翻訳|Hohenzollern
ブランデンブルク選帝侯,プロイセン王,ドイツ皇帝を輩出した家門。始祖は南西ドイツ,シュワーベン地方の貴族で,本城があったツォレルンの丘から11世紀にこの家名が生まれた。1191年,当主フリードリヒ3世が結婚を通じてニュルンベルク城伯の位を得,フリードリヒ1世と称した。1227年,所領の分割相続により,フランケン系とシュワーベン系に分かれる。フランケン系の城伯フリードリヒ3世(1297没)は,大空位時代を終わらせたハプスブルク家のルドルフ1世を支援した功によりバイロイトを与えられ,1331年その子の代にアンスバハを獲得して勢力を伸ばした。1415年,城伯フリードリヒ6世は,皇帝ジギスムントによってブランデンブルク辺境伯に封ぜられ,選帝侯の位をも得た。その後も同家の経営はフランケンに中心を置いていたが,73年,選帝侯アルブレヒト・アヒレスの家法により,長子ヨハン・ツィツェロがブランデンブルクを相続して以来,同国は一貫して彼の直系により統治されることとなる。
1510年,フランケン系から出たアルブレヒトがドイツ騎士修道会総長に選ばれ,同騎士修道会の領邦プロイセンの統治に当たったが,彼は25年ルター主義に改宗して,初代のプロイセン公となった。続いて39年,ブランデンブルク選帝侯ヨアヒム2世も宗教改革に荷担し,南ドイツのフランケン系,シュワーベン系の諸家もみな相前後して新教を奉じた。そして1615年,プロイセン公家の断絶とともに,ブランデンブルクのホーエンツォレルン家がプロイセン公をも兼ねることとなる。40年にフリードリヒ・ウィルヘルムが登位するまで,ブランデンブルクは有能な君主に恵まれなかったが,かねてより展開されていた婚姻政策の結果,1614年にはライン下流域に,小さいながら商工業の進んだクレーベ公国とマルク伯領を獲得した。
フリードリヒ・ウィルヘルムが,ブランデンブルク・プロイセンの貴族(ユンカー)の政治権力を打ち破り,絶対主義への道を切り開いてのち,次の選帝侯フリードリヒ3世は,スペイン継承戦争で皇帝を支援する代償として,プロイセン王の称号を授けられ,フリードリヒ1世と称した。これ以来,ホーエンツォレルン家は,オーストリアのハプスブルク家と競合しつつ,プロイセン王国を支配し,1871年,ドイツ帝国の建設とともに,ウィルヘルム1世が初代の皇帝に選ばれる。第1次大戦末期のドイツ革命の結果,ホーエンツォレルン家はプロイセン王,ドイツ皇帝の位を失ったが,同家は1945年に至るまで,ドイツ市民として最大の土地財産を保持していた。なお,シュワーベン系の所領ヘッヒンゲンとジクマリンゲンは,1623年に帝国直属の侯国となり,これら二つの小領邦は1815年のドイツ連邦にも加えられたが,48年三月革命ののち,宗家のためにみずから独立国の地位を捨ててプロイセン領となった。
→ブランデンブルク →プロイセン
執筆者:成瀬 治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
プロイセン国王、ドイツ皇帝の家門。源流は西南ドイツ(シュワーベン地方)の貴族ツォレルン家で、同家は1192年ニュルンベルク城伯に封ぜられてフランケン地方にも勢力を得た。1214年ごろシュワーベン系とフランケン系に分かれる。前者はさらにヘッヒンゲン家とジグマリンゲン家に分かれ、ともに19世紀までドイツ諸侯に列したが、1849年に両家ともその領邦主権をフランケン系から発展したプロイセン系に移譲した。他方フランケン系はニュルンベルク城伯としてさらにアンスバハとバイロイトを領したが、1415年に同家のフリードリヒ1世がブランデンブルク辺境伯および選帝侯に任ぜられて(授封は1417年)、新たにブランデンブルク系ホーエンツォレルン家が創始される。なお、同じフランケン系のアルブレヒトが1511年にドイツ騎士団長に選ばれるが、彼は25年宗教改革を行ってプロイセン公となった。彼の死後1618年に義子のブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントがプロイセン公国を相続し、ブランデンブルクとプロイセンがホーエンツォレルン家の下に統合される。同家はフリードリヒ3世(国王としては1世)の代にプロイセン国王位を得(1701)、ウィルヘルム1世の代にドイツ皇帝位を得た(1871)が、1918年11月最後の皇帝ウィルヘルム2世が革命により退位して、君主の家門としてのホーエンツォレルン家の歴史は終わる。
[坂井榮八郎]
ブランデンブルク選帝侯,のちプロイセン国王,ドイツ皇帝の位を世襲した貴族。もと南ドイツ,シュヴァーベンの小貴族であったが,1191年ニュルンベルク城伯となり,1415年にはフリードリヒ1世が皇帝ジギスムントによりブランデンブルク選帝侯に封ぜられた。1618年ヨーハン・ジギスムントがプロイセン公国を併せたのち,17世紀後半フリードリヒ・ヴィルヘルム(大選帝侯)の時代から18世紀にかけてオーストリアのハプスブルク家に対抗する大勢力となり,フリードリヒ2世(大王)のごとき名君を出した。1871年にはビスマルクの補佐でヴィルヘルム1世が皇帝位につき,1918年までドイツを支配した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…13世紀前半につくられた法書《ザクセンシュピーゲル》において,ブランデンブルク辺境伯は選帝侯の一人に数えられるにいたった。
[ホーエンツォレルン家の支配]
1320年にアスカニア家が断絶すると,ブランデンブルクは帝国に帰属し,そのため,皇帝ルートウィヒ4世をつうじてウィッテルスバハ家(1324‐73)が,皇帝カール4世をつうじてルクセンブルク家(1373‐1415)があい次いでこの地の辺境伯の位を保有した。しかしこの両家の辺境伯たちはブランデンブルクに居住しなかったので,貴族や都市が独立化して領内の政治が乱れたばかりでなく,対外的にも,ラウジッツはボヘミアやザクセンに奪われ,ノイマルクは1402年ドイツ騎士修道会に売却された。…
…ここに再びポーランドとの戦争が始まり,その結果,66年,トルンの和約で西プロイセンの全域および東プロイセン内のエルムラントはポーランドに割譲され,東プロイセンの残部領域もポーランドの宗主権下に置かれることとなった。
[プロイセン公国]
1511年ドイツ騎士修道会総長にホーエンツォレルン家のアルブレヒトAlbrechtが選ばれると,彼は25年ルター主義に改宗,騎士修道会領を世俗化して,これをポーランド王から封土として授与され,ここにプロイセン公国Herzogtum Preussenが成立した。アルブレヒトは行政・財政を改革し,教会秩序を整え,ケーニヒスベルク大学を創立(1544)するなど,模範的な領邦君主であった。…
※「ホーエンツォレルン家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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