比叡山西麓の
禁中並公家諸法度の制定や紫衣事件など幕府の朝廷圧迫政策を不満とし、寛永六年(一六二九)退位した後水尾上皇は、かねて洛北に山荘の地を求めていたが、明暦元年(一六五五)三月一三日、
と述べていることにうかがわれる。
山荘がほぼ完成したのは万治二年(一六五九)春、「隔記」に四月一四日「於修学院之内之御殿而仙洞御振舞」とあり、仙洞すなわち上皇の御振舞が新離宮であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都市左京区修学院(しゅうがくいん)藪添(やぶそえ)にあり、「しゅうがくいん」ともよぶ。比叡山(ひえいざん)の南西麓(ろく)の御茶屋(おちゃや)山と赤山明神(せきざんみょうじん)山の傾斜地を利用して江戸初期につくられた離宮で、上(かみ)・中(なか)・下(しも)の御茶屋とそれに付属する庭園からなり、宮内庁の所管になっている。
[工藤圭章]
ここは平安時代に延暦寺(えんりゃくじ)の別院、修学院があった所で、中世に廃絶してから長らく同寺の荘園(しょうえん)となっていた。1655年(明暦1)にこの地を訪れた後水尾(ごみずのお)上皇は、一帯の風光を賞(め)でて離宮の造営を計画、1659年(万治2)に下の御茶屋が完成した。ついで1661年(寛文1)には上の御茶屋の庭園の築堤ができ、引き続き建物も1663年に竣工(しゅんこう)をみた。1680年(延宝8)上皇が崩御されると、内親王の緋宮光子(あけのみやてるこ)がその冥福(めいふく)を祈って上と下の御茶屋の中間南に林丘寺(りんきゅうじ)を建て、東福門院の女院御所の建物を賜っている。林丘寺は1885年(明治18)この寺地の一部を皇室に返上し、以後、これが中の御茶屋と称されるようになった。
[工藤圭章]
修学院離宮は、背後の山麓や各御茶屋間の田畑を含めると55万5000平方メートルに及ぶが、3庭園のなかでは上の御茶屋庭園が最大で、全体の中心をなす。ここでは比叡山から流れる渓流を高さ約15メートル、長さ200メートルの大堰堤(えんてい)を築いてせき止め、中央に広大な人工池(浴竜池(よくりゅうち))をつくる。池の中には、かつての山稜(さんりょう)が北の三保島、中央の中島、南の万松塢(ばんしょうう)の三つの島となって残り、中島の頂に窮邃亭(きゅうすいてい)が建つ。入口の御成門(おなりもん)を入ると、池の南岸の丘上には1824年(文政7)再興の隣雲亭があり、この東側の吹き放しの広縁は洗詩台(せんしだい)とよばれる。ここからの京都北山(きたやま)一帯の展望はすばらしい。隣雲亭に対して西岸には止々斎(ししさい)が建てられていたが、いまはない。浴竜池では舟遊びのために、隣雲亭の下方、止々斎わき、中島の窮邃亭西の3か所に舟着き場がある。中島の東には楓(かえで)橋、西には土橋があり、南には廓橋(くるわばし)の千歳(ちとせ)橋があって万松塢に渡れるようになっている。大堰堤上には大刈込(おおかりこみ)があり、池側は西浜とよばれ汀線(ていせん)が美しい。西浜の南、浴竜池から流れる水は雌滝(めだき)となり、これに対して、隣雲亭の東に音羽(おとわ)川から引いた水による雄滝(おだき)がある。
[工藤圭章]
上と下の御茶屋の間は松並木道で結ばれる。下の御茶屋は、この離宮に入ると初めての御茶屋で、いわば御幸(みゆき)の際の御休息所にあたる。表御門を入ると、花菱(はなびし)の透彫りのある御幸(みゆき)門に至るが、参観者の通用門はこの東側にある。下の御茶屋の池は南北二つあり、その中間のくびれた所に橋が架かる。北の池には岬状に張り出した中島があり、その先端と付け根に袖形灯籠(そでがたとうろう)と朝鮮灯籠がある。ここを過ぎると、白砂の敷かれた寿月観(じゅげつかん)の前庭に至る。寿月観の南は浴竜池から流れ込む水を滝に落として遣水(やりみず)とする。遣水のわきには櫓(やぐら)形灯籠が立ち、その反対右手に枯山水の石組がある。寿月観は文政(ぶんせい)年間(1818~1830)の復原で、平面は旧状を踏襲している。この主室の一の間は15畳で、隅に3畳の上段が設けられ、その西に大床(おおとこ)、北に琵琶(びわ)床と天袋・地袋のある小さな違い棚が並び、簡素な整いを感じさせている。
下の御茶屋を出て南に折れ曲がると、中の御茶屋の表門に至る。ここから石段を上ると、女院御所の切手(きって)御門を移した旧林丘寺総門が建つ。中門を入ると、笠(かさ)松の植えられている庭があり、その東に客殿と楽只軒(らくしけん)が雁行(がんこう)して建つ。客殿南には東から流れる遣水があり、楽只軒前の池に滝となって落ちる。遣水東端には林丘寺に至る石段があり、そこには坂を利用した野趣に富んだ枯山水の石組がみられる。
客殿は林丘寺の旧御殿で、もと東福門院(徳川和子(まさこ))の女院御所の奥御対面所を1682年(天和2)に移築したといい、一の間、二の間、三の間と仏間からなる。一の間では、床(とこ)が一間幅であるが、違い棚は一間半幅と広く珍しい。しかも地袋が矩(かね)折りに折れ、その上に三角の袋棚がのり、5段の棚板が霞(かすみ)のたなびくように配されている。このため霞棚の名があり、桂(かつら)離宮新御殿の桂棚、醍醐寺(だいごじ)三宝院宸殿(しんでん)の醍醐棚とともに天下の三棚に数えられている。一の間の腰回りは金と群青(ぐんじょう)の菱(ひし)形をつなぎ、床、違い棚の貼付(はりつけ)壁や襖(ふすま)は色紙を貼り並べ、長押(なげし)には七宝(しっぽう)の花車の釘隠(くぎかくし)が打たれるなど、華麗な意匠をみせる。また、二の間の襖絵は四季の風物が描かれるなど、この建物は女院の奥向きの御殿らしい風格に満ちている。楽只軒は緋宮光子内親王の山荘のころからの建物で、全体に簡素な造りをみせる。一の間は六畳敷きと狭く、北側に一間幅の床があるだけで、床とそのわきの貼付壁には金地に吉野の桜が描かれている(作者は狩野探幽(かのうたんゆう)の子探信(たんしん))。これに対して8畳の二の間は竜田(たつた)川の紅葉(もみじ)が描かれている。
なお、修学院離宮の拝観については、桂離宮や仙洞御所と同様に、宮内庁京都事務所への郵送やインターネットでの事前申込み、または各施設(現地)での当日先着順の受付による許可が必要である。
[工藤圭章]
『谷口吉郎著『修学院離宮』(1962・淡交社)』▽『森蘊編『御所離宮の庭3 修学院離宮』(1975・世界文化社)』▽『吉村貞司著『日本の美術48 修学院離宮』(1976・小学館)』
京都市左京区,比叡山南西麓に近い修学院の地に営まれた後水尾上皇(後水尾天皇)の山荘。上(かみ),中(なか),下(しも)の三つの御茶屋(庭園区)よりなり,松並木の小道で連絡している(江戸時代は畦道)。1655年(明暦1)着工され,上皇みずからの構想のもと,59年(万治2)に下の御茶屋,2年後の61年(寛文1)に上の御茶屋の大池ができ,上皇は理想の山荘を完成させた。ただし中の御茶屋は1884年に林丘寺境内の約半分が離宮に編入されたものである。
下の御茶屋は山荘利用の拠点で,寿月観(じゆげつかん)(上皇の御座所)を中心とする諸建築が建ち並び,これに面して小滝からの遣水(やりみず)がめぐって下方の池にそそぐ,小ぢんまりとした庭が作られた。現状の建物と庭は,1824年(文政7)光格上皇を迎えるために再建・改修された姿で,池の形状も当初とは変わっている。上の御茶屋は,御茶屋山(当初は松山)の中腹に中央部の高さ約15m,長さ200m余りの大規模な土堰堤を築いて3本の谷川をせき止め,舟遊びのための広い池を作り,水面に出た尾根を利用して三つの中島を設け,その姿から浴竜池と名づけた。さらに南側を流れる音羽川の水を横に導いて大滝(雄滝)を落とすなど,自然の地形を最大に生かした大庭園である。最高所には離宮造営前から展望のための隣雲亭があり,大滝に対して洗詩台が付設された(現在の隣雲亭,洗詩台は1824年の再建)。ここからの浴竜池の俯瞰(ふかん),北山および西山からの京都盆地の眺望は四季それぞれに見飽きることがない。最大の中島に宝形造の窮邃亭(きゆうすいてい)があり,南の中島(万松塢(ばんしようう))に架かる中国趣味の廊橋を千歳橋(ちとせばし)という。これは1824年に京都所司代内藤信敦が献上したもので,もとは橋がなく,万松塢は今よりも小さい離れ島であった。大中島には南に木橋(楓橋),北には長い土橋で対岸と結んでいるが,池の北岸西寄りには止々斎(ししさい)という,上の御茶屋で最も大きくかつ多目的に使用された庭園建築があった(のち仙洞御所に移され,天明の火災で焼失)。隣雲亭下の山腹や堰堤を覆う大刈込は,日本の庭園中比類のないもので,上の御茶屋の一偉観であるが,これは明治に宮内省の所管になってから整えられた所で,その意匠,技法は抜群といえる。中の御茶屋の庭は下と同じく,滝と遣水と小池のおとなしい作りであるが,当初朱宮(あけのみや)(後水尾上皇第8皇女,林丘寺初代門跡)の御所であったときの書院楽只軒(らくしけん)や,東福門院御所より移築された客殿が今に伝えられている。特に客殿一の間に備えられた,5枚の棚板を霞のように互い違いに配する霞棚は,桂棚(桂離宮新御殿),醍醐棚(三宝院宸殿)とともに天下の三棚として名高い。
執筆者:村岡 正
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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現在の京都市左京区,比叡山南西麓の修学院の地に後水尾(ごみずのお)上皇が造営した山荘。1655年(明暦元)着工し,63年(寛文3)までに上(かみ)の御茶屋・下(しも)の御茶屋とよばれる二つの庭園が完成。上の御茶屋には自然の谷川をせきとめて造った大池(浴竜池)の周辺に止々斎(ししさい)・隣雲亭・窮邃亭(きゅうすいてい)の三つの茶屋が設けられ,下の御茶屋には御座所となる寿月観(じゅげつかん)や蔵六庵などの御殿が配置された。70年頃には上皇の皇女朱宮(あけのみや)(のち林丘寺門跡)の御所が設けられ,1824年(文政7)幕府の援助で大規模な改修工事が行われた。明治期以降宮内省の所管となり,隣地の林丘寺境内の一部が移管されて中(なか)の御茶屋となった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…行宮(あんぐう)が臨時の施設であるのに対し,恒久的施設である点が異なる。 史上著名な離宮に,古代の吉野宮,珍努(ちぬ)宮の両離宮,中世の鳥羽離宮,近世の修学院(しゆがくいん)離宮などがある。吉野宮は《日本書紀》の応神紀に初めてみえ,壬申の乱前の大海人(おおあま)皇子(後の天武天皇)隠棲の地として,特に天武系皇統の行幸がしばしばあった。…
※「修学院離宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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