『王と神とナイル』(1970・新潮社)』▽『A・ムアヘッド著、篠田一士訳『青ナイル』(1976・筑摩書房)』▽『吉村作治監修『エジプトの全遺跡』(1985・日本テレビ放送網株式会社)』▽『酒井傳六著『古代エジプトの謎』(社会思想社・現代教養文庫)』
アフリカ北東部を流れる世界最長の大河(6690km)。ウガンダのヴィクトリア湖に発する白ナイルとエチオピアのタナ湖に発する青ナイルは,スーダンのハルツーム付近で合流。下流では水位の周期的増減と肥沃なデルタが古代エジプト文明を育み,ヘロドトスは「エジプトはナイルの賜物」と記した。さらに流域にはメロエ王国なども成立した。また,ナイル川の水源の特定はアフリカ探検の最大の目標の一つで,1770年ブルースがタナ湖を青ナイル水源と「確証」し,1862年スピークが白ナイル水源のヴィクトリア湖を「発見」した。ナイル川の水資源利用のためエジプトではさまざまな灌漑設備が考案されたが,1903年完成のアスワン・ダムや70年完成のアスワン・ハイダムがその代表例である。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…前7世紀の第26王朝ネコ2世はフェニキア人を雇ってアフリカ周航をさせた,と前5世紀のヘロドトスは記している。内陸部への進出はナイル川をさかのぼって行われた。古代エジプト王国が達した南限はハルツームに近い第6急流地帯である。…
…アフリカ大陸の北東隅,ナイル川第1急湍(たん)以北の約1200kmにわたる細長い流域地帯が本来のエジプトで,地形上幅8~25kmの河谷地帯(上エジプト)と河口のデルタ地帯(下エジプト)とからなる。古くよりガルビーヤ砂漠中のオアシス(シワSiwa,バフリーヤal‐Baḥrīya,ファラーフィラal‐Farāfira,ダーヒラal‐Dākhila,ハーリジャ(カルガ)al‐Khārija,Khargaの各オアシス),第1・第2急湍間の下ヌビア,紅海沿岸,シナイ半島を勢力圏とし,この地域は現在のエジプト・アラブ共和国にほぼ対応する。…
…天水農業はシリア,ジャジーラ,アナトリアに広くみられる粗放な農耕法であるが,これらの地方でも果樹園の経営や夏作物(綿,サトウキビ,野菜など)の栽培は小河川や井戸水を用いて行われた。一方,灌漑農業はティグリス・ユーフラテス川やナイル川の流域でとくに発達した集約農法であり,冬作物(小麦,大麦,豆類,アマなど)を中心とする農業生産力は播種量の数十倍に達した。またイランでは,蒸発を防ぐために地下の暗渠(カナート,カレーズ)によって水を導く乾燥地域に特有な引水法が考案され,テヘラン周辺やイスファハーンなどの高原地帯では現在でもこの方法が用いられている。…
…正式名称=スーダン民主共和国al‐Jumhūrīya al‐Sūdānīya al‐Dimqurātīya∥Democratic Republic of the Sudan面積=250万3890km2人口(1996)=3106万人首都=ハルトゥームal‐Khartūm(日本との時差=-7時間)主要言語=アラビア語,ディンカ語,ヌエル語ほか通貨=スーダン・ポンドSudanese Poundアフリカ北東部,ナイル川の上・中流域に広がる共和国。北東は紅海にのぞみ,北はエジプト,西はリビア,チャド,中央アフリカ共和国,南はコンゴ民主共和国,ウガンダ,ケニア,東はエチオピアに接するアフリカ最大の国である。…
…78年にもガンガー平原一帯が大洪水に見舞われ,大きな被害があった。【応地 利明】
【西アジア,エジプト】
治水事業は,ティグリス川,ユーフラテス川とナイル川に集中して行われてきた。メソポタミアに中央集権的な国家を建設したバビロン第1王朝のハンムラピ王は,ユーフラテス川とティグリス川を結ぶ大運河を幾本も開削し,それらを無数の小運河で結ぶことによって,毎年5月に起こる洪水を統御するとともに,両河の水を灌漑水として有効に利用する体系をつくりあげた。…
…頂部は最高峰のスタンリー山群を中心に,北東のスピーク,ゲシ,エミン,南東のベーカー,ルイジなど氷食地形のみられる6山群で構成される。古代エジプトでナイル川の水源と考えられていた〈月の山〉とは,この山地を指していたと推定されるが,ヨーロッパ人による実見は,1889年のスタンリーが最初といわれる。彼の名をとった山群の主峰は,マルゲリータ峰(5109m)とアレクサンドラ峰(5091m)の双頭である。…
※「ナイル川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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