ペトラルカ(読み)ぺとらるか(英語表記)Francesco Petrarca

デジタル大辞泉 「ペトラルカ」の意味・読み・例文・類語

ペトラルカ(Francesco Petrarca)

[1304~1374]イタリアの詩人・人文主義者。ルネサンス期の代表的叙情詩人。恋人ラウラへの愛を歌った詩集「カンツォニエーレ」のほか、ラテン語叙事詩アフリカ」など。

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精選版 日本国語大辞典 「ペトラルカ」の意味・読み・例文・類語

ペトラルカ

  1. ( Francesco Petrarca フランチェスコ━ ) イタリアの詩人。一三四一年、桂冠詩人の栄誉を受けた。代表作は抒情詩集「カンツォニエーレ」。(一三〇四‐七四

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改訂新版 世界大百科事典 「ペトラルカ」の意味・わかりやすい解説

ペトラルカ
Francesco Petrarca
生没年:1304-74

イタリアの詩人,人文主義の先駆者ダンテと同じく1302年にフィレンツェを追放された一書記の子として,トスカナ地方アレッツォに生まれた。次いでインチーザとピサで幼年期を過ごしたのち,12年一家は新天地を求めて,教皇庁が移し置かれてまもない南フランスのアビニョンに渡り,近郊のカルパントラに居を定めた。父親の意志に従って16年からモンペリエに,つづいて20年からはボローニャに留学して法律を学んだが,26年父親の死を機にアビニョンへ帰ると,迷うことなく念願の文学の道へ進んだ。そして翌27年4月6日の聖金曜日,聖クララ教会で,生涯にわたって詩的霊感の源泉となる女性ラウラを見,決定的な愛にとらえられた。愛の光と闇をうたう《カンツォニエーレ》の抒情詩人がこうして誕生した。

 30年ころ経済的理由から聖職に就いた詩人は,まもなくローマの名門貴族の子で枢機卿のジョバンニ・コロンナに仕えた。この関係は47年まで保たれるが,有力者の理解ある庇護のもとで,ときに使節の任を果たしながらも文学生活の自由を重んじ,かつ貫く彼の生き方はここに定まった。33年ベルギーなどを旅行した際キケロの演説文を発見し,人文主義者としての第一歩を踏み出したが,詩人みずから強調するように,聖アウグスティヌスの《告白》も同時期に入手したことは,キリスト教と古代文化の調和・統一を目ざした彼の人文主義にとって象徴的である。37年アビニョン郊外ボークリューズの谷に自由と孤独の地を得,翌年野心作《アフリカ》(未完)の執筆に着手した。このラテン語叙事詩の成功は,41年ローマのカンピドリオの丘で詩人に桂冠を戴かせ,いまや古代文化復興の立役者としてペトラルカの名は西欧に広く知れわたった。しかし詩人の内面の葛藤はむしろ深刻な危機を迎えつつあって,アウグスティヌスとの対話の形をとる有名な《秘密》(初稿1342-43)では愛と名声の問題を中心に仮借のない自己検討がなされた。同じころ,ローマ改革の大志を抱くコラ・ディ・リエンツォと親交を結び,47年コラが貴族政治を倒して古代共和政の復活を図ると熱烈な支持を寄せたが,改革はむなしく失敗した。翌48年ヨーロッパ全土を襲った黒死病のためにラウラが天に召された。なおこのときのフィレンツェの惨状を背景に語られるのが《デカメロン》であるが,その作者ボッカッチョとは50年に初めて祖国の土を踏んだ際出会って深い友情を結び,以後たびたび訪問を受けた。53年新教皇との不和を機にプロバンスを去ってイタリアに帰る決意をし,ボッカッチョらの反対にもかかわらず,ミラノの専制君主ビスコンティ家の招きを受け入れた。その後黒死病を逃れて61年にパドバへ移り,翌年ベネチアに居を定めたが(1368年まで),いずれの場合も基本的にはボークリューズの延長であった。そして70年に移り住んだパドバ近郊のアルクアが終焉の地となった。

 ペトラルカが後世に残した作品は未完のものも含めて20余編を数え,ルネサンス人文主義に多大な影響を与えたラテン語の著作が大部分を占める。おもなものを挙げれば次のとおりである。詩作品に《アフリカ》,《牧歌》(1364完成),歴史物に《偉人伝》(1351-53完成),倫理哲学の分野では《秘密》のほかに,文学者と修道士の孤独をそれぞれに賞揚した《孤独な生活について》(1346初稿)と《宗教的無為について》(1347初稿),そして《禍福双方の救済について》(1366)。またペトラルカの思想全体を知るうえで重要な書簡集に《親交書簡》(1366完成),《晩年書簡》(未完),教皇庁非難の内容ゆえにあて名を伏せた《無名書簡》(1360完成)。さらに自然科学に対する詩の優位を主張した《ある医者に対する嘲罵》(1355完成)などの論争文がある。他方,イタリア語の作品は詩集《カンツォニエーレ》とその主題を叙事的に展開したともいうべき寓意詩《凱旋》(未完)の二つのみで,後者は愛に始まり順に純潔,死,名声,時間,そして最後に永遠が勝利を収めていく過程を,《神曲》と同じ詩型を用いて描いている。

 ところでペトラルカが生きた14世紀は,教皇のアビニョン捕囚(1309-77)が象徴するように西欧中世のまさしく解体期に当たっており,一世代前のダンテがみることを恵まれた神の光はもはや地上に届かなかった。彼の思想の根底にはこの深刻な状況が存在していたのであり,《カンツォニエーレ》はそれを鋭く直感し表現しえたことによって近代抒情詩へ道を開いた。詩人はラウラのうちに神の光の余映をみていたのである。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ペトラルカ」の意味・わかりやすい解説

ペトラルカ
ぺとらるか
Francesco Petrarca
(1304―1374)

イタリアの詩人、ルネサンス人文主義の先駆者。ダンテと同じく1302年にフィレンツェを追放された一公証人の子として、トスカナ地方のアレッツォに生まれた。ついで同地方のインチーザに幼年期を過ごしたあと、ピサを経て、8歳のとき一家は、教皇庁が移し置かれてまもない南フランスのアビニョンへ渡り、近郊のカルパントラに落ち着いた。ラテン語の初等教育を受けたのち、父親の意志に従いモンペリエ、ボローニャに留学して法律を学ぶが、かたわらウェルギリウス、キケロなどのローマ古典に心酔し、またボローニャでは俗語(イタリア語)の詩と出会い、新しい文学へも目を開かされた。26年、父親の死を機に法律の勉強を放棄してアビニョンへ帰る。そして翌27年4月6日の聖金曜日に、聖女クララ教会で、生涯にわたり詩的霊感の源泉となる女性ラウラLauraを見て、決定的な愛にとらえられたという。ここに、ラウラへの愛を歌う叙情詩人が誕生した。

[林 和宏]

古典文化復興へ

1330年ころ経済的理由から聖職についたペトラルカは、まもなくローマの名門貴族出身の枢機卿(すうききょう)ジョバンニ・コロンナに仕えて、以後長くその庇護(ひご)を受けることになる。37年、アビニョン郊外ボークリューズの谷に庵(いおり)を結び、この地をヘリコン山の泉になぞらえて詩作と古典研究に励んだ。翌年、野心作『アフリカ』(未完)の執筆に着手する。ウェルギリウスの『アエネイス』を継承しようとしたこのラテン語叙事詩は予想どおりの成功を収め、いまや古典文化復興の立役者としての名声が高まるなか、41年、中世文化の中心地パリの招請を断って、永遠の都ローマのカンピドリオの丘で念願の桂冠(けいかん)を戴(いただ)いた。なお、47年にローマで古代共和政の復活を図った親友コーラ・ディ・リエンツォに、コロンナ家との絶縁を恐れず熱烈な支持を寄せたのも、また教皇庁がローマへ戻るべきことを繰り返し主張したのも、同様に、ラテン文化の伝統に根ざした新しい文化の理想に発していた。

 戴冠(たいかん)以降、諸侯に招かれて、パルマをはじめイタリア各地に滞在することが多くなっていくが、ついに1353年、新教皇との不和を機にイタリア定住を決断し、ミラノの専制君主ビスコンティ家の招きを受け入れた。このミラノ滞在時代には、平穏な著述生活のかたわら外交使節の大任を幾度か果たしている。その後、ペストを逃れて61年にパドバへ、翌年にはベネチアへと移り住み、そして70年に隠棲(いんせい)したパドバ郊外のアルクァが終焉(しゅうえん)の地となった。

[林 和宏]

その作品

ペトラルカが後世に残した作品は未完のものも含めて二十余編に上るが、ラテン文学の伝統を多様なジャンルにわたりよみがえらせて、ルネサンス人文主義の基礎を築いたラテン語の著作が大部分を占める。なお、ほとんどの作品が、長期に及ぶ改変、推敲(すいこう)を受けている。

 まず、ラテン語の著作のおもなものは、詩作品に『アフリカ』、『牧歌』(1364)、伝記に『著名人列伝』(1351~53)、さらに、倫理について考究した作品群に、魂の師アウグスティヌスとの対話形式で仮借のない自己検討を試みた『秘密』(初稿1342~43)、文学者と修道士のそれぞれの孤独を賞揚した『孤独な生活について』(初稿1346)と『宗教的無為について』(初稿1347)、書簡集に『親交書簡』(1366)、『晩年書簡』(未完)、教皇庁批難の内容ゆえに宛名(あてな)を伏せた『無名書簡』(1360)、さらに、自然科学に対する詩の優位を主張した『ある医者に対する嘲罵(ちょうば)』(1355)などの論争文がある。

 一方、イタリア語の作品は、叙情詩集『カンツォニエーレ』(1374)と、その主題を叙事的に展開させた詩『凱旋(がいせん)』(未完)の二作にすぎず、人文主義全盛の時代にはラテン語作品の陰に隠れがちであったが、16世紀以降、ペトラルカの代表作としてラウラへの愛を歌う『カンツォニエーレ』の声価は定まった。ダンテが中世キリスト教の統一的世界観に拠(よ)って神の光にまで高めた愛の概念を踏まえつつ、新しい時代の到来を予感するなかで、ペトラルカは追憶のなかの淡い光を歌う。つまり、ペトラルカはラウラのうちに残光を見ていたのである。

[林 和宏]

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百科事典マイペディア 「ペトラルカ」の意味・わかりやすい解説

ペトラルカ

イタリアの詩人。アレッツォ生れ。1313年から南仏のアビニョンで育ち,のち同地の教皇庁に勤め,やがてローマの名門コロンナ家に仕える身となった。佳人ラウラを知り,彼女への愛とその追憶を詩集《カンツォニエーレ》で歌った。この詩集は深く内省的な抒情によって近代抒情詩に大きな影響を与え,典雅な詩風は長く各国の詩人の手本とされた。ラテン語でも詩作を行い,桂冠詩人の称号を受けた。ボッカッチョと親交を結び,晩年は北イタリアに隠棲(いんせい)した。
→関連項目アルピニズムコラ・ディ・リエンツォ人文主義ソネット登山ワイアット

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ペトラルカ」の解説

ペトラルカ
Francesco Petrarca

1304~74

イタリアの詩人。父はダンテとともにフィレンツェを追われた公証人。アレッツォに生まれ,父とともにアヴィニョンなど各地を転住。ボローニャで法律を学んだが,聖職について文学を志した。理想の恋人ラウラへの思慕を抒情詩集『カンツォニエーレ』に歌ったが,その詩才と学識により各地の王侯に迎えられた。1341年ローマ元老院から桂冠詩人に推された。諸国を旅行してラテン古典の収集や校訂に努め,人文主義の先駆者となった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ペトラルカ」の意味・わかりやすい解説

ペトラルカ
Petrarca, Francesco

[生]1304.7.20. インチーザ
[没]1374.4.19. アルクア
イタリアの詩人。早くから古典文学を愛読し,父の希望した法学の勉強を放棄。 1327年『カンツォニエーレ』 Canzoniere (1350) の中心的主題となる女性ラウラに出会い,恋愛詩を書きはじめた。その後,思索と執筆のための静かな生活を求めてアビニョン,パルマ,ミラノ,ベネチアなどを転々とし,41年叙事詩『アフリカ』 Africaにより桂冠詩人の称号を受けた。ほかに『秘密』 Secretum (42~43) ,『孤独な生活について』 De vita solitaria (56) など多くの作品をラテン語で著わした。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ペトラルカ」の解説

ペトラルカ
Francesco Petrarca

1304〜74
イタリアの初期ルネサンスの詩人・人文主義者
トスカナ地方に生まれる。恋人ラウラへの愛を歌った『叙情詩集』や『アフリカ』など,多数の詩を残すとともに,ラテン文献の収集・研究家として知られる。人文主義の先駆者でもあった。自然を愛し,登山を楽しんだ人といわれる。1341年ローマ元老院より桂冠詩人の称号を受けた。

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世界大百科事典(旧版)内のペトラルカの言及

【イタリア語】より

…ダンテは前にも触れた《俗語論》のなかで,詩文学に用いられる理想的な〈俗語〉はいかなるものであるかを論じたが,自らの詩作にあたって彫琢を加えた言葉は生れ故郷フィレンツェの方言であった。《神曲》の成功に続き,ペトラルカ(1304‐74)とボッカッチョ(1313‐75)がフィレンツェ方言の文学的威信を高めるのに貢献する。だが一方,ラテン語は書き言葉として依然大きな勢力を保ち,ラテン語のイタリア語に対する優位を主張する人文主義者も少なからずいた。…

【イタリア文学】より

…俗語で書かれた壮大なこの叙事詩は,中世神学の確固たる世界観と宇宙観を示すことによって,もはや卑しい俗語による詩的な試みの域をはるかに超え,むしろ古代ギリシアからラテン,そして中世文学における数多の登場人物と,同時代の史実とを網羅し,キリスト教の愛の哲学に則してそれらの事件を秩序だてることにより,中世文学を締めくくったのである。
[近代の誕生]
 このように,ダンテの文学が本質的に過去への展望をはらんでいたのに対して,ほとんど同時代に生きながら,F.ペトラルカとG.ボッカッチョとは,彼らの文芸思想と文学作品の両面において,イタリア文学を大きく近代へ向かって用意した。ペトラルカは俗事詩抄《カンツォニエーレ》において,ラウラへの〈愛〉を軸に,まさに完璧な抒情詩の世界をつくりあげ,〈ペトラルキズモ〉はその後数百年間にわたって詩史に君臨し,現代詩にいたるまで強い影響を与えている。…

【キリスト教文学】より

…また〈武勲詩〉中の傑作である《ローランの歌》(11~12世紀初め)も十字軍の理想を掲げ,教会の宣伝である点において,すぐれて宗教的な作品といえよう。 これにつぐ時代はイタリアを中心とするダンテやペトラルカの活躍をみるが,その道程には,この清新の歌風をイタリアへもたらしたグイード・ダレッツォ,グイニツェリGuido Guinizelli(1230から40‐76)らがあった。グイードはソネット詩の作者で,中年に妻子を捨て修道会にはいった者,宗教的あるいは倫理的な主題を用い,グイニツェリも哲学詩,思想詩をよくして,ダンテの尊敬を得ている。…

【人文主義】より

… しかしまたいわゆるルネサンス期に,人文主義が人々に新鮮な関心を呼び起こし,活発な人間意識を目覚めさせて,新しい生活態度の動因となったことも否定できない。その点でブルーニの指摘するごとく,人文主義の〈真の祖〉に価する存在はペトラルカであった。古代狂とののしられるまでに古典に没頭する一方で,〈人間の本質を知らず,何故にわれわれは生まれたのか,何処から来り,何処へゆくのであるかということに何の関心ももたずに追求されるような学問は無意味である〉と喝破した彼には,明確に人間尊重の姿勢が見てとれる。…

【登山】より

…歴史の中で山はときに聖なる所であり,ときに悪魔の住む所,あるいはまた戦いのため,生存のため征服し,切りひらくものであった。 ルネサンス時代になってはじめて,山は美の対象として認識されるようになり,1336年イタリアの詩人ペトラルカがプロバンスのモンバントゥー(1912m)に登ったとされ,58年B.ロタリオがロッチャメロネ(3537m)に登り,雪をいただく山への初めての登山となった。1492年にはアントアーヌ・ド・ビユらがドーフィネ地方のモンテギーユに登山,これがザイルなどを用いた最初の登攀といわれる。…

【トスカナ[州]】より

…現在のトスカナはエミリア・ロマーニャとともに共産党の地盤として知られており,共産党は50%に近い得票数を確保している。【清水 広一郎】
【イタリア文学におけるトスカナ】
 イタリア文学のなかにトスカナが占める位置を知るには,まずダンテ,ペトラルカ,ボッカッチョの名を想起する必要がある。《神曲》《カンツォニエーレ》《デカメロン》,この三つの傑作は,イタリア文学にとってまごうかたなき古典であり,叙事詩,抒情詩,散文物語の各分野で確固たる伝統を築き上げた。…

【ボッカッチョ】より

…しかしバルディ商会が破産したため40年フィレンツェに引き揚げてからは,もっぱら古典文学研究と創作に力を注いだ。48年のすさまじいペスト大流行を見て,《デカメロン》を書き始め,50年詩人ペトラルカと会って親交を結んでからは,古代の思想,芸術,文化に対する熱情を高めて,ラテン文学だけでなく,古代ギリシア文学の研究にも志した。ホメロスの《イーリアス》の完全なギリシア語原典の写本を初めて修道院の図書館から掘り出したうえ,ラテン語訳本を見つけたのは彼であった。…

【ホラティウス】より

…《風刺詩》はペルシウスとユウェナリスに継承され,《歌章》はプルデンティウスなどキリスト教の賛美歌作者たちの手本にされた。中世には《風刺詩》が人気を博したが,ペトラルカが《歌章》の真価を再発見してからは,古代抒情詩の代表作として,近世の西欧各国に多くの模倣者を生んだ。《詩論》はアリストテレスの《詩学》とともに作詩法の規範とされ,オーピッツ,ボアロー,ヘルダーなど近代の文学理論家に大きな影響を与えた。…

【ラウラ】より

…ペトラルカが生涯愛し続け,抒情詩集《カンツォニエーレ》のなかでその愛をうたった女性。詩人によれば,1327年4月6日の聖金曜日,アビニョンの聖女クララ教会で初めてその姿を目にし,そして48年の同じ4月6日に天へ昇ったという。…

※「ペトラルカ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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