三宅神社(読み)みやけじんじや

日本歴史地名大系 「三宅神社」の解説

三宅神社
みやけじんじや

[現在地名]西都市三宅

三宅の集落北にある。天津彦火火邇邇杵命や木花咲耶姫命など一〇神を祀り、旧村社。古くは福野ふくの宮・覆野ふくの大神宮・福野八幡宮などといい、江戸時代には西都農さいとの神社ともいった。創建の年は明らかではないが、宮崎市奈古なこ神社の縁起(同社蔵)に「児湯郡府中は大王城なり、之を三宅と称する。覆野大神宮あり瓊瓊杵尊を祀る」とあり、国衙所管に属する神社であった。古代から中世を通じて在庁である日下部一族、日向最大の在地系領主である土持一族、室町時代には都於郡とのこおり本拠を置いた伊東氏などの崇敬を受けた。建久図田帳では「福野宮神田二十五丁 右児湯郡内執印字三大夫保仲資」とあり、応永二八年(一四二一)二月二七日の建久図田帳追記でも田積は同じ。

三宅神社
みやけじんじや

[現在地名]鈴鹿市国府町 貝下

国府こう本郷ほんごう集落の南にある。「延喜式」神名帳鈴鹿郡「三宅神社」に比定される。祭神国常立之命。旧村社。江戸時代惣社そうじや大明神と称され(亀城兎園記、九九五集)伊勢国府総社の地位にあった。三宅神社と称するのは、明治六年(一八七三)以降である。壬申の乱に、大海人皇子を出迎えた伊勢国司三宅連石床(日本書紀)との関係から、社名が生れたと思われる。社殿には、三宅氏の家紋ユズリハが用いられている。同名社はほかに奄芸あんげ郡三宅村(現鈴鹿市)にもある。

三宅神社
みやけじんじや

[現在地名]長岡市六日市町

六日市むいかいち町集落の東の小高い所にある。祭神は波多武日子命一柱とする説と波多武日子命・天美明命の夫婦二柱とする説がある。後者は「延喜式」神名帳古志こし郡六座のうちに「三宅神社二座」とあることに結び付けられている。同名社が当地より南へ中潟なかがた妙見みようけんまでの南北一キロの間に都合三社あり、中潟は宇都宮うつのみや神社を称している。当社所蔵の額面や幕末期に当社の神主三宅大連当虎署名の三宅神社の記(温古之栞)によると、波多武日子命は崇神天皇の時代に北陸を平定したという大彦命の子とされ、神名倉かなぐら山に大彦命・天日桙命(天美明命の父)と波多武日子命・天美明命の三つの社殿を祀ったのを始まりとし、その後山麓に遷座したものが当社と妙見の三宅神社、中潟の宇都宮神社という。

三宅神社
みやけじんじや

[現在地名]亀岡市三宅町

旧京街道(山陰道)筋の城下三宅町の町並の中ほどを南へ約一〇〇メートル行った町裏にある。

「延喜式」神名帳に載せる桑田郡三宅神社に比定される。祭神は倉稲魂命。旧村社。「桑下漫録」には「三宅稲荷」とある。

寛文三年(一六六三)に稲荷古記を焼失し草創年代は不詳であるが、屯倉稲荷縁起(「桑下漫録」所引)によれば、「御米倉守衛に天子より倉稲魂命と稚産霊命、豊保食命の三柱の御神を御勧請なりし事なるべし」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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