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ボスニア・ヘルツェゴビナ Bosnia and Herzegovina

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ボスニア・ヘルツェゴビナ
Bosnia and Herzegovina

正式名称 ボスニアヘルツェゴビナ Bosna i Hercegovina。
面積 5万1209km2
人口 384万3000(2011推計)。
首都 サラエボ

バルカン半島の北西に位置し,北部のボスニア地方と南部のヘルツェゴビナ地方からなる。 1992年までユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する6共和国の一つであった。山地が大部分で,気候は内陸性。住民は約 45%がイスラム系 (ムスリム) ,約 30%がセルビア人,約 15%がクロアチア人で,ほかに少数のアルバニア人,トルコ人,ユダヤ人などを含む。公用語はボスニア語 (→セルボ=クロアチア語 ) 。宗教はセルビア人にはセルビア正教徒,クロアチア人にはカトリック教徒が多い。この地方の最初の居住者はイリュリア系 (→イリュリア人 ) の諸族で,前3世紀にローマの支配に属した。セルビア人の定住は7世紀以後。 12世紀半ばからボスニアではハンガリーの勢力が増大したが,その宗主権のもとでコトロマニア朝スチェパン・トブルトコ1世 (在位 1353~91) はボスニアに最盛期をもたらし,治世末期には「ラシュカ,ボスニア,ダルマチア,クロアチアおよび沿海域の王」という称号を得た。しかし 1463年以後ボスニアはオスマン帝国の支配下に入り,ヘルツェゴビナも 1482年に同じくオスマン帝国の属州となった。 17世紀末以降はオーストリアがしだいに進出,オスマン帝国との長い争いののち 1908年にボスニア・ヘルツェゴビナをオーストリア=ハンガリー帝国に併合。これが遠因となって 1914年にサラエボでセルビア人学生によるオーストリア皇太子夫妻暗殺事件(サラエボ事件 )が生じ,第1次世界大戦に発展した。 1918年ボスニア・ヘルツェゴビナはセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国 (1929年ユーゴスラビア王国と改称) の一部となった。その後ユーゴスラビア連邦人民共和国を構成する自治共和国を経て,1963年にユーゴスラビア社会主義連邦共和国内のボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国となった。 1992年3月ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国として独立を宣言,5月には国際連合に加盟した。しかし,主要3民族の確執が三つ巴の戦闘に発展 (→ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争 ) 。国連などが調停に乗り出したが,効果的な対応ができず,内戦は長期化した。 1995年 12月ボスニア和平協定 (→デートン和平合意 ) が成立 (→ユーゴスラビア史 ) 。主産業は農業,林業および鉱業。主要都市はサラエボのほか,バニャルーカトゥズラモスタルなど。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

ボスニア・ヘルツェゴビナ

旧ユーゴスラビアの共和国の一つで1992年に独立を宣言。その際、イスラム教徒で現在のボシュニャク人、カトリック教徒のクロアチア人、東方正教信者のセルビア人の3勢力の間で紛争が勃発した。95年に和平合意が結ばれるまで続き、死者20万人といわれる。人口約390万人。今も3民族間にしこりが残っており、国家元首は8カ月ごとの輪番制。郵便会社、電話会社もそれぞれの民族向けに三つ存在する。

(2014-06-26 朝日新聞 夕刊 サッカー2)

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ボスニア・ヘルツェゴビナ
ぼすにあへるつぇごびな
Bosnia and Herzegovina英語
Bosna i Hercegovinaボスニア語

ヨーロッパ南東部、バルカン半島北西部に位置する共和国。東をセルビアと、南東をモンテネグロと、北西から南にかけてをクロアチアと接する。南部はアドリア海に近い。国内のおもに北東部の地方がボスニア、南西部の地方がヘルツェゴビナである。かつては、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴスラビア)を構成していた6共和国の一つであり、連邦の中西部を占めていた。旧ユーゴスラビアが解体へと向かうなか、1991年以降、独立の賛否をめぐり、セルビア人、クロアチア人、ムスリム人の3勢力が対立。1992年にムスリム人とクロアチア人により独立が宣言されると、これに反対するセルビア人とのあいだで内戦(ボスニア内戦、ボスニア紛争)が勃発(ぼっぱつ)した。この紛争は、1995年に和平協定が結ばれて終結し「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」と「スルプスカ共和国(セルビア人共和国)」とで構成されるボスニア・ヘルツェゴビナとなった。面積5万1197平方キロメートル、人口384万3000(2006年推計)。首都は サライエボ(サラエボ)。
 1991年に行われた旧ユーゴスラビア時代の国勢調査による民族構成比は、ムスリム人(オスマン帝国統治下でイスラム教に改宗したクロアチア人やセルビア人。ムスリムとはイスラム教徒の意だが、しだいに民族概念となっていったため、1971年から民族として認められた。民族構成比40%)、セルビア人(32%)、クロアチア人(18%)、ほかにモンテネグロ人、アルバニア人、トルコ人、ユダヤ人、ロマ(かつてはジプシーとよばれていた)など多様な民族が住む。しかし、内戦による影響で約270万人の被災者、難民が出るなど、人口や民族構成は著しく変化している。宗教としては、イスラム教、セルビア正教、ローマ・カトリックがあり、セルビア人はセルビア正教、クロアチア人はカトリックである。言語は、独立前からセルビア・クロアチア語を用いていたが、独立後はボスニア語とセルビア語とクロアチア語の3言語とされるようになった。
 ボスニアという名称は、サバ川の支流で国内中部を北流するボスナ川に由来する。ヘルツェゴビナは15世紀の統治者ステファン・ブクチッチStefan Vuki(在位1435~1466)がドイツ語で「公爵」を意味するヘルツォークHerzogを称したことに由来し、「公爵領」の意味である。おもな都市はモスタル、バニャ・ルカ、トゥズラTuzla、独立後にセルビア人の中心都市となったパレPaleなどがある。
 北部のサバ川流域はパンノニア平原の一部で、大陸性気候であるが、標高150メートル以下の低地は共和国のわずか8%にすぎない。2000メートルを超える山地が多く、ディナル・アルプス、コザラ山脈、グルメチュ山脈が位置する。南部は乾燥したカルスト台地で、ネレトバ川河口部は地中海性気候である。国土の大部分が山岳森林地帯で、マツ、ブナ、カシを産する。鉄鉱石(埋蔵量は旧ユーゴスラビア全土の85%)、褐炭、ボーキサイト、マンガン、亜鉛などの地下資源も豊富。金属加工、繊維、靴製造などの工業が盛んであったが、内戦で工業設備の80%が破壊された。[漆原和子]

歴史

7世紀前半、この地方の北部と西部にクロアチア人、南部と東部にはセルビア人が定住した。さまざまな支配者(バン)が群雄割拠していたが、12世紀後半にクリンKulin(在位1180~1204)がボスニア中部を統一し、中世のボスニア国を建国。東西の分岐点に位置するこの地方は、ローマ・カトリックと東方正教会双方の影響を受けたが、ボスニアは山岳地が多く、両教会の影響が容易に及ばなかった。その間隙(かんげき)を突き、中世の異端ボゴミル派が浸透したが、ボゴミル派がボスニアで多数を占めるには至らなかった。14世紀前半、コトロマニチStepan Kotromani(在位1322~1353)がヘルツェゴビナをも支配し、ボスニア・ヘルツェゴビナ統一の基礎を築いた。彼の後継者トゥブルトコTvrtko(在位1353~1391)は、衰退しつつあったセルビアにかわり、さらに領土を拡大し、「セルビア、ボスニア、ダルマチア沿岸地方の王」として戴冠(たいかん)した。トゥブルトコの死後内紛が続き、1463年にオスマン帝国(トルコ)の領土に組み込まれ、以後約400年にわたりその支配下に置かれた。長いオスマン帝国統治下で、カトリック教徒(クロアチア人)や正教徒(セルビア人)農民のムスリム(イスラム教徒)への改宗が進んだ。1875年、オスマン帝国支配に対する農民反乱がおこり、この反乱が引き金となりロシア・トルコ戦争を誘発。1878年のベルリン条約により、オーストリア・ハンガリー帝国(ハプスブルグ帝国)の行政管理下に置かれた。1908年のオーストリア・ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴビナの併合は、第一次世界大戦の導火線となった。同大戦後、「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」に統一された。[柴 宜弘]

ボスニア・ヘルツェゴビナ併合問題

ボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア・ハンガリー帝国の統治下で一定の近代化が進められたが、土地改革などは実施されず、以前から続いていたイスラム教徒地主とキリスト教徒農民の対立は克服されなかった。また、隣国セルビアとの合併の気運も強まっていた。このためオーストリア・ハンガリー帝国では、1900年代に入るとすぐに、ボスニア・ヘルツェゴビナ併合の動きがみられた。併合を決定的にしたのは、1908年のオスマン帝国近代化を目ざす青年トルコ革命であった。同年10月、オーストリア・ハンガリー帝国はロシアとの交渉を行ったうえで、ボスニア・ヘルツェゴビナの併合を宣言した。
 セルビア人が多数居住するこの地方の領有をもくろんでいたセルビアでは、対オーストリア戦争の気運が高まった。ナロードナ・オドブラナなどの秘密組織も結成された。これに対し、ヨーロッパ列強は戦争の回避に努めた。列強の圧力があり、セルビアはオーストリア・ハンガリー帝国のボスニア・ヘルツェゴビナ併合を承認せざるをえなかった。以後、セルビアの対オーストリア感情は極度に悪化し、第一次世界大戦の直接的な原因となるサライエボ事件(サラエボ事件)が発生した。[柴 宜弘]

ユーゴスラビア内のボスニア・ヘルツェゴビナ

第一次世界大戦の結果、オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊し、1918年12月にボスニア・ヘルツェゴビナは南スラブ人の統一国家「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」(1929年にユーゴスラビア王国と改称)に統一された。1939年8月、ザグレブを州都として「クロアチア自治州」が創設されると、クロアチア人が多数居住するヘルツェゴビナの部分がこれに組み込まれた。さらに、1941年4月、ナチス・ドイツの占領下で、その傀儡(かいらい)国家「クロアチア独立国」が建国されると、ボスニア・ヘルツェゴビナの全域がこれに加えられた。「クロアチア独立国」では、クロアチア人のファシスト集団ウスタシャが傀儡政権を担い、ムスリムを「セルビア人狩り」に当たらせた。一方で、第二次世界大戦期、森林に覆われた山岳地帯の多いこの地域はドイツに対するパルチザン戦争の舞台となった。戦後の社会主義ユーゴスラビアの出発点となる1943年11月の第2回ユーゴ人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)は、ボスニア中部の町ヤイツェJajceで開かれた。1945年11月には憲法制定議会が開かれ、ユーゴスラビア連邦人民共和国の建国が宣言され(後にユーゴスラビア社会主義連邦共和国となる)、多民族混住地域のボスニア・ヘルツェゴビナは地域としての一体性を認められ、他の構成共和国とは異なり、民族名ではなく地域名を付した特殊な共和国となった。1950年から歩みを始める自主管理社会主義体制のもと、この共和国で最大多数を占めるムスリムはセルビア人でもクロアチア人でもないことを主張した結果、1971年の国勢調査から新たな民族概念である「ムスリム人」が認められた。しかし、ムスリム人、クロアチア人、セルビア人という三者にとって、ボスニア・ヘルツェゴビナの地域としての一体性は基本的な共通認識であった。[柴 宜弘]

政治――独立から内戦へ

1990年代に入ると、旧ユーゴスラビアの解体過程が進んだ。1990年末の自由選挙では、民族政党のイゼトベゴビッチAlija Izetbegovi(1925―2003)率いる民主行動党、カラジッチRadovan Karadzi(1945― )率いるセルビア民主党、ボバンMate Boban(1940―1997)率いるクロアチア民主同盟が勝利を収めた。1991年6月、旧ユーゴのなかでは最先進共和国であったスロベニアとクロアチアで独立宣言が出されると、クロアチアでは内戦が生じた。クロアチア内戦の過程で、ボスニア・ヘルツェゴビナでも独立の方向が打ち出された。独立の是非をめぐり、地域としての一体性を前提としてきたムスリム人、セルビア人、クロアチア人3勢力の共通認識が崩れていく。ムスリム人とクロアチア人は独立に賛成し、セルビア人はこれに反対の立場をとった。1991年10月に主権国家宣言を行い、1992年3月の国民投票によって独立が支持されたが、この国民投票をセルビア人はボイコットした。そして翌4月、ボスニア内戦が始まり、支配領域の拡大をねらう3勢力相互の血で血を洗う凄惨(せいさん)な戦闘が、3年半以上にわたり展開された。
 この間、他民族を強制追放するか抹殺(まっさつ)する「民族浄化」が相互に行われ、強制収容所での殺害や虐待、集団レイプといった忌まわしい事件が相次いだ。国連をはじめとする国際社会は冷戦後の最大の民族紛争に対して、その解決に積極的に取り組んだ。しかし、EU(ヨーロッパ連合)諸国とアメリカとの足並みがそろわず、話し合いによる解決か、軍事的解決かで方針が揺れた。1995年8月には、アメリカ軍を中心とするNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)軍がついにセルビア人勢力に対する本格的な空爆を行った。一方で、アメリカはボスニア、クロアチア、新ユーゴスラビア(セルビアとモンテネグロから構成)の紛争3当事国の外相会議を主催した。飴(あめ)と鞭(むち)の政策を使い分けるアメリカの主導により、同年11月にオハイオ州デイトン空軍基地で、紛争3当事国首脳の話し合いが行われた。三者がそれぞれに妥協するなかで、デイトン和平合意(デイトン合意ともいう。正式名ボスニア・ヘルツェゴビナ和平協定)が調印された。この結果、20万人近い死者と270万人を超える難民、避難民を出したボスニア内戦はいちおう終息したが、事実上、3勢力の領域は分割されており、和平合意にもられた「単一国家」をいかにつくり上げ、経済再建を遂げるのか、難民の帰還問題をどのように解決するのかなど、課題が山積していた。
 デイトン和平合意に基づき、民政面では国連により上級代表部(OHR、上級代表は2002年からEUの特別代表を兼任)が設置され、軍事面ではNATOを中心とする多国籍軍が配備された。1996年9月に統一選挙が実施されて二つの政体、つまり「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」(ムスリムとクロアチア人勢力から形成)と「スルプスカ共和国(セルビア人共和国)」とにまたがる中央機構(共通議会と閣僚評議会)がつくられた。しかし、その後も中央機構が機能せず、「単一国家」に向かっての困難な道が続いており、和平プロセスも行き詰まっている。1998年9月に実施された統一選挙では民族主義政党が根強い支持を集め、2000年11月の選挙では社会民主党など多民族共存を訴える政党の躍進もみられた。しかし、2002年10月に行われた選挙では、社会民主党など穏健派の進めた改革路線に対する反発から民族主義政党が勝利をおさめた。2006年10月の選挙でも民族主義政党が躍進し、多民族共存をかかげた社会民主党の議席は少数にとどまった。
 2010年の統一選挙でも、概して民族政党が勝利を収めた。例外として、ボスニア・ヘルツェゴビナ共通議会でボスニア社会民主党が議席を拡大させた。ボスニア・ヘルツェゴビナの選挙は複雑であり、3人の共同大統領(ムスリム系、セルビア系、クロアチア系から各一人、任期4年、8か月の輪番制で議長となる)、ボスニア・ヘルツェゴビナ共通議会議員(定数42名)、これに加えて、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦では連邦議会議員(定数98名)、10カントン(州)それぞれの議会議員、スルプスカ共和国では、共和国議会議員(定数83)、スルプスカ共和国大統領、スルプスカ共和国副大統領2名の七つのレベルで行われる。元首は3人の大統領評議会の輪番制の議長、首相にあたるのはボスニア・ヘルツェゴビナ共通議会から選任された閣僚評議会議長で、同評議会が政府の役割を果たす。
 ボスニア・ヘルツェゴビナは、EUおよびNATOへの加盟を最大の優先事項としており、統合ヨーロッパの一員となることは、国内の民族的対立を超えた共通の目標となっている。2001年にはヨーロッパ評議会に加盟。2006年12月NATOの「平和のためのパートナーシップ」に調印。2008年には、EUとの安定化連合協定を締結した。しかし、民族分断をまだ克服できていないとする上級代表部による国際監視が続いているため、加盟申請が出せない状態が続いている。[柴 宜弘]

経済・産業

通貨はコンベルティビルナ・マルカkonvertibilna marka。主要産業は、木材業、鉱業、繊維業、電力産業など。2007年の国内総生産(GDP)は148億ドル、1人当りGDPは3754ドル、貿易額は、輸出が41億6600万ドル、輸入が97億7200万ドル、主要貿易相手国はドイツ、イタリア、スロベニア、クロアチアなど。[柴 宜弘]

文化

内戦による破壊などがあったが、2005年に南部の古都モスタルの「ネレトバ川に架かる古い橋スタリ・モストStari Mostとその周辺の旧市街地区一帯」、2007年には、「ビシェグラードのメフメド・パシャ・ソコロビッチ橋」がユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に登録されている。1984年2月に当時の社会主義国では初めての冬季オリンピックがサラエボで開催された。[柴 宜弘]

日本との関係

対日貿易額は、輸出が4億4300万円、輸入が5億8300万円。おもな輸出品目は木材、繊維製品など、おもな輸入品目は電気機器、精密機器など。日本は1996年1月にボスニア・ヘルツェゴビナを国家承認し、同年2月に外交関係を樹立して相互に大使館を開設した。[柴 宜弘]
『R・J・ドーニャ、J・V・A・ファイン著、佐原徹哉・柳田美映子・山崎信一訳『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』(1995・恒文社) ▽クリソルド編、田中一生・柴宜弘・高田敏明訳『ユーゴスラヴィア史』(1995・恒文社) ▽伊藤芳明著『ボスニアで起きたこと――「民族浄化」の現場から』(1996・岩波書店) ▽N・ステファノフ、M・ヴェルツ編、佐久間穆訳『ボスニア戦争とヨーロッパ』(1997・朝日新聞社) ▽千田善著『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか――悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』(1999・勁草書房) ▽高木徹著『ドキュメント 戦争広告代理店――情報操作とボスニア紛争』(2002・講談社) ▽柴宜弘著『図説バルカンの歴史』(2006・河出書房新社) ▽柴宜弘著『ユーゴスラヴィア現代史』(岩波新書)』

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