三月革命(読み)さんがつかくめい

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

三月革命(ドイツ)
さんがつかくめい
Mrzrevolutionドイツ語

ドイツ三月革命ともいう。ベルリン、ウィーンの1848年3月の人民蜂起(ほうき)および同時期のその他のドイツ連邦諸国における政治的変革をさす。ただし、わが国では48年から49年にかけてのドイツ各地の革命の全体をさす用語としても用いられている。[松岡 晋]

背景

ナポレオン戦争後のウィーン会議(1814~15)によって成立したドイツ連邦は、それぞれ主権を有する39の、君主国および自由都市の連合体で、近代的国民国家とは遠くかけ離れた存在であった。しかもそのなかで指導的役割を果たしていたのはプロイセン、オーストリアの二大国であり、その政策は、正統的君主制原理と人民抑圧政策を一身に体現するオーストリア宰相メッテルニヒによって代表されていた。したがってウィーン会議以降1848年に至るまでのドイツ各地の政治運動の目標は、国家的分裂の克服と各領邦国家内の自由の拡大に置かれた。当時のドイツにおいて「統一」と「自由」というスローガンが一般化したゆえんである。そのような政治運動の担い手としてまずあげなければならないのは、ライン地方を中心とする自由主義的ブルジョアジーであろう。彼らの台頭は、1830年代中期以降の産業革命の本格化、ドイツ関税同盟結成(1834)によるオーストリアを除くほぼドイツ全域にわたる統一的関税圏の成立、1835年から始まる鉄道建設などと直接にかかわっており、彼らこそ、自らの経済的実力の増大と政治的無権利状態という矛盾に直面して、桎梏(しっこく)としての現体制の克服を目ざさざるをえなかった社会階層であった。また、このようなブルジョアジーの背後には未定形のプロレタリアートがすでに生み出されており、さらにこの両者の中間に、さまざまな色合いの共和主義を標榜(ひょうぼう)する、民主主義者と称されるプチ・ブルジョア知識人グループが加わって、政治運動をいっそう複雑なものにしていた。
 また忘れてならないのは、民族問題の存在である。ポーゼン州のポーランド人問題、シュレスウィヒ・ホルシュタイン問題を抱えるプロイセンも民族問題と無縁ではなかったが、この問題はとりわけ多民族国家たるオーストリアにかかわるものであった。つまりここで問われたのは、「自由」と「統一」というドイツ的理念はハプスブルク帝国内の諸民族にも適用されるのか否か、ということであった。後の困難を予測させるこれらの問題を抱えつつ、フランスの二月革命を直接のきっかけとしてドイツ三月革命は開始される。[松岡 晋]

革命の進展

国王ルイ・フィリップを追放し、臨時革命政府を樹立させたパリの二月革命は、フランスに隣接するバーデン、ウュルテンベルクなどの西南ドイツ諸国にいち早く波及する。そして3月初旬バイエルン、ヘッセン・ダルムシュタット、ナッサウへと広がり、さらにはハノーバー、ブラウンシュワイク、ザクセンなどの中・西部諸邦にまで広がってゆく。先陣を切ったこれら諸国における運動の経過はどこもほぼ同じで、まず大衆集会、デモが行われ、出版・結社の自由、人民武装、陪審裁判制、ドイツ統一議会などの自由主義的な「三月要求」が一様に提出される。これに対する各邦政府の対応もほぼ同じであり、現体制の暴力的転覆の危険と運動の急進化を避けようとの意図から、政府側からの暴力的対決はほとんどなされず、政治的要求はほぼ全面的に受け入れられ、各地に市民軍が創設されて、統一ドイツ国家樹立に向けて尽力することを各国王自らが約束した。また、各邦において自由主義的「三月内閣」が誕生し、ガーゲルン(ヘッセン・ダルムシュタット)、レーマーFriedrich von Rmer(1794―1864)(ウュルテンベルク)、シュテューベJohann Karl Bertram Stve(1798―1872)(ハノーバー)らの著名な自由主義者たちが入閣した。だがこれら中小諸邦における運動の成功はいまだ前哨(ぜんしょう)戦のそれでしかなく、革命の勝利を決定づけたのは、オーストリア、プロイセンのそれぞれの首都ウィーンとベルリンにおける人民蜂起であった。
 ウィーン蜂起は、3月13日に招集された低オーストリア領邦議会への請願デモから始まる。そのイニシアティブをとったのは学生・市民層であり、要求そのものは、諸邦における三月要求とさほど違いはない。だがこのデモ隊に対して軍隊が投入されて5人の死者が出るに及んで、事態は中途半端な形では収拾不可能となる。それにウィーンの場合には、市壁の外に居住する多数の労働者の存在を無視できない。彼らの多くは、スラブの農村から職を求めて首都ウィーン目ざして流れてきたものの、市内への立ち入りすら許されなかった初期工業化段階に特有の存在であった。彼らの一部は同日、市門を突破して市内の学生たちと合流することに成功し、軍隊との衝突において重要な役割を果たした。だが大半は市内突入を武力で阻まれ、市外区、リーニエの外側で商店、工場などを襲撃し、火を放ち、ウィーンの市壁の外側を炎で包んだ。この日の戦闘での労働者の死者は50人以上を数えたといわれる。このような事態を背景にして、宮廷と政府は同日夜譲歩を余儀なくされ、メッテルニヒは解任され、皇帝フェルディナント1世Ferdinand (在位1835~48)は憲法制定を約束し、市民軍、学生兵団の創設が認められ、自由主義的ピラースドルフFranz Freiherr von Pillersdorf(1786―1862)内閣が5月4日に誕生する。このようにして三月革命はハプスブルク帝国の首都においても勝利を収め、同時に帝国内の非ドイツ系諸民族の自立運動をも惹起(じゃっき)し、チェコ人、マジャール(ハンガリー)人、イタリア人が公然と反乱を開始するに及んで、帝国の存在そのものが揺るがされることとなる。
 他方、ベルリンにおいて革命の命運が決せられたのは、3月18~19日であった。ベルリンでも3月初め以来、多数の失業者たちをも含む数千人規模の大衆集会がブランデンブルク門の外で繰り返されていた。それに対してプロイセン政府は原則的な点ではいっさい譲歩を拒否し続け、同月13日に市民と軍隊との最初の衝突が起こり、15日には市民の側に数人の死者が生じるに至った。政府がようやく限定的な譲歩に踏み切ったのは、ウィーンの事態が報じられた16日になってからで、18日国王フリードリヒ・ウィルヘルム4世の名で検閲の廃止、連合州会の速やかな招集が布告された。ベルリン市民の根強い要求であった軍隊の市内からの撤退は約束されなかったものの、この譲歩は将来に希望をつなぎ、その他の自由主義的要求もやがて実現されるといううわさとも相まって、布告当日の王宮前広場は国王に感謝の意を示さんとする幾千もの人々で埋め尽くされた。ところが同日午後、広場を取り巻く軍隊の側から数発の銃弾が発砲されたことによって事態は一変し、ベルリン市内はたちまちのうちに数百のバリケードで覆われ、手工業職人、労働者および市民と正規軍との間の街頭戦が夜を徹して戦われた。この戦いは、230人以上の犠牲者を出しながらも勇敢に戦った人民の側の勝利に終わり、国王は翌朝、軍隊撤退を命じ、プロイセンがドイツ統一の先頭にたつことを確言し、プロイセン議会の招集、他のすべての三月要求の承認を約束したのである。同月29日には、ラインの自由主義者カンプハウゼンを首班とし、ハンゼマンDavid Hansemann(1790―1864)を大蔵大臣とする「三月内閣」がプロイセンにも誕生する。[松岡 晋]

その後の展開

三月革命によって権力の座についた自由主義ブルジョアジーは、この時点で革命は完了したとの認識をもった。もともと彼らにとっては、革命そのものが意図せざるところであったといえよう。というのは、彼らの目標は、あくまでも歴史的法基盤にのっとり、王室との協定によって平和的に改革を遂行し、それによって「合法的に」国家内での指導的地位を確保するというものであったからである。したがって、各邦の「三月内閣」は、自らの革命的出自を否認し、旧体制の権力機構(官僚・軍隊)を温存し、1848年夏以降、旧権力そのものの蘇生(そせい)を許すことになる。これに対して、三月革命は革命の第一段階にすぎないと考え、立憲君主制の枠を越えた政治体制と社会問題のより徹底した解決策を求めたのが民主主義者とよばれる人々である。彼らは、3月に獲得された出版・結社の自由を最大限に用いて、各邦の地方レベルで協会、クラブ、委員会を組織するとともに、新聞・雑誌の発行にも全力を傾け、それらの影響力で「三月内閣」のもとでの左翼的反対派としてかなりの大衆を動員することに成功した。48年5月以降のウィーンでの民主主義運動の進展はとくに注目に値する。だがこの派の最大の弱点は、構成員の大半がプチ・ブルジョアジーという雑多な階層に属していたことから、運動の目標とそのための方策について各人の見解に大きな隔りがあることであった。彼らの間で一致していたのは、ブルジョア的秩序をドイツにおいて民主主義的国制の形で実現しようという意図だけであり、民主主義的君主制の支持者、世襲大統領制を唱える共和主義者、さらには、君主制か共和制かは各邦の住民投票によるとする連邦国家論者までいたのである。他方、労働者の側についてみれば、彼らは、マルクスのいう、近代的工業に対応する近代工場労働者という意味でのいわゆる「産業的定在」ではなかった。その大半は手工業職人か、その境遇からなかばはじき出されて工場で熟練工として働く職人労働者かのいずれかであった。多くの場合、民主主義者の指導のもとにあった「労働者協会」Arbeitervereinに結集した労働者は彼らであった。このほかに「ルンペン・プロレタリアート」とよぶにふさわしい労働者も存在した。彼らはその住居も市壁の外側にしかもつことを許されず、その意味で「市民社会」から完全に締め出された存在であったが、いったん事あらば戦いの場で身を捨てることもいとわない人々であったことは、ウィーン蜂起が示すとおりである。その後も彼らは広くヨーロッパ各地を覆った「一八四八年の革命」の重大な局面に大きなインパクトを与える存在として登場してくる。三月革命後のドイツ各地の運動は、前述の諸階級・諸階層が明確に別の道を歩み出したことを示している。
 1848年5月18日、フランクフルト・アム・マインに統一ドイツの母胎となるべきドイツ国民議会が招集された。同議会は、長期にわたる論議のすえ、10月「ドイツ国民の基本権」を制定し、翌年3月には「ドイツ国憲法」を議決するなどの成果をあげた。しかし、それらを施行せしめるためのいかなる権力基盤ももたず、オーストリア、プロイセン両大国の政策に翻弄(ほんろう)されて、ドイツ国民が期待するような統一国民国家創設の中心点にはとうていなりえなかった。ドイツのみならずヨーロッパの「一八四八年の革命」全体の流れを変えたのは、パリ労働者の六月蜂起の敗北(六月事件)であり、ここから反革命勢力は本格的な反撃に転じる。オーストリアでは、ウィーンでこそ運動の急進化が秋まで進んだものの、48年6月プラハの蜂起が鎮圧され、翌月にはイタリアでピエモンテ軍が敗北するというように、革命の外堀は、翌年8月までもちこたえたハンガリーを例外として、どんどん埋め尽くされ、48年10月にはウィーンの蜂起もついに鎮圧されて革命は終結する。プロイセンにおける革命は、12月5日のプロイセン国民議会解散、欽定(きんてい)憲法発布によって実質的に終息したといってよい。この両国における革命の実質的終焉(しゅうえん)を考慮に入れるならば、フランクフルト国民議会が差し出した「ドイツ皇帝位」をフリードリヒ・ウィルヘルム4世が拒絶したことによって、49年5~7月ザクセン、バーデン、バイエルン領プファルツ、ライン地方の一部で生じたいわゆる「ドイツ国憲法闘争」は、三月革命のエピローグのエピソードであった、ともいえよう。[松岡 晋]
『矢田俊隆著『三月革命』(1958・弘文堂) ▽柳沢治著『ドイツ三月革命の研究』(1974・岩波書店) ▽良知力著『向う岸からの世界史――一つの48年革命史論』(1978・未来社) ▽良知力編『〔共同研究〕1848年革命』(1979・大月書店) ▽良知力著『青きドナウの乱痴気』(1985・平凡社)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

アポ電詐欺

《「アポ」は「アポイントメント」の略》電話を使用した振り込め詐欺の一。身内の者になりすまして電話番号が変わったと伝え、再度電話して金銭を要求したり、役所の担当者や銀行員などになりすまして電話をかけ、後...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android