太良荘(読み)たらのしょう

改訂新版 世界大百科事典 「太良荘」の意味・わかりやすい解説

太良荘 (たらのしょう)

若狭国遠敷(おにゆう)郡にあった荘園。現在地は小浜市太良庄。1125年(天治2)平師季の子丹生隆清が私領の松永保恒枝名田,東郷丹生村,西郷太郎畠を太郎忠政に譲与,この田畠を中心に国衙領太良保が立てられた。史料上の初見は51年(仁平1)。忠政の子若丸は叡山の山僧丹生出羽房雲厳となり,78年(治承2)知行国主により公文職に補任され,治承・寿永の内乱を若狭最大の在庁官人である稲庭時定の指揮下で戦い,鎌倉殿御家人になった。雲厳は師の凱雲をこの地に招き,73年(承安3)薬師堂を建立,自己の所領末武名を預け,一方,凱雲はさらに86年(文治2)馬上免を開発する。しかし時定が失脚,若狭(津々見)忠季が守護として保地頭職となるに及び,雲厳の立場は苦しくなり,1208年(承元2)時定の子時国に所領を譲って引退した。時国は,比企の乱に連座した忠季に代わって03年(建仁3)にいったん地頭となった中条家長代官となる一方,左少将源家兼の家人となった。この家兼の父でおそらく知行国主であった前治部卿源兼定は,16年(建保4)までに保の年貢の一部を七条院の建立した歓喜寿院の修二月雑事に充て,保を太良荘とし,みずからは領家となって時国の母中村尼を公文職に補任,翌年,検注を行い12の百姓名を定めた。

 21年(承久3)七条院は官宣旨により荘を正式に歓喜寿院領としたが,承久の乱により荘は顚倒し,再び国衙領太良保となり,乱の前年地頭に還補された若狭忠季の子忠清は,公文職・馬上免等の時国の所領を押さえた。36年(嘉禎2)の国検で保の田地は西郷24町7段120歩,東郷1町280歩と確定し,地頭給3町,公文給5段,馬上免は地頭の支配下に入った。一方,東寺供僧の再興を企てる菩提院行遍(ぼだいいんぎようへん)は,歓喜寿院を七条院から相伝した仁和寺御室の道深を通じて,その姉妹で若狭の分国主であった式乾門院に働きかけ,39年(延応1)保を歓喜寿院の便補保(びんぼのほ)とし,腹心の聖宴を保司に任じ,さらに同年11月,保を同院領として立券荘号することに成功する。40年(仁治1)道深は荘を東寺に寄進し,それを認める官宣旨が下り,東寺供僧領太良荘が成立した。領家行遍は,聖宴を預所,定宴を預所代とし,地頭代の濫妨に頑強に抵抗する平民百姓勧心・時沢・真利等の訴訟を六波羅に持ち込み,43年(寛元1)百姓勝訴の判決を得た。ついで47年(宝治1)定宴の地頭代に対する訴訟にも幕府の裁許が下り,公文職は地頭が支配し,勧農は預所が行うこととした。定宴は54年(建長6)百姓の協力を得て検注を行い,56年(康元1)には勧農帳を作成して年貢の増徴をはかった。定田18町7段280歩は預所直属の一色田と,勧心等6人の平民百姓が小百姓を代表して年貢・公事納入の責任をもつほぼ均等な五つの百姓名(1名が半名に分かれている)からなり,年貢米186石余,糸・綿・椎等の雑物が東寺供僧に貢進された。

 鎌倉後期以降,百姓等の年貢・公事未進,損免の要求が目だち,世代交替,小百姓の成長に伴い勧心名などの百姓名主職をめぐる相論が続発,末武名については一方の雲厳の養子である宮河乗蓮,藤原氏女の父子と,それに対する,御家人時国,中原氏女の父子および氏女の夫脇袋範継との相論が半世紀にも及んだ。支配者内部にも菩提院,聖宴に対する供僧の不信が高まり,供僧は聖宴を退け,女子相続を条件に定宴を預所にしたが,その息女浄妙は助国名復活をめぐる百姓間の争いの処理を誤り,1287年(弘安10)地頭忠兼(忠清の子)の介入を招いた。結局,助国名の復活を認めたのみで他は従前どおりとした地頭との和与が94年(永仁2)に成立したが,浄妙とその女に対する百姓たちの不満が強く,供僧はこれを利用して預所を排除して直務を行おうとした。しかし1301年(正安3)荘はいったん国衙に顚倒され,すぐ旧に復したのも束の間,翌年,地頭忠兼が罪科により所職を没収され,北条氏得宗が地頭となるに及び供僧の支配は空洞化し,得宗給主による実検により領家方の田数は減じ,百姓名も9名と4分1に改められた。

 建武新政でこれはすべて旧に復し,後醍醐天皇は東寺に新設した不動堂護摩供僧25口の供料荘として太良荘地頭職を寄進し,18口供僧(本供僧)の下にある領家職とあわせ,東寺による一円支配が実現する。前地頭若狭氏の乱入を退け,地頭代脇袋彦太郎の非法に対しては,1334年(建武1)禅勝・実円を中心とする惣百姓一味神水して罷免を要求,新政崩壊後も地頭職を保持した東寺は,39年(延元4・暦応2)領家方163石余,地頭方100石余の年貢に,畠地子26貫文を加えた体制を軌道にのせた。惣百姓の主導権をめぐる禅勝・実円と体興寺の願成・隆祐の争い,国人の代官に対する惣百姓の一揆,公文禅勝,預所阿賀丸の夜討・殺害など荘の動揺はつづき,61年(正平16・康安1)細川清氏の乱のさいの守護による半済はんぜい)はいったん回復したが,68年(正平23・応安1)の守護一色氏の半済はついに動くことはなかった。その結果,領家・地頭方とも半分となった年貢は市(いち)で銭に替えて送られ,半済方に対して本所方といわれた領家・地頭方共通の代官には富裕な熊野山伏や相国寺の荘主が任命され,公文禅勝の子孫がこれに協力する体制がしばらくは安定し,1429年(永享1),前年の徳政一揆で罷免された代官に代わった新代官の手で,検注も実施された。しかし40年の一色氏の没落,新守護武田氏の入部等の動揺の中で,43年(嘉吉3)この荘でも徳政一揆がおこり,守護の支配は給人山県氏を通じてしだいにきびしくなり,強力な代官の下向を望む百姓の動きも空しく,現地は応仁の乱にまきこまれ,東寺の支配はほとんど有名無実と化した。名目上は,地頭方については1503年(文亀3)まで年貢米注文が見られるが,実質的には武田氏の家臣山県氏による支配が,かつての荘の機構を継承しつつ貫徹し,太良荘の歴史は終りをつげた。
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百科事典マイペディア 「太良荘」の意味・わかりやすい解説

太良荘【たらのしょう】

若狭国遠敷(おにゅう)郡の荘園。現福井県小浜(おばま)市太良庄を中心とした一帯。1125年開発領主丹生氏の私領を中心に成立した国衙(こくが)領太良保(ほ)に始まる。1239年京都東(とう)寺の行遍の努力で京都歓喜寿(かんきじゅ)院領として立荘,東寺が領家(りょうけ)となる。1254年の検注による領家支配の定田(じょうでん)は18町余,5つの百姓名(ひゃくしょうみょう)はほぼ均等であるが,鎌倉後期になると百姓名主職をめぐる相論(そうろん)も頻発した。1302年若狭忠兼が罪科により地頭職を没収され,代わって北条氏得宗(とくそう)が地頭となると東寺の支配は空洞化,建武新政府により旧に復し,あわせて地頭職も寄進されて東寺の一円支配が実現した。しかし1367年には守護一色(いっしき)氏により半済(はんぜい)が行われ,15世紀になると徳政一揆も続発,次第に荘園としての実体を失っていった。
→関連項目遠敷古津

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「太良荘」の意味・わかりやすい解説

太良荘
たらのしょう

福井県小浜(おばま)市太良荘の地域にあった中世荘園。北、東、西の三方を山に囲まれた地で、太良河を中心にした谷田と考えることができるが、荘内には太良、鳴滝(なるたき)などの小谷があり山裾(やますそ)に集落がある。太良荘は12世紀なかばには太良保(ほう)として成立していた。伝領関係の概略は、丹生二郎隆清(にうじろうたかきよ)から譲られた私領が永田太郎忠政らによって開発され、その後、若狭(わかさ)国知行(ちぎょう)国主平経盛(つねもり)を経て藤原実宗(さねむね)の所領となり、さらに1221年(承久3)歓喜寿院(かんきじゅいん)領となり、おそくとも同年には太良荘となって、1240年(仁治1)東寺(とうじ)に寄進された。1302年(乾元1)には北条得宗御内(ほうじょうとくそうみうち)領となるが、建武(けんむ)新政においてふたたび東寺一円領となった。1254年(建長6)の実検取帳(じっけんとりちょう)によると、惣田(そうでん)数28町1反314歩(そのうち定田(じょうでん)18町7反244歩)で、年貢米総計186石6斗9升2合5才である。畠地は十数町あったと思われる。太良荘は名(みょう)と領主の直属地である一色田(いっしきでん)とに分かれて編成されており、いわゆる本名(ほんみょう)体制(旧名体制ともいい、年貢・公事の収納体制として荘内を百姓名と一色田とに分けて編成すること)をとっていた。特徴的なことは、五つの百姓名の名田が2町2反で均一化された均等名編成になっていることである。名以外の一色田は建長(けんちょう)年間(1249~56)で29人に分割されている。1334年(建武1)8月21日太良荘の百姓59名が連署して、地頭代官脇袋彦太郎(わきぶくろひこたろう)の非法を東寺に訴えた申状(もうしじょう)は有名である。それによると、新儀の夫役(ぶやく)を賦課する代官と先例を守れとする農民との間に対立があり、百姓らの結合が進展していることがわかる。

[蔵持重裕]

『網野善彦著『中世荘園の様相』(1966・塙書房)』『網野善彦著『中世東寺と東寺領荘園』(1978・東京大学出版会)』『黒田俊雄著『日本中世封建制論』(1974・東京大学出版会)』『大山喬平著『日本中世農村史の研究』(1978・岩波書店)』

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「太良荘」の解説

太良荘
たらのしょう

若狭国遠敷(おにゅう)郡にあった東寺領荘園。荘域は福井県小浜市付近。国衙領の太良保として平安末期に成立。1216年(建保4)までには歓喜寿院(七条院の建立)を本家とする太良荘となる。21年(承久3)官宣旨で歓喜寿院領として公認。承久の乱後に国衙領となるが,のち荘号を回復し,領家職の一部は仁和寺御室道深(どうしん)に譲られた。40年(仁治元)には道深が東寺に寄進,本家歓喜寿院の東寺領太良荘が成立した。東寺は現地に預所代定宴(じょうえん)を派遣し荘園経営に着手,地頭代の罷免を勝ちとった。建武新政期に後醍醐天皇が地頭職を東寺に寄進,領家職とあわせて東寺の一円支配が実現した。14世紀末から守護が支配する半済(はんぜい)方と寺家支配の領家方にわかれた。応仁の乱後,東寺の支配は有名無実化した。

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世界大百科事典(旧版)内の太良荘の言及

【遠敷】より

…近辺に検見坂(けみざか)古墳群(6世紀後半),若狭彦・姫神社(若狭一・二宮),国分寺などがあり,要港小浜にも近く,古くから市場が存在した。1243年(寛元1),太良荘(たらのしよう)百姓がそこで銭を求めたかどで地頭から科料銭をとられたという〈市庭〉は,これを指すとみられ,1334年(建武1)には,同荘百姓・新検校らが〈遠敷市日〉に守護代配下の武士によって銭貨・資財を奪われている(東寺百合文書)。早くも定期市化していたことが知られ,さらに1407年(応永14)10月14日からは〈日市〉となっていて(若狭国税所今富名領主代々次第),当時の盛況がしのばれる。…

【勧農】より

…1104年(長治1)春には紀伊国木本荘へ勧農のために使者が下向し,31町3反の荘田に種子・農料を下行した。若狭国太良荘では1239年(延応1)預所定宴が農民たちに農料を下し,斗代をひき下げて,荘田を満作させるための措置を講じている。また越中国石黒荘の弘瀬郷には勧農田と称される田地があったが,これは百姓の逃死亡による不作田に新しく浪人を招いて耕作させた田地であった。…

【損亡】より

…しかし鎌倉時代後期になると,農民の政治的成長と荘園支配の動揺によって,不作でもないのに損亡が主張されることもおこってくる。典型的なものが東寺領若狭国太良(たら)荘の例で,1304‐06年(嘉元2‐徳治1),連続して百姓らは領家東寺に申状を提出し,〈長日大旱魃〉〈大風大洪水〉などと最大級の形容詞をつけて年貢減免を要求している。これは,豊作にもかかわらず,東寺の支配が地頭側の圧力のため揺らいでいる状況をみてとった農民らによる,〈政治的損亡〉だとされている。…

【年貢】より

… 初期荘園の系譜をひく荘園では,早くから収穫量に応じた反別(たんべつ)の年貢量(斗代(とだい))が決められており,たとえば大和国東大寺領櫟(いちい)荘では,1137年(保延3)の検田帳によると2斗代,3斗代,4斗代,5斗代,6斗代の5段階になっていた。寄進地系の荘園では,寄進前の公田官物率法(かんもつりつぽう)の影響をうけることが多かったようで,たとえば大和国東大寺領春日荘や同国興福寺一乗院領池田荘の一律の3斗代,若狭国東寺領太良(たら)荘の一部にみられる6斗4升8合代などはその例である。太良荘には,地味に応じて年貢量の決められていたところも多くあり,1254年(建長6)の実検取帳目録によると6斗4升8合代のほかに5斗代,6斗代,7斗代,8斗代,9斗代,石代のところがみられる。…

【早米】より

…また領主は,その年最初にとれた新米の納入米である早米の納入量と時期に特別な関心をもった。早米の納期は,鎌倉後期の東寺領若狭国太良荘(たらのしよう)の例では陽暦9月20日~10月10日ごろであり,その量は全年貢米のほぼ20%程度を占めていた。【黒田 日出男】。…

【もてなし】より

宴会贈物【野村 雅一】
【日本】

[中世]
 〈もてなし〉の本来の語義は,相手をだいじに扱う,面倒をみる,たいせつに待遇すること,またそうした人に対するふるまい方を意味するが,転じて饗応,馳走(ちそう)を意味するようになる。饗応の意で広く使われるようになるのは,尾張国熱田社の神官が性蓮という僧を〈請じ寄せて,さまざまにもてなし,馬・鞍・用途など沙汰して,高野へ〉送った(《沙石集》)とか,若狭国太良荘(たらのしよう)の預所が六波羅の小奉行を招待して〈もてなし申〉(《東寺百合文書》),引出物に用途1結,厚紙10帖を贈ったなどの用例にみられるように,鎌倉中期以降のことであった。《日葡辞書》は〈人を招待などして,手あつく待遇する〉と釈している。…

【若狭国】より

…惣田数帳では,鎌倉中期の若狭の総田積が2217町6反余と記され,うち国衙領1181町1反余,残りが荘園である。 当時の荘園には,三方郡に織田荘(おりたのしよう)(山門領),佐古荘,前河荘(日吉社領),倉見荘(新日吉社領),向笠荘(大神宮領),永富保(法勝寺領),藤井保(尊勝寺領),田井保(大炊寮領)など,遠敷郡に賀茂荘(宮河荘,賀茂別雷社領),瓜生荘(円満院門跡領),鳥羽荘(山門領),名田荘(なたのしよう)(蓮華王院領),安賀荘(山門領),三宅荘(長講堂領),吉田荘(同),国富荘(くにとみのしよう)(太政官厨家領),恒枝保,西津荘(神護寺領),太良荘(たらのしよう)(東寺領)など,大飯郡に加斗荘(円満院門跡領),立石荘(九条家領),和田荘などがあった。これらのうち成立が摂関政権期ないしそれ以前と見られるのは,惣田数帳に〈本荘〉として記される織田,佐古,賀茂,加斗,立石の5荘などごく少数であり,他は白河院政期以後に急速に荘園化したものと考えられる。…

※「太良荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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