西洋美術史において,ローマ美術は今なお十分な解明の成されていない唯一の美術である。それは,前8世紀から後4世紀までの長大な歴史を有するためだけでなく,時代によってローマの版図があまりに異なるためである。本項では,ローマ美術を,古代ローマ人が支配した地域における美術活動と規定することとする。
前5世紀までのローマ美術は,エトルリア美術およびマグナ・グラエキアのギリシア美術の影響を強く受け,いまだ独自性を有しておらず,その活動も活発ではなかった。このような状況をストラボンは,〈昔のローマ人は,美しさに気を配ることはなく,より大きなもの,より必要なものに心を奪われた〉と記している。しかし,前3世紀タラスやシュラクサイ(シラクザ)の征服によってギリシア美術の優品がローマに将来され,ローマ人はギリシアの美術に直接触れることになる。ローマ社会におけるルクスリアluxuria(贅沢)の浸透は,深刻な政治問題となっただけでなく,いまだ十分に独自の美術を発展させていなかったローマ美術に高度な外来美術を導入するという,後代の複雑な美術展開の原因をなしたのであった。前2世紀末から顕著となる寡頭政治は,富の偏在を助長し,ノビリス(貴族)の美術とプレブス(民衆)の美術の間に大きな亀裂を生じせしめた。前27年,初代皇帝の位に就いたアウグストゥスは,すでに地中海世界全域を支配する国家に成長していたローマ帝国の理念的統一とその表現のため,ギリシア美術を範とする古典主義美術を採用した。ユリウス・クラウディウス朝(14-68)の諸帝もその政策に従うが,ネロの治世からフラウィウス朝時代(69-96)にかけては,共和政末期の簡潔,質朴で写実的なローマ的要素が建築,彫刻の分野で台頭する。トラヤヌス(在位98-117)の政策は拡大主義であったが,彼を継承したハドリアヌス(在位117-138)は内政に重点を置き,都市の繁栄を軸とする属州の活性化を意図した。その政策は美術活動にも反映し,古典主義の復活と属州における美術活動の活発化を促した。フラウィウス朝時代まで,東方属州と西方属州(北アフリカを含む)の間には大きな文化程度の差があった。前者はローマ人支配以前からの高い文化を有しており,その伝統を継承していた。一方,後者はローマ都市の建設とローマ文化の将来によって初めて文明化したといえる地域(地中海沿岸域を除く)である。したがって,後者の貴族たちは都ローマの美術に追従するのみであった。しかし,ハドリアヌス時代以降の発展によって多くの都市や公共建築の造営が推進され,それに伴い,各属州に特有の美術活動が見られるようになる。換言すれば,都ローマの美術の影響力が低下しはじめたのである。アントニヌス・ピウス(在位138-161)とマルクス・アウレリウス(在位161-180)の時代は前代の延長線上にあったが,しだいに高まる社会不安が美術にも反映し,古典主義的調和を欠いた作品が出現しはじめる。この傾向はセウェルス朝時代(193-235)にさらに顕著となり,また東方的要素の台頭ともあいまって,帝政末期の美術様式の特徴を示しはじめる。それは,自然主義的形態の放棄,したがって形態の硬直化と矮小化,また表現内容と形態の一致が解体することによる観念的・表現主義的造形の台頭である。3世紀第3四半期には古典主義の復興が見られるものの,上記の傾向を押しとどめるまでには至らなかった。3世紀末の四分治制(テトラルキア)は,トリールやミラノなど管区の中心都市の美術活動を盛んにしたが,その一方で都ローマの美術上の位置を低下せしめることとなった。その結果,中心を失ったローマ美術は,その創造力を分散し,地方様式に埋没して衰退したのである。
ローマ美術は,地中海世界を中心に培われたさまざまな古代美術の最後に登場するものであるが,それに先立つ諸美術の集大成ではなく,ギリシア美術の継承性を強く有していた。しかし,ギリシアにおけるポリスの市民権とローマ市民権との相違のごとく,ローマ美術は包摂性と総合化という点でギリシア美術と大きく異なっていた。この特質は美術の領域だけでなく,社会,文化の各相に及んでいたがために,ローマの美術は政治理念を表現することができ,実生活の装飾化に機能したのである。一方そのゆえに美術が有する内在的自律性に欠け,その結果,複雑な様式変遷を示したのである。
執筆者:青柳 正規
ローマは古くはエトルリアに支配されていたため,ローマ建築は初めからエトルリアの影響を強く受けている。一方,南イタリアには古くからギリシアの植民都市があり,また,ローマが地中海に進出したころ,すなわち前2世紀の地中海世界には,ヘレニズムの建築が主導的な役割を演じていたため,その影響も当然ローマ建築に強くあらわれている。また,さまざまな異なった要素を総合し,組織化するローマ人自身の能力が彼らの建築に反映していることも見のがせない。
エトルリアの影響は神殿や住宅や墓などにみられる。ローマ建築に重要な役割を果たしたアーチもまたエトルリア人から学んだ技術であると考える人もいる。ローマの神殿は高く垂直に立ち上る基壇(ポディウムpodium)の上に建てられ,神殿に登る階段は正面だけにある。前面は広い玄関柱廊になっており,神室(ケラ)の幅は玄関柱廊の幅と同じになることが多い。側面や背面に列柱がつくられるにしても,柱は独立した円柱であるよりも,神室の壁に付けられた付け柱になるのが普通である。すなわちローマの神殿は正面性が重視され,神室の幅が広い。これらはいずれもエトルリアの神殿にみられた特徴である。ローマの住宅は玄関(ウェスティブルムvestibulum)をはいると広間(アトリウム)があり,正面には主人のための主室(タブリヌムtabulinum,tablinum),左右には個室(クビクルムcubiculum)がならんでいる。食堂(トリクリニウムtriculinium)は主室の並びに設けられる。このような住宅の平面はエトルリアの墓の平面にもみられることから,もとはエトルリアの住宅形式であったと考えられている。ポンペイの住宅では,アトリウムの屋根は四方からふきおろされ,中央に雨水を落とす天窓があり,その下に雨水を受ける水盤(インプルウィウムimpluvium)がある。大邸宅ではアトリウムを中心とする一郭の後ろに列柱中庭(ペリステュルムperistylum)を取り巻く一郭が造られる。このペリステュルムはヘレニズム世界から導入されたのであろう。2世紀以後ペリステュルムがアトリウムに代わって住宅の中心になった。
ヘレニズムの影響は建築の設計理論全般にわたっている。アウグストゥス時代の建築家ウィトルウィウスの《建築十書》は当時のギリシア,すなわちヘレニズム時代の建築理論にもとづいて書かれたもので,多くのギリシア建築家の著作が引用されている。ヘレニズムの影響は大理石の切石積みや,ドリス式,イオニア式,コリント式などギリシア建築に用いられたオーダー(柱や柱の上にのる軒までの部材の形式と組合せ)の採用に最も明らかに見られる。ローマ人はこのほかにもエトルリア起源の簡素なオーダーをトスカナ式として受け継いでいる。トスカナ式はドリス式と似ているので〈ローマ風ドリス式〉とみられることもある。ローマ人はこれらのオーダーを装飾的にさらに発展させ,またコリント式とイオニア式の柱頭を複合させてコンポジット式柱頭を造った。このように,ローマ建築はギリシア建築の発展形態とみられる一面もあり,グレコ・ロマン様式と一括して呼ばれることもある。ローマ人はオーダーをギリシア人と同じように建築の構造として使うこともあったが,アーチと組み合わせて装飾的に使うことも多かった。〈凱旋門のモティーフ〉と呼ばれるこの手法はローマ独特の建築表現として,後世の西欧の建築に繰り返し用いられた。
ローマ人はまたコンクリート構造を発明し発展させた。ローマのコンクリートは,割栗石や煉瓦屑などの骨材とモルタルをつきまぜて造られる。イタリアにはポッツォラナpozzolanaと呼ばれる火山灰の堆積土の一種があり,この砂を用いたモルタルは海中でも固まり,ひじょうに強いコンクリートになることが前3世紀ころから知られていた。コンクリートは,初めのうちは基礎などに石の代用品として,また倉庫などの壮麗さを要求されない実用的な建築に利用されていたが,帝政期にはあらゆる建築の基本的な材料になった。現代と違ってローマ時代には,仮枠も石や煉瓦で造りコンクリートといっしょに固めてしまった。したがって,現在,遺跡に見られる建築の壁面はこの永久仮枠の表面であることが多い。永久仮枠には切石積み,乱石積み,網目積み,煉瓦積み,混合積みなどの種類がある。切石積みや煉瓦積みのように仮枠自身がそのまま仕上げ材として使われることもあるが,多くはその上にスタッコを塗り,浮彫や彩色が施された。大理石張付けやモザイクも,上等の建築にはよく見られる仕上げであった。ローマ人はコンクリートを使ってドームやボールトなどを造ることによって,パンテオン(128ころ。ローマ)のような大スパンの空間を柱なしで覆うことができた。さまざまな形の空間を囲い込むこの技術の発展によって,古代建築としては初めて,内部空間を造型する芸術という観念を建築の中に定着させたことになる。これはローマ建築がもつ最大の歴史的意義と言える。共和政時代のローマでは日乾煉瓦や軟らかい凝灰岩が建築の主材料であったが,帝政期に入ってからは公共建築では大理石や大理石張りコンクリートが多くなった。コンクリートはネロの時代から宮殿などにも使われるようになったが,技術的に完成の域に達するのはハドリアヌスの時代のころと考えられる。
パラティヌス丘の皇帝宮殿やカラカラ浴場のような大建築では,多くの建物が複合している。全体を構成するさまざまな部分が互いに建築的効果を補い合いながら,全体としての建築のおもしろさをもりあげるためには,周到な組織的計画が必要である。このため,それぞれの部分を重要度に応じて主要な,あるいは副次的な軸線上に配列し,いわば軸線のネットワークが建築全体を支配する形になっている。広い・狭い,高い・低い,明るい・暗い空間がそれぞれにふさわしい装飾をもって複雑に配置されているにもかかわらず,全体としてはその豊富さには整然とした秩序がある。
ローマが版図を拡大するにつれて,軍団のキャンプや植民都市を建設する必要がしばしば起こった。ローマの都市計画は東西南北をさす主要街路を真ん中で交差させ,その他の街路を碁盤目状に配した正方形を基本とする。おもな街路の地下には下水道が埋設され,歩道と車道は区別されていた。主要街路の左右には歩道の縁にそって円柱を建てならべた列柱道路にすることが多い。列柱道路の歩道上には屋根がかけられていた。シビック・センターをなすフォルムは中央に置かれる。フォルムは周囲にコロネード(列柱廊)をめぐらした石敷きの広場で周囲に市政府関係の建物や神殿,バシリカ(市民ホール)などがあり,付近には市場や公衆便所その他の必要な公共施設が造られる。生活のための水や浴場,水洗便所などで使われる大量の水は水道によって供給された。大都市では何十kmにもわたるトンネルや水道橋をともなった上水道が建設されることもあった。劇場,円形劇場(闘技場),競技場,キルクス(戦車競技場),大浴場などのレジャー施設は大きな敷地を必要とするので,市内に敷地が得られない場合は市外に造られた。市域の周囲はがんじょうな市城壁によって守られていた。市域はコンパクトに限定されているが,都市の基盤となるこれらの公共施設は堅牢さや容量の点から見て,現代都市の水準をはるかに上回っており,その後の西欧の都市の模範となるものであった。しかし,都市の発展にともない,ローマやローマの外港オスティアのような人口過密都市では,庶民の住居はますます高層化され,5~6階建ての共同住宅(インスラinsula)が軒をならべるようになり,居住環境は悪くなった。他方,前2世紀ごろ以降,富裕層や貴族は城壁外にウィラを営んだ。これはローマ独自の新しい住宅形式で,代表的遺構としてティベリウスのウィラ(1世紀初め,カプリ)やハドリアヌスのウィラ(2世紀初め,ティボリ)などが知られる。
執筆者:堀内 清治
共和政末期の肖像彫刻の写実性は,エトルリア彫刻とローマ社会におけるイマギネス・マヨルムimagines majorum(祖先像)に由来するといわれるが,ヘレニズム美術の写実主義の影響が強い。それは,《ブルトゥス像》や《バルベリーニのトガ像》に明らかである。共和政末期,アテナイを中心とするギリシア都市から多くの彫刻家がローマに移住し,ギリシア彫刻の模刻を制作した。彼らの作品と古典主義様式は,紀元前後の公的芸術〈アウグストゥス様式〉の基礎を形成し,祭壇《アラ・パキス》,プリマ・ポルタ出土《アウグストゥス像》などを生むことになる。肖像彫刻も自然主義的要素が加わり,一定の理想化が行われるようになる。現実の情景を表す〈歴史的浮彫〉が出現するのもこの時代からであり,《カンチェレリア宮殿の浮彫》やトラヤヌスの記念柱(ローマ)において頂点に達する。一方,イリュージョニズムも現れ,ティトゥスの凱旋門(ローマ)の浮彫は,その表現法が共和政期の美術の伝統に基づくことを示している。ハドリアヌス時代の彫刻はティボリにある同帝のウィラから多数出土し,そこには皇帝の古典主義に対する好み,それに小アジア出身のアフロディシアスAphrodisias派彫刻家の活躍がうかがえる。この時代にはまた,石棺彫刻が多数制作されるようになり,神話的主題が,調和のとれた古典主義と誇張した造形性を有するアジア的バロック主義によって表された。ついで,2世紀後半の代表作であるマルクス・アウレリウスの記念柱(ローマ)やアントニヌス・ピウスの記念柱(基壇部のみ)には,人物像の矮小化と主題提示の饒舌化が見られ,古典主義の均衡を失いはじめる。技法上もドリルを多用するため深い溝彫が可能となるが,そのため細部表現を用いた絵画化した彫刻となっている。セウェルス朝時代の肖像彫刻には明部と陰影を強調した作例が現れ,建築装飾の浮彫も建物全体を覆うため個々の形態の造形力が弱まる。前3世紀中ごろの《ルドビシの石棺》は,その好例である。そしてコンスタンティヌスの凱旋門(ローマ)の浮彫のごとく,硬直化した正面性の強い表現となった。ローマ彫刻は上記のほか,前1世紀から帝政末期まで作り続けられるギリシア彫刻の模刻がある。ポリュクレイトスやプラクシテレスらの原作ばかりでなく,厳格様式の原作やエジプト彫刻を模した作品もあり,それらによって,ローマ人の美術に対する各時代の好みと,今は失われたギリシア彫刻を知ることができる。
ポンペイが埋没するまでのローマ絵画の変遷は,おもにポンペイ遺跡の壁画によって判明している。ポンペイの壁画および壁面装飾は前3世紀末から後79年まで4様式に区分されている。異なる色大理石の壁面を,しっくいによって模した第1様式(漆喰装飾様式。前3世紀末~前80ころ),建築モティーフを主とする第2様式(建築装飾様式。前80ころ~アウグストゥス時代),華麗な植物文モティーフを用いた第3様式(華麗様式。アウグストゥス時代後半~後62年),それに複雑な非現実的建築モティーフを描いた第4様式(複雑様式。62~79年)である。第1様式は,地中海東部や黒海沿岸,シチリアなどにもその遺例を見る,ヘレニズム時代に広く普及していた壁面装飾様式であり,ポンペイの〈ファウヌスの家Casa del Fauno〉などから典型的例が出土している。第2様式はヘレニズム期の宮殿の装飾壁画を模倣したもので,ポンペイの〈秘儀荘Villa dei Misteri〉壁画,ボスコレアーレ出土壁画,それに《オデュッセウスの風景画》などがこれに属する。第3様式はエジプト趣味の反映,および第2様式の発展とみなすことができる。第4様式は,ポンペイの〈ベッティイ(ウェッティウス)の家Casa dei Vettî〉などに作例を見る。79年以降の絵画は,オスティア,エフェソス,都ローマ,それにヨーロッパ属州の都市から出土しているが,いずれも断片的で,様式の変遷をとらえるに十分な数の作例が残るわけではない。ただし,建築モティーフはさらに幻想的性格を強くし,カタコンベの壁画に近い様式に至ったことは推定できる。画家の名は,前300年ころのファビウス・ピクトルFabius Pictorやネロのドムス・アウレア(64ころ)を装飾したファブルスFabullusらしか伝わっていない。後者の壁画は16世紀初頭ラファエロに影響を与え,グロテスク形式の装飾壁画を生むことになる。
絵画的領域としては,このほかモザイクがあり,おもに住宅,宮殿,公共浴場などの床の装飾に用いられた。これは多色モザイクと単色モザイクに分類できる。前者は《アレクサンドロス・モザイク》のような精緻な作品から,ピアッツァ・アルメリーナの広大な床面まで技法・形式とも多彩である。後者は,共和政末期から現れ,ローマ固有の形式として発達した。
ローマの工芸の特徴は,広範な領土から採れる貴金属や貴石・宝石を潤沢に使用した点にある。それは,たとえばボスコレアーレから出土した帝政期の多数の金属器(いわゆる〈ボスコレアーレの遺宝〉)にうかがえる。ヘレニズム時代に盛んとなった彫玉は,ローマ貴族の豪勢な生活文化と一致して,《ゲンマ・アウグステア(アウグストゥスの宝玉)》《フランスのカメオ》などの優品を生んだ。食卓には銀器,ガラス器(ローマ・ガラス),それにテラ・シギラタ陶器が並び,それらは高い洗練度を有するようになる。装身具,家具調度品,祭器なども高い水準をもち,帝政末期の社会混乱の中でも工芸は活力を保ってビザンティン帝国や中世ヨーロッパに継承された。
執筆者:青柳 正規
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紀元前8世紀から紀元後4世紀ごろまで、都市ローマを中心に、ローマ人が支配した地域において行われた美術活動。
伝説によれば、前753年にロムルス王によって建設されたといわれるローマは、テベレ川左岸に沿っていくつもの丘陵を抱えているが、王政時代(前753~前509)には、この一帯にラテン、サビニ、エトルリアの各種族が居住していた。ローマは古くからエトルリア文化の強い影響を受けており、伝説的諸王7代のうち、おそらく最後の3代(前550年ころから約半世紀)はエトルリア王権の支配下にあったとされている。カピトリーノの丘にユピテル、ユノ、およびミネルバの3神殿が建てられ、レギア(王宮)や城壁などの建造が行われたのも、この時期にあたるとみなされる。しかし、彼らの支配の基盤は強固なものではなく、前6世紀末に至ってローマからエトルリア王権は追放され、共和制が樹立される。内政を整えたローマは、イタリア半島のみならず、シチリア島からアフリカ北岸のカルタゴに至る地中海中部に勢力を拡充し、ついにギリシア文化圏の全域を統治するに至った。さらに、ヨーロッパの中西部の各地域も制圧して広大な世界国家を建設するが、それとともに内政形式も変わり、前27年に帝政時代に入るのである。
[濱谷勝也]
ローマ建築は、その構造上の特質として、東方(=エトルリア)から継承した半円もしくは半球を基本とする形式を発展させた。広大な空間を必要とするローマの建築にこの構造形式が用いられたのは、石材の重量を力学的に利用して堅牢(けんろう)さを確保するためであり、壁体の開口部にも同じ形式が用いられる。これに対し外装には、ギリシア神殿の軒から基壇に至るデザインをそのまま使っている。ギリシア神殿では、軒も円柱も構造体であると同時に装飾デザインの役割を負うが、ローマ建築の場合は構造上の意味は失われて、単なる装飾デザインに転化されるのである。
ローマで造営事業がとくに進展を示すのは帝政時代(前27~後476)である。ローマ市民生活の中心をなしたフォルムforum(ラテン語。イタリア語ではフォロforo=公共広場)は、神殿、凱旋(がいせん)門、記念柱などで形成されるが、これらの建造物は個別的にも建てられる。公共的施設としては、バシリカ(市場と法廷とが併設された建造物)、コロセウム(闘技場)、テルマエ(大浴場)などがあげられる。さらに皇帝の陵墓や、水道橋、野外劇場などもこの時代の建造物として見落とせない。
ローマ建築史上の最盛期は、ウェスパシアヌス帝からハドリアヌス帝に至る期間(69~138)であるが、最初に造営されたローマのコロセウムは、各地に現存するこの種の建造物では最大規模を有し、約5万人の観客が収容されたという。また、ティトゥス帝の小アジア地域における戦勝を記念する凱旋門は、現存するものではもっとも古く、端正で簡潔な構成美をみせている。
ローマ帝国の治世が最大領域を占めた時期のトラヤヌス帝(在位98~117)は、造営事業にも傑出した業績を残しており、ローマ市内における事例としてはフォロ・トライアーノForo di Traiano(106着手、113完成)が皇帝フォルム中最後の、最大のものとして画期的である。原形をほぼとどめているのは記念柱のみであるが、わずかに残る礎石から、凱旋門、バシリカ、記念柱、および神殿といったローマ固有のモニュメントを結ぶ線が主軸となる、均整のとれた公共施設であったことが推測できる。
次のハドリアヌス帝(在位117~138)も建築に情熱をもち、多くの造営事業を企画・実施したが、特筆されるのは主神ユピテルに奉献された神殿「パンテオン」である。円形のプランに半球形の円蓋(えんがい)を架したその構造には、エトルリア由来の形式がもっとも典型的に適用され、正面はギリシア神殿のそれを模したコリント式柱廊で装われている(完成は次のアントニヌス・ピウス帝の時代)。またハドリアヌス帝の陵墓も直径64メートルの円形プランの大建築で、テベレ川を挟んで同一規模のアウグストゥス帝のそれと相対していた。今日のサンタンジェロ城は、荒廃後、中世に要塞(ようさい)として改造されたものである。
帝政時代の後期になると、カラカラ帝(118―217)およびディオクレティアヌス帝(在位284~305)によってテルマエが実現されるが、これは体育室、図書室、各種浴室、大広間、競技場などが配置された、複雑で大規模な総合施設であった。
[濱谷勝也]
この分野においては、ローマは、先行のギリシア美術をほとんどそのまま踏襲している。とくに彫刻においては、ローマ時代に制作された作品の多くが、古典ギリシアの模作であった。ローマ独自の作品で現在に伝えられているものもけっして少なくはないが、それらは凱旋門、記念柱などの建造物、あるいは石棺に施された歴史的浮彫りである。とくにトラヤヌス帝およびマルクス・アウレリウス帝(在位161~180)の記念柱の浮彫りは、円柱に螺旋(らせん)状に刻まれた200メートル以上にわたる一種の絵巻物で、歴史上、美術様式上きわめて貴重である。またアウグストゥス帝(在位前27~後14)が、帝政のもたらした内政秩序の回復を記念して設けたアラ・パキス(平和の祭壇)は「ローマのパルテノン・フリーズ」ともいわれる秀作である。
そのほかローマ彫刻で美術史上重要な意義をもつものに、各種の肖像彫刻(胸像、座像、立像、騎馬像)があげられる。石棺の上に夫妻の肖像を配置するエトルリアの習慣が伝統として残り、ギリシア後期の優れた肖像彫刻が、この種のローマ彫刻を大いに育成した。そのもっとも著名な事例はアウグストゥス帝軍装立像とマルクス・アウレリウス帝騎馬像である。
建築を装飾する壁画やモザイクは現実的・実利的なローマ人の性格を反映し、風俗的で享楽的な傾向が顕著である。その実態を現代に伝えているのは、79年のベスビオ火山噴火で埋没したポンペイやヘルクラネウムの発掘品であるが、豊かで風俗的な日常生活の諸場面が絵画表現の主題として広範に取り上げられ、それに静物・動物・風景が配されて、当時のローマ人の生活感情をありのまま伝えている。富裕なローマ人はギリシアの画家を招いて制作にあたらせているので、ギリシア絵画の影響を直接伝えたと思われる壁画にはきわめて高度な技巧が認められ、その大部分はナポリ国立考古博物館に所蔵されている。またローマ市内からも若干の壁画とモザイクが発見されており、これらはローマ国立美術館に現存する。
[濱谷勝也]
『辻茂編著『大系世界の美術6 ローマ美術』(1976・学習研究社)』▽『H・フォン・ハインツェ著、長谷川博隆訳『西洋美術全史3 ローマ美術』(1980・グラフィック社)』▽『R・ビアンキ・バンディネルリ著、吉村忠典訳『人類の美術 ローマ美術』(1974・新潮社)』▽『呉茂一編著『世界の文化史蹟4 ローマとポンペイ』(1968・講談社)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…これは原ローマ文化としてローマの芸術の底流に入ったに違いない。エトルリア美術
【ローマ美術】
前6世紀末ごろ,ローマ人はイタリアに住む他の民族を征服してローマ共和国を建てた。彼らは強力な政治的・軍事的組織をもち,世界支配の意志をもっていた。…
※「ローマ美術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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