イランからアフガニスタンにかけての地域名。現在はイランの州の一つで,面積約32万km2,州域はイラン最大。人口600万(1991)。州都はマシュハド。ホラーサーンは〈太陽khorの上る所〉を意味する。2004年に3分割され,北ホラーサーン州(3万km2,81万人,州都ボジュヌールドBojnurd),南ホラーサーン州(7万km2,64万人,州都ビールジャンドBirjand),ラザビー(Razavi)・ホラーサーン州(14.5万km2,559万人,州都マシュハド)となった。
かつてはマー・ワラー・アンナフル以南,アフガニスタンも含んでおり,メルブ,ヘラート,バルフもホラーサーンの主要都市であった。遊牧民の南下の通路にあたり古来しばしばその侵入を被った。ウマイヤ朝後期シーア派運動が活発になり,この運動を利用しアッバース家がメルブで武装蜂起し,ウマイヤ朝を倒した(アッバース朝革命。750)。9世紀になると中央政権の弱化とともにターヒル朝がこの地で興り,サッファール朝,サーマーン朝の支配を経て,今のアフガニスタンのガズナに拠ったガズナ朝の版図となった。1041年にはセルジューク朝に征服された。次いで13世紀にはモンゴルの侵入を被り荒廃,メルブでは死者の数は70万人に達したという。しかし彼らがイル・ハーン国を建てるや急速に復興した。ティムール朝下ではシャー・ルフによってヘラートが首都に選定され,この地はイスラム文化の中心地となった。16世紀初めヘラートはウズベク族に征服されたが,すぐにサファビー朝の支配下に入り,ナーディル・シャーのアフシャール朝下ではマシュハドが首都となった。18世紀にはカージャール朝の領土となったが,1884年にはメルブがロシアに併合され,インド防衛上の要地となったヘラートの独立化を図るイギリスとここに直接の統治権を及ぼそうとするイランとの間で戦いがおこり,イランは敗れこの地から手を引いた。国境の画定は幾度かなされたが,最終的には1935年にシースターンも含む現在の国境が定められた。
住民の大半はイラン人であるが,トルクメン,クルド,バルーチ族,アラブ,ハザラ族なども住む。特産品としてはトルコ石,サフランがある。じゅうたん織りも有名。19世紀後半に対ロシア貿易の伸張とともに,綿作も著しく伸びた。冬は寒く夏は温暖,年降水量は300mm以下と少なく,カナート灌漑がおもに行われている。地下水位も深く,10kmを超す長いカナートが多い。同地方南部には70kmを超えるカナートもある。穀作・綿作のほかテンサイ,果物が栽培されている。マシュハドにはイマーム・レザー廟があってシーア派の巡礼の地,神学研究の中心地である。ほかにニーシャープール,タバス,ビールジャンド,サブザバールなどの町がある。現在は鉄道でテヘランと結ばれている。地震帯に位置しておりしばしば震災を受け,また1829-33年,77年にペスト,1917年にコレラ,24-25年にチフスが流行し,多くの死者を出した。
なお,ホラーサーンは,ペルシア文化復興の中心地で,フィルドゥーシー,ニザーム・アルムルク,ナーシル・ホスロー,ガザーリー,ウマル・ハイヤーム,アッタールらを生んだ。
執筆者:岡﨑 正孝
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イラン東部の地方。トゥルクメニスタンとアフガニスタンの北部をも含む。古くはパルティアがこの地方に興り,サーサーン朝時代にもその重要な一州であったが,652年アラブに征服された。821年ターヒル朝がここに独立,以後873年サッファール朝,900年サーマーン朝,994年ガズナ朝,1040年セルジューク朝,1181年ホラズム・シャー朝と支配者が交代した。1221年チンギス・カンが占領,のちイル・ハン国に帰し,1381年ティムール帝国に移り,1507年ウズベク族が占領,1747年東部がアフガニスタン,1884年北部がロシアに征服された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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