バルトーク(読み)ばるとーく(その他表記)Bartók Béla

デジタル大辞泉 「バルトーク」の意味・読み・例文・類語

バルトーク(Bartók Béla)

[1881~1945]ハンガリーの作曲家。マジャール古民謡を収集し、独自の音楽技法を開拓。作品に6曲の「弦楽四重奏曲」「弦楽器・打楽器・チェレスタのための音楽」など。

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精選版 日本国語大辞典 「バルトーク」の意味・読み・例文・類語

バルトーク

  1. ( Bartók Béla ━ベーラ ) ハンガリーの作曲家。ピアノ奏者。コダーイとともに東欧の民謡を録音・採譜し、その素材に基づいて激しい不協和音や打楽器を重視した新しい技法を確立。現代音楽の可能性を開いた。のちアメリカに亡命、その地で死亡。六曲の弦楽四重奏曲、ピアノ協奏曲、ピアノ曲集「ミクロコスモス」などが有名。(一八八一‐一九四五

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「バルトーク」の意味・わかりやすい解説

バルトーク
ばるとーく
Bartók Béla
(1881―1945)

ハンガリーの作曲家、民族音楽学者、ピアノ奏者。ハンガリーとその周辺諸国の民謡を収集・研究し、民謡研究の成果と西欧芸術音楽の伝統、20世紀初頭の新技法を融合した独特の作風を確立。20世紀前半を代表する作曲家となっている。

[益山典子]

生涯

3月25日ナジセントミクローシュ(現ルーマニア領)に生まれる。父は農業学校の校長で熱心なアマチュア音楽家だったが、1888年33歳の若さで病死。以後一家は転々と居を移し、ピアノの巧みな母が音楽教師をして生活を支えた。幼少時より楽才を示したバルトークは、11歳で自作のピアノ小品やベートーベンのソナタを公開演奏会で弾くまでになった。98年ウィーン音楽院の入学許可を得たが、4歳年長の友人ドホナーニの勧めに従い、1899~1903年ブダペスト音楽院に学ぶ。在学中ハンス・ケスラーHans Kössler(1853―1926)に作曲、トマーン・イシュトバーンThoman Istvan(1862―1940)にピアノを師事。優秀なピアニストと評価される一方、作曲面ではR・シュトラウスに心酔しながら、自己の音楽を求めて模索を続けた。卒業の年、民族独立運動の高まりに刺激を受けて、ハンガリーの国民的英雄の生涯を題材にした交響詩『コシュート』を書き、大成功を博した。05年にはパリのルビンシテイン・コンクールに参加したが、ピアノ部門ではバックハウスに次ぐ第2位にとどまり、作曲部門でも入賞を逸した。

 一方、同じ1905年、終生変わらぬ友情を抱き合ったコダーイに啓発され、共同でハンガリー農民音楽の収集研究を始める。以後第一次世界大戦で調査活動が不可能になるまで、ハンガリー国内をはじめ近隣のルーマニア、スロバキアや北アフリカを回り、民謡採集を続けた。1907年母校のピアノ教授に任命され、30年近くその職にあるかたわら、欧米各地に演奏旅行を行う。11年コダーイらと新ハンガリー音楽協会を設立し、若い作曲家たちの作品発表の場を確保しようとしたが失敗、同年作曲のオペラ『青ひげ公の城』も受け入れられず、民謡研究と『ルーマニア民俗舞曲』(1915)など民謡に基づくピアノ曲の作曲に没頭した。17年バレエ『かかし王子』が成功裡(り)に初演され、また国外での名声の高まりによってハンガリーでの立場も好転し、23年、ブダペスト併合50年祭のために委嘱を受けて『舞踏組曲』を作曲。その後一時筆を休めて熟考したのち、26年のピアノ・ソナタやピアノ協奏曲第1番を皮切りに創作の絶頂期を迎え、弦楽四重奏曲第5番(1934)、『弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽』(1936)、『2台のピアノと打楽器のためのソナタ』(1937)、バイオリン協奏曲第2番(1937~38)など傑作を次々に生み出した。

 1939年、ナチズム支配の政治状勢に絶望、弦楽四重奏曲第6番を決別の歌として書き上げたのち、翌年10月アメリカに亡命。初め自作への無理解と病気のため悲惨な生活を送ったが、43年指揮者のクーセビツキー依頼の『管弦楽のための協奏曲』を書いて創作意欲を回復した。しかしこれもつかのまで、ピアノ協奏曲第3番とビオラ協奏曲を未完に残したまま、45年9月26日ニューヨークで白血病のため没した。

[益山典子]

作品の特徴

バルトークは、当初、民族運動の音楽面での実践として政治的関心から民謡に向かったが、やがて民謡のもつ生命力に目覚め、その音組織やリズムなどの構成要素を抽出して自己の音楽語法の基礎に据えた。1930年代円熟期の諸作品においては、こうして獲得された独特の語法と、西欧伝統音楽の論理的形式感が統合され、さらにきわめて個性的な均衡感覚が加わって、精緻(せいち)で緊張に満ちた音楽がつくりあげられている。作風は、(1)ブラームス、リスト、ワーグナー、ついでR・シュトラウスから影響を受けた後期ロマン派様式をみせる習作期、(2)民謡と同時期に知った印象主義音楽とにより自己の活路をみいだし、さらにシェーンベルクらの当時最先端の技法を取り入れて、荒削りで不協和な響きを前面に出した初期、(3)民謡研究の成果と同時代の音楽からの影響を融合させ、独自の語法を確立した中期、(4)渡米後の平明な新古典主義的傾向が著しい後期、としだいに変化していった。作品には、舞台作品3曲、協奏曲を含む管弦楽曲多数、『ミクロコスモス』(1926~39)など教育用作品を含む多くのピアノ曲、20世紀の最高傑作に数えられている六つの弦楽四重奏曲などの室内楽曲、ほかに独唱や合唱のための民謡編曲がある。また民族音楽研究の先駆者としても業績が高く評価されており、民謡に関する著作を多数残している。

[益山典子]

『羽仁協子訳・編『ある芸術家の人間像――バルトークの手紙と記録』(1970・冨山房)』『岩城肇訳『バルトーク音楽論集』(1992・御茶の水書房)』『H・スティーヴンス著、志田勝次郎・宇山直亮他訳『バルトークの音楽と生涯』(1961・紀伊國屋書店)』『E・レンドヴァイ著、谷本一之訳『バルトークの作曲技法』(1978・全音楽譜出版社)』『F・ボーニシュ編著、出川沙美雄訳『写真と資料でみる――バルトークの生涯』(1981・国際文化出版社)』『セーケイ・ユーリア著、羽仁協子・大熊進子訳『バルトーク物語』(1992・音楽之友社)』『ポール・グリフィス著、和田旦訳『バルトーク――生涯と作品』改訂新版(1996・泰流社)』『ヤーノシュ・カールパーティ著、江原望・伊東信宏訳『バルトークの室内楽曲』(1998・法政大学出版局)』『アガサ・ファセット著、野水瑞穂訳『バルトーク晩年の悲劇』(2000・みすず書房)』『伊東信宏著『バルトーク――民謡を「発見」した辺境の作曲家』(中公新書)』

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百科事典マイペディア 「バルトーク」の意味・わかりやすい解説

バルトーク

ハンガリーの作曲家。ハンガリー南部のナジュセントミクローシュ(現ルーマニア領スインニコラウ・マーレ)に生まれ,ブダペスト王立音楽アカデミーに学ぶ。1903年R.シュトラウスの影響下に,ハンガリー独立戦争(1848年)の指導者を題材にした交響詩《コッシュート》を作曲。ハンガリーの民俗音楽への関心を深め,1905年からはコダイとともにマジャール民謡,近隣諸民族の民謡の採譜と研究を開始。踏査はやがてトルコや北アフリカにも及んだ。これらの民謡の徹底した分析を通じての多くの発見は,1907年に知ったドビュッシーの音楽とともにバルトークを長短調の大系から解放し,創作上の源泉となる。保守的なハンガリー音楽界にあってコダイとともに苦闘するが,オペラ《青髭公(あおひげこう)の城》(1911年,初演1918年)などで成功をおさめ,国外でも次第に名を高めた。1920年代後半から1930年代にかけて創作力は絶頂期を迎え,《弦楽四重奏曲第3番》(1927年),《同第4番》(1928年),《弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽》(1936年),《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》(1937年)などを発表。1940年ファシズムの脅威が迫る祖国をあとに米国に亡命。クーセビッキーの委嘱による《管弦楽のための協奏曲》(1943年),《無伴奏バイオリン・ソナタ》(1944年),未完の《ビオラ協奏曲》などを残し,白血病のためニューヨークで他界。ほかに,バレエ音楽《中国のふしぎな役人》(1918年−1919年,初演1926年),ピアノ曲《野外で(戸外にて)》(1926年),《バイオリン協奏曲第2番》(1937年−1938年),ピアノ曲《ミクロコスモス》(1926年−1939年),3つのピアノ協奏曲(1926年,1930年−1931年,1945年)などがある。→クルターグドホナーニプリムローズメニューイン
→関連項目青髯伝説クーセビツキーサイド・ドラムシェリングシゲティ弱音器シャコンヌダルシマーディベルティメントトゥビンドラティバイエル・ピアノ教則本ハンガリー弦楽四重奏団ピチカートリゲティルトスワフスキ

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改訂新版 世界大百科事典 「バルトーク」の意味・わかりやすい解説

バルトーク
Bartók Béla
生没年:1881-1945

ハンガリーの作曲家。現代における民族主義の代表的作曲家として知られる。農民の中に伝承される民謡を創造のよりどころにすると同時に,現代の音楽語法と結びつけることによって現代的ハンガリー音楽を確立した。また精緻な民謡研究でも知られる。

 6歳で母親からピアノの手ほどきを受けたが,すぐに音楽的な才能を現し,11歳のときには公衆の面前で自作のピアノ曲《ドナウ川の流れ》を演奏している。1899年,ブダペスト王立音楽アカデミーに入学,ピアノをリストの弟子トマーンに,作曲をケスラーに師事した。ピアニストとしての腕を上げる一方,後期ロマン主義,とくにワーグナー,R.シュトラウスの音楽を研究,その影響の下に,作曲家としての第一歩を記すことになる交響詩《コッシュート》(1903)を作曲する。1848年の独立戦争の指導者コッシュート・ラヨシュを主題とすることで示したバルトークの愛国的感情,民族的自覚は,やがて彼を農民階級に古くから伝わる真のハンガリー民謡の研究に向かわせた。1905年,生涯の盟友コダイとともに始まったバルトークの民謡研究は,国境を越えて,近隣諸民族はもちろんのこと,遠くトルコ,北アフリカにも及び,これらすべての民族音楽が彼の創作の基盤となっている。

 1905年,バルトークは自作のピアノのための《ラプソディ》を携えてパリの〈ルビンシテイン・ピアノ・作曲コンクール〉に参加し,結局は落選する。しかしこのときのフランス体験,とくにドビュッシーの印象主義の影響は重要で,オペラ《青髯公の城》(1911),バレエ曲《木彫の王子》(1916),《中国のふしぎな役人》(1919),ピアノ曲《組曲》(1916)など,1910年代の作品は,ハンガリーの民族音楽とヨーロッパの芸術音楽,とくに印象主義的傾向との総合を目ざしたものである。1919年の短命に終わったハンガリー初の社会主義革命政権に荷担したということに対する極右勢力の攻撃のなかで,バルトークの作風は,シェーンベルク,ストラビンスキーらの影響もあって,きわめてラディカル,前衛的になっていった。この時期の作品には,二つの《バイオリン・ソナタ》(1921,22),《弦楽四重奏曲第3番》(1927),《同第4番》(1928),ピアノ曲《ソナタ》《野外で》(ともに1926)などがある。

 1907年以降その職にあった母校のピアノ教授の地位を辞する34年前後から,バルトークは,いずれ故国を去ることになるであろうという予感を感じつつ,それまでのすべての活動を総括する仕事に取り組むことになる。34年から,それまでの民謡研究の集大成としての《ハンガリー民俗音楽大観》(1951。コダイとの共著)出版の準備が始まる一方,作品も,《弦楽器,打楽器とチェレスタのための音楽》(1936),《2台のピアノと打楽器のためのソナタ》(1937)など,新しい構成原理として黄金分割を採用した最も独創的でしかも円熟した作品が相次いで誕生する。また,教育的内容をもったピアノ曲集《ミクロコスモス》(1939)が完成するのもこの時期である。《弦楽四重奏曲第6番》(1939)をヨーロッパ時代の最後の作品として,40年,バルトークは荒れ狂うファシズムの嵐を避けてアメリカに亡命する。病苦と経済的困窮の生活のなかで,最後の力をふりしぼって《管弦楽のための協奏曲》(1943),《無伴奏バイオリン・ソナタ》(1944)などを完成するが,妻ディッタのための《ピアノ協奏曲第3番》の最後の数小節を書き残したまま,ニューヨークで永眠した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バルトーク」の意味・わかりやすい解説

バルトーク
Bartók Béla

[生]1881.3.25. ナジュセントミクローシュ
[没]1945.9.26. ニューヨーク
ハンガリーの作曲家。5歳から母にピアノの手ほどきを受け,18歳でブダペストの王立音楽院に入学,ハンス・ケスラーに師事。長年コダーイ・ゾルタンと協力し,マジャールの古民謡を採集,研究し,また自身の創作活動の基礎とした。 1940年アメリカに亡命,1945年白血病のため他界した。主作品はオペラ『青ひげ公の城』 (1911) ,『ピアノ協奏曲第2番』 (1930~31) ,『弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽』 (1936) ,『管弦楽のための協奏曲』 (1943) ,6曲の『弦楽四重奏曲』 (1908~39) 。

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ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「バルトーク」の解説

バルトーク

1881年現在のハンガリー南部に生まれ、母からピアノの手ほどきを受ける。18歳でブダペスト音楽アカデミーに入学し、ピアノ、作曲を学ぶ。ピアノ奏者として頭角を現すかたわら、当事のオーストリア・ハンガリー ...続き

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「バルトーク」の解説

バルトーク
Béla Bartók

1881~1945

ハンガリーの作曲家。王立音楽院でドイツ音楽を学ぶなかでハンガリーの伝統音楽に注目。1905年以後,コダーイとともに農民のなかに保持された民謡の調査を始め,それを近代音楽,特に印象主義音楽に結びつけていった。30年代まで独創的な作品を創作するが,40年,ファシズムを逃れてアメリカへ亡命し,客死した。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のバルトークの言及

【スカンジナビア】より

…人文的観点からフィンランド,アイスランドを含めて論じられることもあり,この場合はノルデンNorden(北欧)ともいう。この地域は北緯50゜以北のユトランド半島から,北は北緯71゜45′におよび,南は北海,西はノルウェー海,北はバレンツ海に面し,東にはボスニア湾とバルト海がある。
【地理】
 北大西洋ができる前に,スカンジナビア半島はグリーンランド,カナダと連なった広い古大陸塊を構成し,32億~9億年前の岩石からできている。…

※「バルトーク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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