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太良荘 たらのしょう

百科事典マイペディアの解説

太良荘【たらのしょう】

若狭国遠敷(おにゅう)郡の荘園。現福井県小浜(おばま)市太良庄を中心とした一帯。1125年開発領主丹生氏の私領を中心に成立した国衙(こくが)領太良保(ほ)に始まる。
→関連項目遠敷古津

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世界大百科事典 第2版の解説

たらのしょう【太良荘】

若狭国遠敷(おにゆう)郡にあった荘園。現在地は小浜市太良庄。1125年(天治2)平師季の子丹生隆清が私領の松永保恒枝名田,東郷丹生村,西郷太郎畠を太郎忠政に譲与,この田畠を中心に国衙領の太良保が立てられた。史料上の初見は51年(仁平1)。忠政の子若丸は叡山の山僧丹生出羽房雲厳となり,78年(治承2)知行国主により公文職に補任され,治承・寿永の内乱を若狭最大の在庁官人である稲庭時定の指揮下で戦い,鎌倉殿御家人になった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

太良荘
たらのしょう

福井県小浜(おばま)市太良荘の地域にあった中世荘園。北、東、西の三方を山に囲まれた地で、太良河を中心にした谷田と考えることができるが、荘内には太良、鳴滝(なるたき)などの小谷があり山裾(やますそ)に集落がある。太良荘は12世紀なかばには太良保(ほう)として成立していた。伝領関係の概略は、丹生二郎隆清(にうじろうたかきよ)から譲られた私領が永田太郎忠政らによって開発され、その後、若狭(わかさ)国知行(ちぎょう)国主平経盛(つねもり)を経て藤原実宗(さねむね)の所領となり、さらに1221年(承久3)歓喜寿院(かんきじゅいん)領となり、おそくとも同年には太良荘となって、1240年(仁治1)東寺(とうじ)に寄進された。1302年(乾元1)には北条得宗御内(ほうじょうとくそうみうち)領となるが、建武(けんむ)新政においてふたたび東寺一円領となった。1254年(建長6)の実検取帳(じっけんとりちょう)によると、惣田(そうでん)数28町1反314歩(そのうち定田(じょうでん)18町7反244歩)で、年貢米総計186石6斗9升2合5才である。畠地は十数町あったと思われる。太良荘は名(みょう)と領主の直属地である一色田(いっしきでん)とに分かれて編成されており、いわゆる本名(ほんみょう)体制(旧名体制ともいい、年貢・公事の収納体制として荘内を百姓名と一色田とに分けて編成すること)をとっていた。特徴的なことは、五つの百姓名の名田が2町2反で均一化された均等名編成になっていることである。名以外の一色田は建長(けんちょう)年間(1249~56)で29人に分割されている。1334年(建武1)8月21日太良荘の百姓59名が連署して、地頭代官脇袋彦太郎(わきぶくろひこたろう)の非法を東寺に訴えた申状(もうしじょう)は有名である。それによると、新儀の夫役(ぶやく)を賦課する代官と先例を守れとする農民との間に対立があり、百姓らの結合が進展していることがわかる。[蔵持重裕]
『網野善彦著『中世荘園の様相』(1966・塙書房) ▽網野善彦著『中世東寺と東寺領荘園』(1978・東京大学出版会) ▽黒田俊雄著『日本中世封建制論』(1974・東京大学出版会) ▽大山喬平著『日本中世農村史の研究』(1978・岩波書店)』

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世界大百科事典内の太良荘の言及

【遠敷】より

…近辺に検見坂(けみざか)古墳群(6世紀後半),若狭彦・姫神社(若狭一・二宮),国分寺などがあり,要港小浜にも近く,古くから市場が存在した。1243年(寛元1),太良荘(たらのしよう)百姓がそこで銭を求めたかどで地頭から科料銭をとられたという〈市庭〉は,これを指すとみられ,1334年(建武1)には,同荘百姓・新検校らが〈遠敷市日〉に守護代配下の武士によって銭貨・資財を奪われている(東寺百合文書)。早くも定期市化していたことが知られ,さらに1407年(応永14)10月14日からは〈日市〉となっていて(若狭国税所今富名領主代々次第),当時の盛況がしのばれる。…

【勧農】より

…1104年(長治1)春には紀伊国木本荘へ勧農のために使者が下向し,31町3反の荘田に種子・農料を下行した。若狭国太良荘では1239年(延応1)預所定宴が農民たちに農料を下し,斗代をひき下げて,荘田を満作させるための措置を講じている。また越中国石黒荘の弘瀬郷には勧農田と称される田地があったが,これは百姓の逃死亡による不作田に新しく浪人を招いて耕作させた田地であった。…

【損亡】より

…しかし鎌倉時代後期になると,農民の政治的成長と荘園支配の動揺によって,不作でもないのに損亡が主張されることもおこってくる。典型的なものが東寺領若狭国太良(たら)荘の例で,1304‐06年(嘉元2‐徳治1),連続して百姓らは領家東寺に申状を提出し,〈長日大旱魃〉〈大風大洪水〉などと最大級の形容詞をつけて年貢減免を要求している。これは,豊作にもかかわらず,東寺の支配が地頭側の圧力のため揺らいでいる状況をみてとった農民らによる,〈政治的損亡〉だとされている。…

【年貢】より

… 初期荘園の系譜をひく荘園では,早くから収穫量に応じた反別(たんべつ)の年貢量(斗代(とだい))が決められており,たとえば大和国東大寺領櫟(いちい)荘では,1137年(保延3)の検田帳によると2斗代,3斗代,4斗代,5斗代,6斗代の5段階になっていた。寄進地系の荘園では,寄進前の公田官物率法(かんもつりつぽう)の影響をうけることが多かったようで,たとえば大和国東大寺領春日荘や同国興福寺一乗院領池田荘の一律の3斗代,若狭国東寺領太良(たら)荘の一部にみられる6斗4升8合代などはその例である。太良荘には,地味に応じて年貢量の決められていたところも多くあり,1254年(建長6)の実検取帳目録によると6斗4升8合代のほかに5斗代,6斗代,7斗代,8斗代,9斗代,石代のところがみられる。…

【早米】より

…また領主は,その年最初にとれた新米の納入米である早米の納入量と時期に特別な関心をもった。早米の納期は,鎌倉後期の東寺領若狭国太良荘(たらのしよう)の例では陽暦9月20日~10月10日ごろであり,その量は全年貢米のほぼ20%程度を占めていた。【黒田 日出男】。…

【もてなし】より

宴会贈物【野村 雅一】
【日本】

[中世]
 〈もてなし〉の本来の語義は,相手をだいじに扱う,面倒をみる,たいせつに待遇すること,またそうした人に対するふるまい方を意味するが,転じて饗応,馳走(ちそう)を意味するようになる。饗応の意で広く使われるようになるのは,尾張国熱田社の神官が性蓮という僧を〈請じ寄せて,さまざまにもてなし,馬・鞍・用途など沙汰して,高野へ〉送った(《沙石集》)とか,若狭国太良荘(たらのしよう)の預所が六波羅の小奉行を招待して〈もてなし申〉(《東寺百合文書》),引出物に用途1結,厚紙10帖を贈ったなどの用例にみられるように,鎌倉中期以降のことであった。《日葡辞書》は〈人を招待などして,手あつく待遇する〉と釈している。…

【若狭国】より

…惣田数帳では,鎌倉中期の若狭の総田積が2217町6反余と記され,うち国衙領1181町1反余,残りが荘園である。 当時の荘園には,三方郡に織田荘(おりたのしよう)(山門領),佐古荘,前河荘(日吉社領),倉見荘(新日吉社領),向笠荘(大神宮領),永富保(法勝寺領),藤井保(尊勝寺領),田井保(大炊寮領)など,遠敷郡に賀茂荘(宮河荘,賀茂別雷社領),瓜生荘(円満院門跡領),鳥羽荘(山門領),名田荘(なたのしよう)(蓮華王院領),安賀荘(山門領),三宅荘(長講堂領),吉田荘(同),国富荘(くにとみのしよう)(太政官厨家領),恒枝保,西津荘(神護寺領),太良荘(たらのしよう)(東寺領)など,大飯郡に加斗荘(円満院門跡領),立石荘(九条家領),和田荘などがあった。これらのうち成立が摂関政権期ないしそれ以前と見られるのは,惣田数帳に〈本荘〉として記される織田,佐古,賀茂,加斗,立石の5荘などごく少数であり,他は白河院政期以後に急速に荘園化したものと考えられる。…

※「太良荘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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