メディチ

百科事典マイペディア 「メディチ」の意味・わかりやすい解説

メディチ

フィレンツェ富豪。コジモ(C.de'メディチ)の孫。フィレンツェの独裁者として政治的手腕をふるう一方,文芸・美術を愛好し,レオナルド・ダ・ビンチボッティチェリらを自らの屋敷に出入りさせ,フィレンツェをルネサンス中心地とするのに貢献。〈イル・マニフィコ(偉大者)〉と称された。→メディチ[家]
→関連項目ミケランジェロ

メディチ

フィレンツェの政治家・富豪。1429年メディチ家の当主となり,新興市民層の支持を得て旧門閥に対抗した。1433年政敵により一時追放されたが,財力市政を牛耳り,事実上専制君主として君臨教皇君侯への巨額の貸付けで致富を図る反面,公共事業や学芸保護に私財を投じ,フィレンツェをルネサンスの中心たらしめた。死後政府より〈祖国の父〉の称号を追贈された。
→関連項目チェリーニメディチ

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世界大百科事典 第2版 「メディチ」の意味・わかりやすい解説

メディチ【Cosimo de’ Medici】

1389‐1464
フィレンツェの政治家。父ジョバンニの興した銀行・両替業を拡大して国際的規模に発展させ,ことに教皇庁付銀行家として巨万の富を築き,メディチ家繁栄の礎石を置いた。1433年,コジモは彼の影響力と民衆間での厚い人望を恐れた当時の実力者アルビッツィ家の策略により逮捕され,ベネチアに追放される。しかし翌34年,政治状況の逆転により帰国がかない,市民・民衆に歓呼で迎えられた。この事件でコジモは一家の安泰と政治とは不可分だとの教訓を学び,それを生涯忘れなかった。

メディチ【Lorenzo de’ Medici】

1449‐92
メディチ家の全盛期を築き,フィレンツェ共和国のイタリア半島における地位を高めた人物,またルネサンス文化・芸術の保護者。祖父コジモ,父ピエロが一介の市民の立場を超えるのを厳しく自重したのと違い,ロレンツォは将来共和国の指導者となるのを自明のこととして,幼時よりそのための教育を受けた。事実,年少より政治的行事への参加を許され,諸王侯とも対等に交際した。そして父の死に際して,有力者たちの推挙を受け国の指導的地位に就くことを引き受ける(1469)。

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デジタル大辞泉プラス 「メディチ」の解説

メディチ

アントニオ・ストラディバリ製作によるバイオリン。1716年製。

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世界大百科事典内のメディチの言及

【メディチ家】より

…15~18世紀にフィレンツェを中心に栄えたイタリアの財閥(図)。ルネサンス芸術の保護者の家系としても知られる。メディチ家繁栄の基礎を置いたのはジョバンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチGiovanni di Bicci de’ Mediciで,彼は銀行を興し,教皇庁との商取引をてこにこれを一流に育てた。しかしメディチ家がフィレンツェに君臨するのは次のコジモ(C.de’メディチ)の代で,コジモはアビニョン,ロンドンなど国外に多くの支店を出し,政治状況を積極的に利用して莫大な富を築き,メディチ銀行はヨーロッパ屈指の大銀行に成長した。…

【メディチ家】より

…15~18世紀にフィレンツェを中心に栄えたイタリアの財閥(図)。ルネサンス芸術の保護者の家系としても知られる。メディチ家繁栄の基礎を置いたのはジョバンニ・ディ・ビッチ・デ・メディチGiovanni di Bicci de’ Mediciで,彼は銀行を興し,教皇庁との商取引をてこにこれを一流に育てた。しかしメディチ家がフィレンツェに君臨するのは次のコジモ(C.de’メディチ)の代で,コジモはアビニョン,ロンドンなど国外に多くの支店を出し,政治状況を積極的に利用して莫大な富を築き,メディチ銀行はヨーロッパ屈指の大銀行に成長した。…

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