仁科神明宮(読み)にしなしんめいぐう

日本歴史地名大系 「仁科神明宮」の解説

仁科神明宮
にしなしんめいぐう

[現在地名]大町市大字社 宮本

宮本みやもと集落の東、みや山の南麓に鎮座する。祭神は天照大神。平安時代中期の永承年間(一〇四六―五三)をやや下った頃に伊勢神宮内宮の御厨として仁科御厨が設置されたと推定されるが、それと同時に御厨鎮護のためこの神明宮が勧請されたと考えられている。当然のことながら社殿の形も社殿配置も伊勢神宮内宮の様式を採り入れてある。

仁科神明宮には伊勢神宮に倣って二〇年ごとに社殿を造替するいわゆる遷宮の慣行が続いており、そのつど棟札が奉掲される。現存する最古の棟札は南北朝時代の永和二年(一三七六)六月一四日の遷宮の時のもので、仁科盛国とその一族が造営奉仕をし、家臣団の主だった人々が奉行人となり、大小工・檜皮葺・釘奉行・銅細工・鍛冶などの職人が名を連ね、社殿用材の杣初めから遷宮に至るまでの日時・作料・祝料などが詳細に記されている。このような棟札は、永和二年以後現在に至るまで六〇〇年間一枚も欠けることなく総計三三枚が保存されており、二〇年ごとの遷宮が一度も欠けずに今日まで続いているあかしとなっており、江戸時代末までの二七枚は重要文化財。

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改訂新版 世界大百科事典 「仁科神明宮」の意味・わかりやすい解説

仁科神明宮 (にしなしんめいぐう)

長野県大町市南郊の宮山山麓に鎮座。同地は平安中期11世紀半ばから伊勢神宮内宮の御厨(みくりや)とされ,同時に天照大神を勧請して神明宮が建てられたと考えられる。そのため社殿,社殿配置とも伊勢内宮の様式をとり入れ,20年目ごとの式年造替の慣行を保持していた。本殿神明造で,屋根は茅葺きでなく檜皮(ひわだ)葺きとするが,棟持(むなもち)柱を建て,破風板を上にのばして千木(ちぎ)とし,棟上に堅魚木(かつおぎ)を置き,破風板に鞭懸(むちかけ)を打つなど古式な特徴をもつ。式年造替は1376年(永和2)以後,戦国の世にも乱れることなく行われ,その棟札(むなふだ)をのこしてきた。現在まで33枚が保存され,永和2年以後,江戸時代末安政3年(1856)までの27枚が,書跡として重要文化財に指定されている。現在の社殿は1636年(寛永13)造替のときのもので,神明造中最古のものである。この後は部分修理をもって造替にかえている。なお本殿,中門(御門屋),釣屋は国宝
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「仁科神明宮」の意味・わかりやすい解説

仁科神明宮
にしなしんめいぐう

長野県大町市にある神社。伊勢神宮の仁科御厨 (みくりや) 鎮護のため,平安時代後期にアマテラスオオミカミを勧請して創立。社殿は近世初期まで式年造替が行われ,現在の社殿は寛永 13 (1636) 年の建造。伊勢神宮正殿の形式をよく伝えており,神明造最古の遺構で本殿は国宝。永和2 (1376) 年以降の造替の棟札 27枚が全部保存されている。

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デジタル大辞泉プラス 「仁科神明宮」の解説

仁科神明宮

長野県大町市にある神社。旧県社。祭神は天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)。江戸中期造営の本殿は国内最古の神明造。中門とともに国宝に指定されている。

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事典・日本の観光資源 「仁科神明宮」の解説

仁科神明宮

(長野県大町市)
信州の神社百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

世界大百科事典(旧版)内の仁科神明宮の言及

【大町[市]】より

…人口3万1020(1995)。中世の豪族仁科氏の居城があったことから,仁科神明宮(本殿,中門,釣屋は国宝),若一王子(にやくいちおうじ)神社(重要文化財)をはじめ文化財が多く,仁科氏文化圏の中心とされる。江戸時代の大町は糸魚川(千国(ちくに))街道に沿い,北方の姫川渓谷と南方の盆地平たん部との接点にあたるため市場町として発展した。…

※「仁科神明宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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