日本大百科全書(ニッポニカ) 「モット」の意味・わかりやすい解説
モット(Nevill Francis Mott)
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Nevill Francis Mott
(1905―1996)
イギリスの物理学者。リーズに生まれる。1927年ケンブリッジ大学を卒業。マンチェスター大学物理学講師、ケンブリッジ大学講師を経て、1933年ブリストル大学教授となった。1954年以後はキャベンディッシュ研究所長。初め原子核や原子の衝突現象の研究を行い、クーロン場による電子の散乱などを論じた。マッセイHarrie Massey(1908―1983)との共著『原子衝突の理論』The Theory of Atomic Collisions(1933)はこの分野の代表的な書である。ついで固体量子論の研究に転じ、金属・合金、半導体、結晶塑性など多方面で成果をあげた。代表的な仕事に強磁性遷移金属の遍歴電子モデルに関する研究(1935)があり、また1949年には化合物磁性体の研究から金属・絶縁体転移を予言したが、これは磁性理論史上重要な意義をもつ。半導体については整流理論(1939)や励起子(1938)に関する多くの研究があり、誘電体の色中心の機構(1938)、写真感光機構の理論(1938)も知られている。
結晶塑性物理学の発展に果たした役割も大きい。テーラーGeoffrey Ingram Taylor(1886―1975)による結晶の転位概念の導入以来、1950年代初めまでの古典論を今日みるような転位理論に発展させたのはモットらのイギリスの研究者たちで、モットには、転位のすべり運動の理論(1948)、ラセン転位理論(1950)などがある。また前記『原子衝突の理論』をはじめ、ジョーンズHarry Jones(1905―1986)との共著『The theory of Properties of metals and alloys』(金属・合金の物性論。1936)、ガーネイ Ronald W. Gurney(1898―1953)との共著『Electronic Processes in Ionic Crystals』(イオン結晶の電子論。1940)などの優れた教科書を著した。1977年、アンダーソンとバン・ブレックとともに、乱れた系の物性に関する理論的研究で、ノーベル物理学賞を受けた。
[常盤野和男]
『モット、マッセイ著、高柳和夫他訳『衝突の理論』上下(新版・1975~1977・吉岡書店)』
モット(Lucretia Coffin Mott)
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Lucretia Coffin Mott
(1793―1880)
アメリカの社会運動家、奴隷制廃止運動家、クェーカー牧師。マサチューセッツ州ナンタケット生まれ。夫ジェームズ(1788―1868)とともに奴隷制廃止運動に参加、1833年のアメリカ奴隷制反対協会設立に尽力した。1840年、ロンドンの世界奴隷制反対会議にアメリカ代表として出かけたが、女性であることを理由に出席を拒否され、女性の権利のために闘うことの必要性を痛感した。このとき、同じ志を抱くエリザベス・スタントンに出会い、1848年、彼女とともに、ニューヨーク州セネカ・フォールズでアメリカ最初の女性の権利のための大会を開催した。また1850年代には、逃亡奴隷の避難所として自宅を開放するなど、奴隷制廃止運動においても活躍した。生涯一貫して、黒人と女性の権利のために働き続け、アメリカでもっとも影響力のある社会運動家の一人に数えられた。
[有賀夏紀]
モット(John R. Mott)
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John R. Mott
(1865―1955)
アメリカが生んだYMCA運動と世界教会運動の世界的指導者。ニューヨークに生まれる。コーネル大学在学中にD・L・ムーディの感化でYMCAに入り、とくに大学生間のキリスト教伝道を組織、推進し、日本にも10回もきて指導した。キリスト教諸運動の世界的な一致協力のために努力し、世界YMCA、世界学生キリスト教連盟、国際宣教協議会、世界教会協議会などの結成に先駆的な役割を果たし、それぞれの会長を歴任した。1946年に同じくアメリカの社会改革者ボルチとともにノーベル平和賞を受けた。
[古屋安雄 2018年1月19日]
モット(Frank Luther Mott)
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Frank Luther Mott
(1886―1964)
アメリカのジャーナリズム学者。アイオワ州に生まれる。1907年シカゴ大学を卒業。アイオワの新聞社で10年間働いたのち、コロンビア大学で修士号を取得した。1927年から1942年までアイオワ大学新聞学部教授、以後1951年引退するまでミズーリ大学の新聞学部教授・学部長。1939年には『アメリカの雑誌の歴史』A History of American Magazines(1938)でピュリッツァー賞(歴史部門)を受賞。1947年(昭和22)3月、GHQ(連合国最高司令部)の新聞顧問として来日した。約2か月間の滞日中、新聞社幹部をはじめ、新聞学関係者、大学や専門学校の学生新聞編集者などとの懇談、講演会を通じて、終戦直後の日本のジャーナリズム教育・指導に尽力した。『アメリカの新聞』The News in America(1952)などの著書がある。
[鈴木ケイ]
『皆藤幸蔵訳『アメリカの新聞』(1955・時事通信社)』