イギリスの化学者、物理学者。初代コーク伯リチャード・ボイルRichard Boyle(1566―1643)の第14子としてアイルランドのリズモア城に生まれる。家庭とイートン学校で教育を受けたのち、1639年から5年間ヨーロッパ大陸に遊学し、ジュネーブの家庭教師のもとで古典の教養とプロテスタントの信仰を身につけた。また、この間にガリレイらの新しい科学に接した。1644年ピューリタン革命のさなかのロンドンに帰国、まもなく「インビジブル・カレッジ(見えざる大学)」とよばれるロンドンの科学者グループに加わり、自然科学への関心を深めた。ドーセットシャー、スタルブリッジの荘園(しょうえん)に住んで化学の研究を始めたが、1654年オックスフォードに住居を移し、この地の科学者グループに参加して本格的に科学活動を開始した。これらの科学者グループは、実験に基づいた人間生活に有用な科学を推進するというベーコン主義の理想を掲げて、王政復古後の1662年ロイヤル・ソサイエティー(王立協会)を創立した。
[内田正夫]
ボイルは1657年ころゲーリケの真空実験のことを知ると、助手のフックの協力によって空気ポンプを製作し、さまざまな実験を行って、その結果を『空気の弾力に関する自然学的新実験』(1660)として発表した。空気の体積がその圧力に反比例するというボイルの法則は、この書に対するリヌス神父Franciscus Linus(1595―1675)の反論に答えた第2版(1662)のなかで、明らかにされた。
この当時、力学や天文学は近代科学として形成されつつあったが、化学物質に関する仕事はまだ一般に錬金術とか、あるいは薬剤師や職人の経験的な技(わざ)とみなされていた。ボイルはこのような考えに反対し、化学を一つの合理的な科学にしようと努力した。いくつかの小論を書いたのち、1661年『懐疑的な化学者』The Sceptical Chymistを刊行し、スコラ派の四元素説や医化学派の三原質説を批判した。すなわち、物質の分解蒸留の生成物を元素と解釈してみせるだけのこれらの学説に対し、豊富な化学実験を行い、物質の多様な変化を正確に把握すべきことを主張したのである。また、種々の指示薬や沈殿生成を利用した物質の同定法など、化学実験の基本的な方法を確立した。
[内田正夫]
このような実験によって認識される物質の変化と多様性を合理的に説明するため、ボイルは、ガッサンディやデカルトによって復活され、新しい科学の基本的物質観となりつつあった原子論を取り入れて、それを化学に有効な独自の粒子哲学に仕上げた。それはとくに『形相と質の起源』The Origin of Forms and Qualities(1666)において展開されている。すなわち、物質の諸性質は、スコラ派の実体的形相や実在の質によってではなく、物質を構成する粒子の組織と運動によってのみ合理的に理解できること、そして化学変化は階層的な構造をもつ物質粒子の組み換えによって説明できることが主張された。彼は近代的な化学元素の概念に到達することはできなかったが、実験主義と結合した粒子哲学によって、化学変化を具体的な物質の結合・分離として考察することを可能にしたのである。
ボイルは優れた設備と大ぜいの助手を使って無数の実験を行い、明確で詳細な実験報告を膨大な著作として残した。そのなかには上述の理論的課題を例証する諸実験のほか、「色」(1664)、「冷たさ」(1665)、「リン」(1680)、「鉱水」(1685)などに関する実験誌的研究が含まれる。スズの灰化における重量増加を確認し、その理由を火の粒子の付着に帰したこと(1673)や、ガラス容器で水を繰り返し蒸留したときに生じた白い粉を、水から土への変成の例としたこと(1666)などもよく知られている。
1668年ロンドンに移り、姉のレイネラ子爵夫人Katherine Jones, Viscountess Ranelagh(1615―1691)宅に寄寓(きぐう)して実験と著述を続け、ロイヤル・ソサイエティーの主要メンバーの一人として活動した。神学上の研究や伝道活動にも熱心であった。
[内田正夫]
『田中豊助・原田紀子訳『懐疑の化学者』(1987・内田老鶴圃)』▽『Marie Boas HallRobert Boyle on Natural Philosophy (1966, Indiana University Press)』
カナダ生まれのアメリカ人物理学者。カナダ・モントリオールのマックギル大学で博士号を取得後、アメリカのベル研究所の研究員となり、通信科学部門の本部長を務めた。2009年にジョージ・スミスとともに「電荷結合素子(CCD:Charge Coupled Device)センサーの発明」によりノーベル物理学賞を受賞した。
ボイルはスミスとともに1969年に光を電気信号に変える素子を集積し、画像として記録する方法を考案。これは画像を電気信号に変換する際、光から発生した電荷を受光素子が読み出し、これを電荷結合素子とよばれる回路素子を用いて転送する方法である。現代ではデジタルカメラ、デジタルビデオ、内視鏡などに応用されるようになった。また、望遠鏡で天体の微弱な光をとらえることもできるため、天体写真の撮影の分野でも大きな貢献をした。
[馬場錬成]
アメリカの女流作家。初期の作品はヘンリー・ジェームズ風の心理主義的作風で、しだいに極限状況下の人間の本能や葛藤(かっとう)を描くプロット中心の作品が多くなった。おもな作品には、国籍の異なる夫婦の相克を扱った『ナイチンゲールのわざわい』(1931)、第二次世界大戦後のアメリカ人とドイツ人の問題を描いた『さよならをいわない世代』(1960)があり、ほかに詩集もある。
[有賀文康]
イギリスの化学者,物理学者。アイルランドに領地をもつコーク伯爵リチャード・ボイルの第14子。家庭とイートン校で教育を受けた後,12歳から17歳までヨーロッパ大陸に遊学し,古典的教養と敬虔(けいけん)な信仰を身につけた。また,この間に新しい科学に接し,ガリレイの著作を学んだ。1644年帰国,まもなく〈インビジブル・カレッジ(見えざる大学)〉と呼ばれるロンドンの科学者グループと親交を結び,自然科学への関心を深めた。54年にはドーセットシャーの荘園からオックスフォードに住居を移し,グレシャム・カレッジ出身の科学者グループに参加して科学活動に専心した。このグループは実験に基づく有用な学問を推進するというベーコン主義の理想を掲げ,後のローヤル・ソサエティの核となった。
ボイルは57年ころO.vonゲーリケの真空実験を知り,助手のR.フックの製作した空気ポンプを用いてさまざまな実験を行い,《空気の弾力に関する自然学的新実験》(1660)を著した。空気の体積がその圧力に反比例するというボイルの法則は,その第2版(1662)において明らかにされた。ボイルの化学研究は1647年ころから始まっている。やがて彼は,物質の研究を錬金術とみなす一般の考えに反対し,化学を一つの合理的な科学にしようと努力を始めた。いくつかの小論を書いた後,61年に刊行された主著の《懐疑的な化学者》では,物質の分解蒸留による生成物を元素と解釈するスコラ派の四元素説や医化学派の三原質説を批判し,先験的な独断を排して,多様な化学現象を忠実に把握すべきことを主張した。また,種々の指示薬や沈殿生成による物質の同定など,化学実験の基本的な方法を確立した。
体系的な実験によって認識される物質とその変化の多様性を説明するため,ボイルはP.ガッサンディの原子論やデカルトの粒子論をとり入れて独自の粒子哲学をつくり上げた。それは《形相と質の起源》(1666)において全面的に展開される。すなわち,物質の諸性質はスコラ派の実体的形相や質の実在によってではなく,物質を構成する粒子の組織と運動によってのみ合理的に理解できること,そして化学変化は階層的な構造をもつ物質粒子の組替えによって説明されることが主張された。彼の物質理論は近代的な化学元素の概念に到達することはできなかったが,化学変化を具体的な物質によって考察することを可能にしたのである。ボイルはすぐれた設備とおおぜいの助手を使って無数の実験を行い,膨大な著作の大半を実験報告で埋めつくした。その中には上述の理論的課題を例証する諸実験のほか,色,リン,鉱水などに関する自然誌的研究が含まれる。粒子哲学と実験主義とが結合してボイルの科学的業績の基礎をなしているのである。68年ロンドンに移り,姉のレイネラ子爵夫人宅に寄寓して実験と著述を続け,ローヤル・ソサエティの主要メンバーとして,また後進への援助者として活動した。福音書の研究など,神学上の著作も多くのものを残している。
執筆者:内田 正夫
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イギリスの科学者.初代コーク伯の第14子としてアイルランドに生まれる.イートン・カレッジで学んだ後,グランドツアー(イギリス貴族子弟のヨーロッパ修学旅行)に出て,ジュネーブのプロテスタント派のアカデミーで学業を完成する.1645年帰国後,父の遺産であるストールブリッジのマナー(領地)に落ち着き,倫理学的著作を著しはじめる.1649年化学の炉を購入し,実験ノートをつけつつ,実験研究を開始.1650年冬アメリカからやってきたJ.B.van Helmont(ファンヘルモント)派の化学者(錬金術師)G. Starkeyに化学の手ほどきを受ける.つまり,Boyle化学の出発点は,Starkeyの解釈によるvan Helmont主義化学であった.1655年末ないし1656年はじめに,オックスフォード実験哲学クラブの一員となり,当時の国際的科学活動の最前線を知る.1658年実験助手として雇ったR. Hooke(1635~1702年)の手を借りて空気ポンプを製作し,真空中での多様な実験を行った.その成果が“空気のばねと効果に関する自然学-機械学の新実験”(1660年)である.この本の第2版(1662年)の付録で“ボイルの法則”を発表している.1661年化学の分野の主著と目される“懐疑的化学者”において,それまでの代表的な元素説,すなわちAristotelesに由来する四元素説,ならびにT.P.A.B.H. Paracelsus(パラケルスス)の教説にもとづく三原質説を批判的に検討し,ともに元素の名に値しないことを説いた.かわってかれが支持したのは,いわゆる機械論-粒子論的哲学であった.その内実は,化学的性質をもつ粒子の結合と分離による原子論的な思考体系である.1664年“色に関する実験と考察”において,化学反応と色彩変化の関係を追究し,スミレ汁などの呈色指示薬をまとめて示した.1675年“さまざまな質の機械的起源についての実験ノート”において,“化学者の質の理論の不備について”ならびに“アルカリと酸の仮説について”主題的に考察し,酸,アルカリ,中性物質を分類した.なお,かれは生涯において44冊の著作を発表しているが,その約半分は,被造物(自然)に現れた創造主の知と力を称賛する自然神学ないし自然宗教に関するものであった.また遺言で,そうした目的のための“ボイル講演”を設立した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
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(老川慶喜)
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1626~91
イングランドの物理学者,化学者。1662年「ボイルの法則」を発見して気体力学の土台をつくったほか,化学の分野では燃焼における酸素の役割を明らかにした。ロイヤル・ソサエティの有力メンバーであった。
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…この真空実験は水銀気圧計の発明であり,その測定原理は液柱型圧力計として今もなお広く用いられている。60年にはR.ボイルが一端を閉じたU字管形のガラス管内の水銀柱を使って空気を圧縮し,U字管内の水銀柱の高さの差から圧力を測る実験によりボイルの法則を発見した。このように,水銀柱を使って圧力を発生し,同時に圧力を測定して気体や液体の圧縮率を測定する実験は19世紀末まで試みられ,1877‐79年にはカイユテLouis Paul Cailletet(1832‐1913)やアマガEmile Hilarie Amagat(1841‐1915)によってパリのエッフェル塔や炭鉱の縦坑を利用して水銀柱を立て,43MPaに達する実験がなされている。…
…
[17~18世紀]
17世紀に入ってフランドルのJ.B.vanヘルモントは,それまであまり関心を払われなかった気体を研究し,気体の多様性に関する手がかりを得た。真空の存在をめぐる議論や実験の積重ねのなかから気体の物理的性質に対する理解がしだいに深まり,1662年R.ボイルは気体の体積と圧力との反比例関係(ボイルの法則)を発見した。ボイルは,I.ニュートンやR.フックとともにローヤル・ソサエティの創始者の一人であり,錬金術の分野における17世紀科学革命の推進者であった。…
…錬金術は実在物質を取り扱ってはいたが,思想的にはギリシア哲学の流れをくみ,その元素概念は所詮,抽象的推理によるものであった。R.ボイルは錬金家のこの抽象的元素観に反対し,元素を定めるには抽象的推理によるべきではなく,実験を基礎とすべきであると主張した。1661年に出版された名著《懐疑的化学者》はこの主張を発表したもので,その中で彼は元素について次のように述べている。…
…16世紀の錬金術的化学者・医者パラケルススは,〈硫黄精〉と〈硝石精〉によって燃焼は起こり,かつ呼吸と燃焼は同じ現象であると考えていた。この解釈は,17世紀に呼吸について実験したR.ボイル,メーヨーJohn Mayow(1640‐79)などに影響を与えた。18世紀にはフロギストン(燃素)説の誤りを経て,ラボアジエが燃焼での酸素の役割を確定する。…
… ドイツ,さらにフランス,イギリス,オランダなどに浸透した錬金術思想は,宗教,哲学,文学,化学技術その他のさらに大きなるつぼとなり,M.マイヤー,J.ベーメ,N.フラメル,ノートンThomas Norton,リプリーGeorge Ripley,E.アシュモール,J.B.vanヘルモントなど多くの逸材が輩出した。そればかりか,その後に近代化学や近代力学を確立したイギリスのR.ボイルやニュートンらの精神も,錬金術思想が内蔵する深い知恵で養い育てられた。しかし錬金術思想は,方法論においてはるかに明確な近代物理化学の現実的・技術的な力には抗しきれず,その後は人間精神の深層に退き,むしろ芸術の分野に霊感を与えることになった。…
※「ボイル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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