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ロシアの舞踊家,振付師。のちにはミシェルMichel Fokineと名のる。ペテルブルグに生まれ,1898年同地の帝室舞踊学校卒業。早くから振付に興味をもち,在来の,人物の性格を無視した見せ場本位の定型化したバレエのあり方にあきたらず,独自のバレエを発表した。それは演劇的一貫性を重んじ,主題の時代に即した衣装をつけ,ポアント(トー・シューズ)の使用を廃したもので,一部の演劇人,批評家の賞賛を受けたが,帝室劇場幹部には認められなかった。しかしバレエ・リュッスのパリ公演を企画したディアギレフはこの改革案に共感し,1909-12年,14年のバレエ・リュッスの演目のほとんどをフォーキンに委嘱する。この時期に《レ・シルフィード》(1909),《ペトルーシカ》(1911),《ダフニスとクロエ》(1912),《金鶏》(1914,音楽はリムスキー・コルサコフ)など,20世紀バレエの幕開けを告げる名作がつくられた。これらは〈すべてのバレエはその主題と音楽に即した動きを与えられるべきで,古典舞踊のステップの濫用はさけなければならない〉という彼の主張を具現したものである。23年以来ニューヨークに住み,《愛の試練》(1936),《青ひげ》(1941)などを創作。アンナ・パブロワの踊った《瀕死の白鳥》(1905,音楽はサン・サーンス)の振付でも有名である。著書に《バレエ・マスターの回想》(1961)がある。
執筆者:薄井 憲二
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ロシア出身の舞踊家、振付者。ペテルブルグに生まれ、同地の帝室舞踊学校卒業。ダンサーとして出発したが、早くから振付けの才能を示し、パ・ドブレだけで踊るモダン・バレエの傑作『瀕死(ひんし)の白鳥』(1905)、『ショピニアーナ』(1907。のちに『レ・シルフィード』と改名)を発表。1909年、ディアギレフのロシア・バレエ団に主席振付者として参加し、『カルナバル』『シェヘラザード』『火の鳥』(ともに1910)、『バラの精』『ペトルーシュカ』(ともに1911)、『ダフニスとクロエ』(1912)などを振付けた。彼はバレエの改革に意欲的で、モダン・バレエのマニフェスト(宣言)として「五つの原則」を主張、因習的なミーム(身ぶり)の使用の廃止、コール・ド・バレエの表現性の回復、テーマの重視などを提案した。18年以後はロシアに帰らず、おもにアメリカで振付けの仕事をし、ニューヨークで没した。今日でも多くの作品が各国のバレエ団で上演されている。
[市川 雅]
…【引地 正俊】
[音楽]
上記の物語に基づく音楽作品では,M.ラベルのバレエ音楽《ダフニスとクロエDaphnis et Chloé》(1912,1幕3場)が有名である。ディアギレフのバレエ・リュッスの委嘱,フォーキンの台本・振付で1912年初演。しかしバレエとしては成功せず,作曲者自身の編曲による第1組曲(1911,《夜想曲》《間奏曲》《戦いの踊り》),第2組曲(1913,《夜明け》《無言劇》《全員の踊り》)として知られる。…
…1897年からロンドン,パリ,ブダペストなど各地でソロ・ダンスによるリサイタルを催し,成功をおさめた。1905年にはロシアでもリサイタルを行ったが,それを見たM.フォーキンに大きな影響を与え,後に彼が《レ・シルフィード》などのモダン・バレエを振り付ける萌芽となったといわれている。05年,ベルリンに学校を作り妹のエリザベスとともに舞踊教育を行った。…
…第1回公演は1909年5~6月にパリのシャトレ座で開催された。演目はすべてM.フォーキンの振付によるものであった。フォーキンは当時のバレエが踊り手の技術を見せるためにのみ制作されることに強く反対し,個々のバレエの内容そのものが要求する表現をとることを主張した。…
…また,史上初めてという10代前半,またはそれに準ずる踊り手,T.トゥマーノワ,バロノワ,リャブーシンスカの3人をベビー・バレリーナとして主役に抜擢し,人気を博したことにある。演目はディアギレフの遺産を踏襲したほか,マシンのシンフォニック・バレエ《前兆》《コレアルティウム》(ともに1933),《幻想交響楽》(1936),《赤と黒》(1939),オッフェンバックの音楽による喜劇的な《パリのにぎわい(よろこび)》(1938),前衛的な《子供の遊戯》(1932),《バッカナール》(1939),バランチンのアブストラクト・バレエ《ダンス・コンセルタント》(1944),フォーキンの《愛の試練》(1936),《パガニーニ》(1939),ニジンスカの《百の接吻》(1935),一座の育てたリシンDavid Lichine(1910‐72)の《卒業舞踏会》(1940)などバレエ史に残る作品を多く初演した。しかし運営面では問題が多く,発足後まもなく創立者の一人ブルムが去り,38年からはマシンが主宰者となる。…
…クラシック・バレエでは女性の主役が中心だったが,モダン・バレエではそれが対等に行われ,男性を中心にしたものもつくられた。1909年以降のディアギレフのバレエ・リュッスにおいて顕著にその傾向があらわれ,その先鞭をつけたのはM.フォーキンやV.ニジンスキーの作品である。バレエ・リュッス後期に登場したG.バランチンやS.リファールはその後アメリカやフランスで新しい思考によるバレエをつくった。…
…ショパンの音楽にフォーキンが振付した1幕のバレエ。1906年の《ショピニアーナShopiniana(原作名)》を改作,09年ディアギレフのバレエ・リュッスによってパリで初演された。…
…彼は諸国伝来の踊りから多種多彩な手法をとりいれ,とくに19世紀末の10年間にはチャイコフスキー,グラズノフの音楽によってバレエの交響楽的展開の方法を考案し,壮大なグランド・バレエの形式を完成させた。 しかしペチパの弟子フォーキンは,〈真の舞踊芸術の美と詩はより簡素な形式のなかに求められる〉と主張し,その実践者となった。彼の作品は1909年ディアギレフの率いるロシア・バレエ団(バレエ・リュッス)によって西欧に紹介され成功をおさめたが,14年の第1次大戦勃発,17年のロシア革命と帝政の崩壊によって,母体である帝室マリインスキー劇場とのつながりを絶たれた。…
※「フォーキン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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