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リビア リビア Revere, Paul

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

リビア
リビア
Revere, Paul

[生]1735.1.1. ボストン
[没]1818.5.10. ボストン
アメリカ独立革命期の民衆の英雄。ボストン在住の銀細工師の親方であったリビアは,1770年代に独立運動を支持するようになり,ボストンの職人層の著名な指導者となった。彼の功績は職人層と知識層の結合に貢献したことにあるといわれる。

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リビア
リビア
Libya

正式名称 リビア共和国 The Libyan Republic。面積 167万6198km2。人口 642万3000(2011推計)。首都 トリポリ北アフリカ地中海に面する国。西はチュニジアアルジェリア,南はニジェールチャド,南東はスーダン,東はエジプトに接する。

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リビア
リビア
Llivia

スペイン北東部,カタルニャ州,ヘロナ県に属する飛び地。フランス南端のピレネーゾリアンタル県内に位置する。 1177年まで旧セルダニャ地方の首都であったが,1659年のピレネー条約によって周辺 33ヵ村がフランスに割譲され,現在はフランス領内の中立道路1本によって,スペイン領プイグセルダと結ばれている。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

リビア

1951年、王国として独立。69年にカダフィ氏がクーデターで王制を倒し、40年以上最高指導者の地位にあった。長く反欧米路線をとり、88年の米パンナム機爆破事件などで92年に国連安保理から経済制裁を発動された。一方で03年には核兵器など大量破壊兵器開発計画の廃棄と査察受け入れを表明した。石油埋蔵量世界8位の産油国。内戦前には日量約160万バレルを産出していた。現在は10万バレル未満に落ち込んでいる。

(2011-10-21 朝日新聞 朝刊 1総合)

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百科事典マイペディアの解説

リビア

◎正式名称−リビアal-Libiya/Libya。◎面積−175万9540km2。◎人口−655万人(2010)。◎首都−トリポリTripoli(106万人,2006)。
→関連項目マグリブ

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世界大百科事典 第2版の解説

リビア【Libya】

正式名称=リビア・アラブ社会主義人民共和国Jamāhīrīya al‐‘Arabīya al‐Lībiyā al‐Ishtirākīya al‐Sa‘biya∥Socialist People’s Libyan Arab Jamahiriya面積=175万7000km2人口(1996)=544万人首都=トリポリTripoli(日本との時差=-7時間)主要言語=アラビア語通貨=リビア・ディーナールLibyan Dīnārアフリカ北部,地中海のシドラ湾周辺からサハラ砂漠にかけて広がる共和国。

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大辞林 第三版の解説

リビア【Libya】

アフリカ北部、地中海南岸に臨む社会主義共和国。1951年イタリアから王国として独立、69年クーデターにより共和制へ移行。全土が砂漠で住民はアラブ人。イスラム教を国教とする。石油の大産出国。首都トリポリ。面積176万平方キロメートル。人口590万( 2005)。正称、大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国。 〔「利比亜」とも当てた〕

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

リビア
りびあ
The Great Socialist People's Libyan Arab Jamahiriya英語
al-Jama -hirya al-‘Arabiya al-Lbiya al-Sha‘biya al-Ishtirakiyaアラビア語

北アフリカ、地中海岸のほぼ中央にある国。正称は大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国al-Jama -hirya al-‘Arabiya al-Lbiya al-Sha‘biya al-Ishtirakiya。東はエジプト、スーダンと、西はチュニジア、アルジェリアと、南はニジェール、チャドと国境を接する。南部では国境線が未確定な所があり、チャドと紛争を繰り返している。国土面積は175万9540平方キロメートルでアフリカ4番目の大国だが、大部分は砂漠地帯で人口は548万4000(2006推計)、642万(2009推計)と少なく、人口密度は1平方キロメートル当り3.6人。かつては海岸地帯やオアシスでの灌漑(かんがい)農業と遊牧に依存する貧しい国であったが、1955年以降の石油開発により富裕国に一変した。1969年のリビア革命以降、カダフィ政権は膨大な石油収入をもとに工業・農業開発を進め、内政、外交では人民直接民主主義と汎(はん)アラブ民族主義に基づいた独特な政策を展開している。首都はトリポリ(人口120万。2009推計)。[藤井宏志]

自然

リビアは、東隣のエジプトと同じく、全体が広大な乾燥した高原と低地からなる。全般に南部国境地域の標高1000メートル前後の高原から、地中海沿岸へとしだいに低くなり、国土の70%が500メートル以下の高原や低地である。高原にはファレグ・ワジのような深いワジ(涸(か)れ谷)が刻まれているが、これはサハラの乾燥化以前の湿潤期の大河の跡である。沿岸は西のトリポリタニアからシルテ湾にかけては海岸平野がみられるが、ベンガジより東では、アフダル山脈が海に臨み、断崖(だんがい)が続いている。大部分を占める内陸の砂漠では、低所の砂丘群のほか、礫(れき)砂漠、岩石砂漠も広くみられる。
 気候は年間を通じてサハラの高気圧に覆われるため、晴天が多く、大部分の地域が年降水量100ミリメートル未満の砂漠気候である。200ミリメートル以上の降雨をみるのは、トリポリタニア、キレナイカの突出した沿岸地域のみで、冬季に地中海低気圧の影響で雨が降り、地中海性、ステップ気候を示す。気温は、沿岸のトリポリ、ベンガジでも8月の平均気温が28℃と暑く、日中の最高気温は40℃を超える。しかし1月の平均気温は12℃とかなり涼しくなり、背後の高原では降雪をみる。内陸では日較差、年較差ともさらに大きく、夜間は低温となり、冬は零下気温になることも多い。なお晩春から初秋にかけ、ジブリとよばれる砂まじりの熱風が吹き、農作物が被害を受けることがある。[藤井宏志]

地誌

リビアは北西部のトリポリタニア、南西部のフェザン、東部のキレナイカの3地方に大別される。この3地方は1951年連合王国として独立直後、連邦を構成した3州である。トリポリタニアは海岸平野と背後の高原とからなる。沿岸部は冬に降雨に恵まれ、古代から「ローマの穀倉」とよばれる農産物の供給地であった。近代のイタリア植民地時代には数万人の移民が送り込まれ、小麦、果樹などを栽培する農園を経営した。現在でもこの国第一の農業地帯である。また首都で最大都市のトリポリ、鉄鋼工業の盛んなミスラータがあり、面積は国土の20%だが人口の40%が集中する。レプティス・マグナ、サブラータの古代遺跡、ガダーミスの旧市街がユネスコの世界遺産に登録されている。フェザンはサハラ砂漠の一部をなす。アラブ人のほかベルベル系のトゥアレグ人も居住し、オアシス農業と遊牧が生業である。中心地のセブハは、古くから地中海とスーダン地帯を結ぶ重要な中継点であった。タドラット・アカクスのロック・アート遺跡群がユネスコの世界遺産に登録されている。キレナイカは、冬雨に恵まれる地中海沿岸のアフダル山脈と南のリビア砂漠、サハラ砂漠よりなる。従来、生業は沿岸部では地中海式農業、内陸部ではオアシス農業と遊牧が行われるだけであった。しかし第二次世界大戦後リビア砂漠で石油が開発され、ハワジ県は同国の石油生産の中心地になっている。沿岸にはマルサ・ハリガ、マルサ・ブレガなどの原油積出し港のほか製油所もある。なお中心都市のベンガジは独立直後の3州連合王国時代、トリポリとともに首都の一つであった。クーリナの古代遺跡がユネスコの世界遺産に登録されている。[藤井宏志]

歴史

リビアの歴史は、他の北アフリカ諸国と同じく、地中海北部および東部諸国による支配への対応の歴史であった。この地域は古くからベルベル人が住んでいたが、古代にフェニキア、ギリシア、ローマが次々に侵入し、沿岸にトリポリ、ベンガジなどの植民都市を建設した。当時の都市の壮大さはレプティス・マグナなどの遺跡にしのぶことができる。その後、バンダル人、ビザンティン帝国の支配を経て、7世紀なかばにはアラブ人の軍事遠征が始まり、11世紀後半以降アラブ諸部族が大挙して侵入した。これら諸部族は内陸のベルベル人をも制圧し、アラブ化、イスラム(イスラーム)化を急速に進めた。
 中世は部族単位の群雄割拠の時代であったが、16世紀なかばからオスマン帝国による支配が始まった。1515年キレナイカを領有したオスマン帝国は、1551年スペイン領であったトリポリを攻略してトリポリタニアも掌中に収め、帰順したフェザンをも支配下に置いた。当時帝国が任命したパシャ(王)の支配範囲が今日のリビアの版図の原形となっている。1711年にはパシャにかわって土着化したオスマン帝国(トルコ)軍人の代表が実権を握り、トリポリにカラマンリー朝を建てた。しかし19世紀になるとヨーロッパ諸国の北アフリカ進出が始まり、フランスとイギリスの干渉でカラマンリー朝の王は退位に追い込まれた。1835年オスマン帝国による支配は回復されたものの外圧は続き、国内ではサヌーシー教団が勢力を拡大した。こうしたなかで1911年イタリアは3万の兵力と近代兵器を投入して沿岸部を占領した。翌年停戦協定でトルコ軍が撤退し、イタリアがトリポリタニアとキレナイカの主権を得た。しかしフェザンではサヌーシー教団やベルベル人を主体とする抵抗が激しく、平定が宣言されたのは21年後の1932年であった。
 第二次世界大戦中リビアは戦場となり、トリポリタニア、キレナイカはイギリス軍に占領され、フェザンはフランスの軍政下に置かれた。戦後の1949年、国連総会はリビアの独立を決議し、これに基づき1951年憲法が採択され、同年12月24日独立を宣言した。独立時のリビアの政体は連邦制でありリビア連合王国と称し、国王にはキレナイカの首長でありサヌーシー教団の指導者イドリース1世が就任した。1964年に憲法を改正して連邦制を廃止し、単一国家となりリビア王国と改称した。しかし議会制度がうまく機能せず、権力が王と少数者に握られ、また石油開発による経済発展、社会変動に政治が対応できず、国民に不満が高まった。その結果1969年9月1日、カダフィ大佐を中心とする青年将校が国王を追放し政権を握った(リビア革命)。カダフィは国名をリビア・アラブ共和国とし、最高機関の革命評議会の議長に就任し、首相も兼任した。革命後のリビアはアラブ民族主義、反植民地主義の政策を推し進め、1973年イスラム本源主義の立場からの独特の「文化革命」政策を打ち出した。さらに1977年人民直接民主主義への移行を宣言し、革命評議会や内閣は解散し、国名も大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国に変更した。[藤井宏志]

政治

政体は特異な直接民主制による社会主義国で、全国各地域の政治単位に全成人人民が参加する基本人民会議(立法機関)があり、これが基本人民委員会(行政機関)を選出する。各職場でも人民会議、人民委員会を組織する。各地域、各職場の人民委員会書記局メンバーが集まり国の最高意思決定機関である全人民会議(GPC)を構成し、これが全人民委員会と総書記局を選出する。最高執行機関は総書記局(7名)で、内閣に相当するのは全人民委員会(12名)である。政党はない。司法は、初審裁判所が各所にあり、控訴裁判所、高等裁判所はトリポリ、ベンガジにある。家族法に関することは宗教裁判所が取り扱う。民法、刑法は厳密にコーランに基づいてつくられており、死刑制度がある。[藤井宏志]

外交

外交では反シオニズム、反帝国主義の立場から、対イスラエル強硬路線をとり、シリア、イラン、アルジェリア、ロシアなどとは友好関係にある。逆に、従来石油開発を中心に密接な関係にあったアメリカとは、アメリカのイスラエルへの援助を理由に関係が悪化していた。1981年にはアメリカ軍機のリビア軍機撃墜事件が起こり、1986年3月にはシルテ湾でのアメリカ第六艦隊の演習強行による交戦、同年4月にはアメリカ海・空軍によるベンガジ、トリポリ爆撃事件、リビアによる西ベルリンでのディスコ爆破事件が起き、1988年にはスコットランド上空でのパンナム機爆破事件などが起きた。パンナム機爆破事件および1989年のニジェール上空でのUTAフランス機爆破の二つの事件にリビアの関与が疑われ、1990年国連でリビアに対する非難決議が採択された。一方、国内では1993年に起きた軍内部での反乱事件をきっかけに、反政府勢力の活動が活発化した。
 西欧諸国はリビアが世界各地の反体制グループのテロなどに関与していると非難。リビアは「テロ支援国家」として国際社会から孤立し、長期にわたる経済制裁を受けた。2003年8月、パンナム機爆破事件で、リビア側が非を認めてアメリカ人被害者遺族に賠償金を支払ったことから国連は制裁を凍結した。2003年12月にリビアは大量破壊兵器開発計画の完全廃棄を表明。2004年3月にはイギリスの首相ブレアがリビアを訪問しカダフィ大佐と会談、リビアとイギリスおよび国際社会との「歴史的和解」が実現した。また、イタリアの首相ベルルスコーニは2008年8月、リビアでカダフィ大佐と会談し、植民地時代の抑圧をわび、賠償として50億ドルを支出することを約した。カダフィ大佐はイギリス、フランスと軍事、産業、資源開発での協力を表明した。
 アメリカは2004年にイラン・リビア制裁法によるリビアへの制裁を解除、2006年にリビアに対するテロ支援国家指定を解除した。西ベルリンでのディスコ爆発事件、パンナム機爆破事件でのアメリカ側被害者およびアメリカ軍の報復空爆によるリビア側被害者への双方の補償が完了した2008年9月、国務長官ライスがリビアを訪問してカダフィ大佐と会談し両国の対立関係は終わった。同年10月、アメリカは経済関係強化に向けリビアに貿易事務所を開設した。
 アフリカ諸国との関係では、南の隣国チャドの内戦に1982~1987年国境問題を理由に介入し、アフリカ統一機構(OAU)加盟国から非難された。一方、汎(はん)アラブ民族主義とリビアが小国という条件から、これまでエジプト、シリア、チュニジア、モロッコなどとの合邦を試み、北アフリカ5か国によるマグレブ共栄圏の構想も発表している。2008年にはマリ政府とトゥアレグ反政府勢力との停戦協定の仲介を行った。
 なお、軍隊は陸軍5万人、海軍8000人、空軍2万人で、総兵力7万8000人である。兵制は選抜徴兵制である。[藤井宏志]

経済・産業

国土のほとんどが乾燥地域であるリビアは、独立当時はアフリカでももっとも貧しい国の一つであった。しかし、1955年以降石油開発が進んで世界有数の石油輸出国となり、石油収入の増大により経済は一変した。1人当り国内総生産(GDP)は1万0074ドル(2007)とアフリカ大陸第一で、石油収入をもとに都市、工業、農業などの開発が進められている。1980年代は世界的な石油需要の減退と価格低落によって石油収入が減少し、開発事業の進捗(しんちょく)が遅れ、国民生活も影響を受けていたが、1990年代以降の石油価格高騰によりふたたび欧米諸国の投資は活発化している。
 石油は、1955年アメリカ系、イギリス系の石油資本が利権を取得して探査、開発を進め、1959年、ゼルテン油田をはじめとして、アマーラ、ベダ、ダフラの各油田の開発が成功した。その後、1960~1966年にもサリル油田をはじめ12油田が次々に開発された。革命後は国営石油会社が設立され、外国石油会社の資産、権益の国有化が進められ、1974年3月までにほとんどの会社について51%あるいは100%の率で国有化を達成した。このとき51%の国有化にとどまっていたのはいずれもアメリカ系石油会社であったが、対米関係の悪化から1986年4月までに全社がリビアから撤退した。石油は大部分が原油のまま輸出される。同国の油田はシルテ湾から300キロメートルの範囲に集中しており、積出し基地までのパイプラインが比較的短くてすみ、また中東の油田よりヨーロッパに近いことが有利である。品質も低硫黄(いおう)(硫黄含有率0.5%)、軽質という特性をもつ。2007年現在の確認埋蔵量は65億9300万キロリットル。1970年代に比べ大幅に減産中であるが、年生産量は9866万キロリットルで、可採年数はあと67年である。また天然ガスも確認埋蔵量4兆5000億立方メートルで年間6億立方メートル生産される。シチリア島経由でイタリア本土へ600キロメートルのパイプラインがある。
 工業が国内総生産(GDP)に占める割合は、まだ8%(1990)である。トリポリとベンガジには、食品などの軽工業や織物、皮革加工など伝統工業が集中している。重化学工業では、マルサ・ブレガやミスラータなどにセメント、石油精製、石油科学、鉄鋼、アルミニウム精錬などの工場がある。
 農牧業は沿岸部の伝統的農牧業、イタリア人入植地の近代的農業、内陸部の遊牧、オアシス農業という形態で行われてきた。しかし耕作可能面積が国土の1.2%ほどであるうえ、石油開発により農村人口の流出が生じ、かなりの食料品の輸入が不可欠となっている。政府は砂漠の深層地下水などを利用した耕地の拡大と機械化農業の開発、畜産の振興を進め、生産性向上と食料自給を目ざしている。主要農産物としては小麦10万トン、大麦10万トン、オレンジ5万5000トン、アーモンド3万トン、ナツメヤシ18万トン、トマト19万トン、ジャガイモ29万トン、オリーブ17万トンなど(2006)がある。漁業は、高品質の海綿がシルテ湾、ボンバ湾で採取されるほか、マグロ漁が盛んである。
 貿易は、輸出では原油が総輸出額の73.8%、石油製品が17.3%(2007)を占める。おもな輸出相手国はイタリア、ドイツ、スペイン、トルコ、フランスで地中海周辺国が多い。アメリカへの輸出は1982年以降アメリカの禁輸措置で激減した。輸入は機械類、金属製品、自動車、鋼管が主要品目で、おもな輸入相手国は、イタリア、ドイツ、日本、韓国、イギリス、トルコ、フランスである。貿易収支は石油の輸出が始まった翌年の1962年以降、黒字が続いている。
 国内交通は、鉄道はなく、道路と空路が中心である。道路は沿岸を東西に貫くハイウェーを大動脈とし、内陸のオアシス、油田、国境を結ぶ道路も整備されている。このほか、イタリアが植民地支配の賠償として高速道路を建設中である。乗用車保有率は9人に1台とアフリカでは抜群の普及率を示す。空路はトリポリ、ベンガジの国際空港のほか、セブハ、ガダメスなど六つの国内空港がある。国家的事業として砂丘の地下の深層地下水をくみ上げ、直径4メートルのパイプラインでトリポリ、ベンガジへ送る大用水運河計画が行われており、2007年時点で、4期のうち第二期までが完成しているが、第三期の東方のトブロク方面への給水ラインは地下水の量と質に問題があり、着工されていない。[藤井宏志]

社会・文化

国民の大部分はアラブ人、あるいはアラブ人とベルベル人の混血だが、南西部にはベルベル系トゥアレグ人、南部にはアフリカ系住民との混血も少数いる。公用語は正則アラビア語であり、ベルベル語、英語、イタリア語も一部で用いられる。一般生活にはアラビア語地方方言が使われている。宗教はイスラム教(イスラーム)が国教で大部分がスンニー派に属し、アラブ世界でも、もっとも戒律の厳しい国として知られるが、カトリック教徒も少数いる。
 人口増加率は2.1%(2000~2008)であるが、離村向都が続いており、都市人口比率は高い(77.3%。2007)。外国人労働者も多数流入し、1982年には就業者の46%を占めた。しかしその後の経済悪化から、1985年以降エジプト人(10万)、チュニジア人(2万3000)などの追放策を断行した。学校制度は、小学校が義務教育で、中学校あるいは実業学校、大学へと進む。大学はトリポリとベンガジに国立大学がある。授業料は小学校から大学まで無料である。医療では、医師1人当り人口は961人(1988)とアフリカでは医師の数は多いが、乳児死亡率は17%(2007)とやや高い。平均寿命は男74歳、女77歳である。[藤井宏志]

日本との関係

日本は製鉄所建設、マイクロウェーブ網整備などのプラント建設、油田開発、インフラストラクチュア(経済基盤)整備、開発調査、研修員受け入れの面で経済技術協力を行っている。貿易では、日本は鉄鋼、機械機器、自動車、電気機器などを輸出し、魚貝類、海綿、ゴムのくずを輸入しており、日本の大幅な輸出超過である。[藤井宏志]
『大石悠二著『リビア』(1981・みずうみ書店) ▽西山雄二郎著『リビア』(1982・日本貿易振興会) ▽塩尻和子著『リビアを知るための60章』(2006・明石書店)』

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