イギリスの実験物理学者。「原子物理学の父」とよばれる。ニュージーランドのネルソン近郊で生まれる。ネルソン・カレッジに学んだのち、クライストチャーチのカンタベリー・カレッジに入学(1889)、物理学研究に進み、1893年学位を取得した。同年クライストチャーチ学術協会理事。その間、カンタベリー・カレッジで電磁波検知器をつくる(1894)。1895年、奨学金を得てイギリスに渡り、キャベンディッシュ研究所(所長はJ・J・トムソン)に入所、電磁波検知器の改良を手始めに、電磁波信号の送受信を2マイル離れた地点間で成功させた(1896)。これは当時としては壮挙というべき仕事であり、実験家としての力量を示すものであった。この1895~1896年には、レントゲンによるX線の発見、ベックレルによる放射能の発見などがあり、それらは物理学における新時代の到来を告げていた。ラザフォードはトムソンに誘われ共同で放射線の研究を開始、1896年11月、X線に照射された気体中の電気伝導に関する論文を発表した。
1898年9月、カナダのマックギル大学物理学教授としてモントリオールに赴いた。そこで多くの共同研究者に恵まれ、放射能に関する研究を組織的に進め、次のような重要な発見と基礎的法則の確立を成し遂げた。第一は、親友で電子工学教授のオーエンスRobert Bowie Owens(1870―1940)とともに行った放射性気体「トリウム・エマネーション」の発見である。第二は、化学者ソディの協力を得て、このエマネーションの性質を調べ、その結果に基づいて、放射能に関して今日広く一般に用いられる「半減期」の概念を提起(1902)し、放射性壊変の理論を発表(1903)したことである。こうして彼は、混沌(こんとん)としていた放射能現象を解きほぐし、綿密な実験に裏づけられた新しい理論を提起して、既成概念の大変革を含む原子構造の解明に向かっての重要な一歩を踏み出した。
1907年マンチェスター大学物理学教授に就任、ガイガーとともにα(アルファ)粒子の電荷と本性を解明(1908)、ロイズThomas Royds(1884―1955)とともにα粒子は「ヘリウム原子」であることを証明(1909)した。ついでα線やβ(ベータ)線の散乱実験に着手、ガイガーとマースデンErnest Marsden(1889―1970)の実験(1909)で発見されたα線の後方散乱現象に注目し、ラザフォード散乱公式とよばれる原子核によるα粒子の散乱理論を打ちたて、原子の有核構造という新しい原子構造モデルを発表した(1911)。この有核原子モデルはモーズリーの法則やボーアの量子論と結合し、現代物理学と化学の歴史の新時代の幕開きとなった。
第一次世界大戦中は潜水艦探知装置の開発に従事、戦後になって、α粒子を窒素原子核に当て水素原子核をたたき出すという、初めての原子核人工変換に成功(1919)した。同年キャベンディッシュ研究所所長に就任し、原子核人工変換の研究を進め、チャドウィック、カピッツァ、アップルトン、コッククロフトをはじめとして多くの研究者を育て、数々の重要な成果をあげた。プロトン(陽子)の命名、中性子や重水素(ジュウテリウム)の存在の予言(1920)、放射能による年代測定法(1920)も彼によるものである。またナチスに迫害されているユダヤ人学者救済にも活躍した。1908年、「元素の崩壊、放射性物質の化学に関する研究」によりノーベル化学賞受賞、1914年ナイト、1931年バロンの爵位を受けた。1937年10月19日不慮の事故で死去、ウェストミンスター寺院のニュートンの墓の近くに埋葬された。
[大友詔雄]
『N・C・アンドレード著、三輪光雄訳『ラザフォード 20世紀の錬金術師』(1967・河出書房新社)』▽『T・J・トレン著、島原健三訳『自壊する原子 ラザフォードとソディの共同研究史』(1982・三共出版)』
イギリスの医師、化学者、植物学者。小説家W・スコットの叔父。父ジョンJohn Rutherford(1695―1779)はエジンバラ大学医学教授。同大で医学を修め(1772)、1775年に開業。のちに同大植物学教授(1786)。1772年、ブラックの指導を受けた博士論文「いわゆる固定空気、または毒気について」において、ハツカネズミを入れた容器中の空気からアルカリ処理によって炭酸ガスを除き、燃焼にも呼吸にも適さない新種の気体を得たことを発表。これは、キャベンディッシュやシェーレにわずかに後れをとったが、窒素ガスの発見を告げるものであった。ほかに植物学の著作がある。最高最低温度計に関する論文は、父ジョンの考案にかかわる。
[肱岡義人]
イギリスの物理学者。ニュージーランド南島のネルソン近郊に生まれた。クライストチャーチのカンタベリー・カレッジに学び,1895年奨学金(1851年ロンドン博覧会の収益による)を得て渡英,同年初めて他大学からの学生に対しても学位を与える学制改革を行ったケンブリッジ大学のキャベンディシュ研究所の研究生となる。当初,磁気検波器の改良を手掛けていたが,所長J.J.トムソンの勧めでX線による気体の電離について共同研究し,次いで紫外線による気体の電離作用の研究に進み,気体の電離作用を原理とする定量的な電気的測定法をあみだした。98年カナダに渡りモントリオールのマッギル大学教授となる。99年,放射能の発見に刺激されて,電気的測定法によりウランの放射能を調べ,2種の放射線をつきとめて,これをα線,β線と名づけた。以後,放射能の本性と原因を解明する研究に邁進した。まず正体不明の放射能を放つトリウム化合物を調べ,トリウムエマネーション,励起(誘導)放射能を巧妙な検出容器を考案して捕らえた。続いて化学者F.ソディーと共同してトリウム放射能の化学的分離,液体空気製造装置を使っての液化を行い,トリウムXを確認して,放射性元素の変換系列を明らかにした。そして変換と放射線との関係を調べ,変換は放射線の放出を伴う原子内部に起きる自発的崩壊過程であること(放射性変換説)を1902年発表した。こうして従来の恒久不変な原子観を打破し相互転化生成消滅する新しい原子観の礎が与えられた。この業績により08年にはノーベル化学賞をうけた。
1907年イギリスに戻りマンチェスター大学教授に就任,翌年H.ガイガーと共同でα粒子を電気的に数える計数管を完成させ,α粒子が電気素量の2倍の電荷をもつことを算出する一方,T.ロイズと共同で,精妙な検出容器にα粒子を取り入れスペクトルを調べ,α粒子がヘリウムイオンであることを確認した。09年ガイガーとE.マースデンが厚さ0.0006mmの金箔を使ったα粒子の拡散反射(大角散乱)を発見するに及んで,原子構造の解明に進んだ。後年,〈15インチ砲(α粒子)をちり紙(金箔)目掛けて発射したら,弾丸がはね返ってきたほどの信じがたいような話だ〉と回想しているが,この結果を散乱理論から解析し,α粒子がただ1回の散乱で大角度に散乱するためには,原子内部に強力な電場をもつ1点に凝縮した電荷(原子核)が存在すると考え(ラザフォード模型),11年に発表した。ここに原子の世界を記述するための出発点がすえられた。第1次大戦中,潜水艦探知の軍事研究に参加。19年窒素原子核にα粒子を衝突させて水素原子核をはじき出す原子核の人工破壊に成功し,翌年,中性二重子(今日の中性子)の存在を予言した。
19年,ラザフォードはトムソンの後をうけ継いでキャベンディシュ研究所の所長に就任,その組織運営に才をふるい,J.チャドウィック,P.M.S.ブラケット,F.W.アストン,J.D.コッククロフト,P.カピッツァらを擁して原子核研究に数々の国際的な業績をあげ,研究所の地位を不動のものとした。ローヤル・ソサエティの会長(1925-30),科学技術研究庁諮問委員会議長,亡命科学者のための学者救済委員会長などを歴任し,科学界の発展のための科学行政に尽力。
執筆者:兵藤 友博
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ニュージーランド生まれのイギリスの物理学者.地元ネルソン・カレッジに学んだのち,奨学金を得て1895年イギリスに留学.ケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所で,最初の海外研究生としてJ.J. Thomsonの指導を受けた.1898年マギル大学の物理学教授に採用され,カナダのモントリオールに移住.1906年マンチェスター大学教授としてふたたびイギリスに移り,1919年にはThomsonの後任としてケンブリッジ大学教授兼キャベンディッシュ研究所所長になった.1931年貴族の称号を贈られ,Rutherford卿として上院議員に加わった.かれの最初の独創的な研究は,鉄の磁化に関するもので,かれはそれを微弱な高周波電磁波の検出に応用した.その実験手腕が買われ,Thomsonのもとでは気体の電気伝導の研究に加わった.その手法は,さらにウラン放射線による気体の電気伝導性の研究に活かされ,ウランの放射線がα線とβ線というまったく異なる二つの放射線を含むことを明らかにした.マギル大学では若い化学者F. Soddy(ソディ)と共同研究を行うことで,ウランの放射能崩壊による物質の同定を行い,ウラン原子の放射能崩壊系列を明らかにする仕事につながった.またイギリスに戻ったかれは,α線の散乱実験から,有名な有核原子模型を提出して原子構造研究への道をひらいた.1917年にはα線の照射によって,窒素原子が陽子を放出して酸素原子に崩壊することを示し,人工元素転換への端緒となった.また,ナチスドイツによってユダヤ人科学者の迫害が実行されると,科学者救援会議の議長としてその救済に立ち向かうなど,1937年に亡くなるまで社会的活動に積極的に加わり発言した.1908年放射性崩壊の研究でノーベル化学賞を受賞したのをはじめ,海外から多くの科学の賞を受けた.
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1871~1937
イギリスの物理学者。原子物理学の開拓者。放射性物質を研究して原子崩壊説を唱えた(1902年)。α粒子散乱の実験より原子模型を提示し,原子構造論の先駆となった(13年)。1932年人工的核分裂の実験に成功して,核エネルギーの利用の道を開いた。31年には男爵に叙された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…衝突する粒子は,陽子,中性子,π中間子,電子,光子などの素粒子である場合と,重陽子(重水素の原子核),α粒子(ヘリウム4の原子核),またはもっと重い原子核などの場合とがある。
[核反応の発見と研究の発展]
核反応の研究は,1919年E.ラザフォードが,ラジウムから出たα粒子を窒素の原子核にあてると,陽子が放出されるとともに酸素の原子核が生ずることを発見したときから始まる。α粒子と窒素核が陽子と酸素核に変わったのである。…
…これに対し同年,長岡半太郎は,電子が正電荷の外で土星の輪のようになって回っているという原子模型を提出した。その後11年,E.ラザフォードは,α線が金属箔で散乱される際に非常に大きく方向の変わるものがあることに注目した。α粒子が原子の中に入ったとき,電子は軽いのでα粒子に飛ばされ,したがってα粒子は電子によってはほとんど曲げられない。…
…19世紀の末キュリー夫妻らによる放射性元素の発見から,原子の内部に電子以外のものが存在するのではないかと考えられ始めたが,それが原子の大きさに比べてはるかに小さく,しかも原子の質量の大部分を担うことがわかったのは20世紀に入ってからである。1910年ころE.ラザフォードは,H.ガイガーらが行った金属箔による放射性元素からのα粒子(ヘリウムの原子核42He)の散乱実験において,まれにではあるが非常に大きな角度でα粒子が散乱されることから,これを説明するためには正電荷と質量とが原子の中心に集中していなければならないことを示した。原子核は最初A個の陽子とN個の電子とから構成されると考えられたが,これには,電子のように軽い粒子を小さな領域に閉じ込めるのは困難であること,知られていた原子核のスピンがこの模型では説明できないことなどの難点があった。…
…キュリー夫妻(M.キュリー,P.キュリー)はこのベクレルの実験結果を徹底的に調べ,ウランが出している放射線はウランに固有のものであり,また,ウラン以外にも同じように放射線を出す元素があることを発見(1898),放射線を出す性質や能力を放射能とよび,放射能をもつ元素を放射性元素とよんだ。次いでE.ラザフォードは,ウランから放出される放射線のなかに,正の電荷と負の電荷をもつ放射線があることに気がつき,それぞれ,α線とβ線と名づけた。さらに,電荷をまったくもたない放射線もあることが発見され,γ線と命名された。…
…これらの放射線は親核の寿命のためにしだいに減衰していくのが特徴であるが,これに対し,原子炉での核分裂や,加速器ビームによる核反応の際には,反応と同時に多くの中性子線やγ線が発生する。 放射線は,1896年,フランスのA.H.ベクレルが,ウランから放出されるのを発見したのが最初で,これに引き続いてM.キュリーらによってラジウム,ポロニウムからも同様の放射線が出ていることが明らかにされ,99年にはE.ラザフォードが透過力の小さい放射線にα線,大きいほうにβ線の名を与えた。さらに,1900年,フランスのP.ビラールは,磁場によって曲げられず,非常に透過力の強い第3の放射線が存在することを発見し,この放射線はγ線と呼ばれた。…
※「ラザフォード」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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