光福寺(読み)こうふくじ

日本歴史地名大系 「光福寺」の解説

光福寺
こうふくじ

[現在地名]南区久世上久世町

西山浄土宗。蔵王の森に位置し、医王山光福寺蔵王ざおう堂と称する。本尊蔵王権現。「山州名跡志」は開基を浄蔵貴所とし、寺伝を載せる。

<資料は省略されています>

暦応三年(一三四〇)一一月作成の上久世荘絵図(教王護国寺文書)綾津あやつ大明神(現綾戸国中神社)とともに蔵王堂の名がみえる。さらに観応三年(一三五二)八月一八日には、東寺年預権少僧都・法橋・公文三者の花押を有する補任状(東寺百合文書)によって、当時は東寺(教王護国寺)の支配下にあり、僧了達が蔵王堂別当職に補任されていることがわかる。


光福寺
こうふくじ

[現在地名]東松山市市岡

和田吉野わだよしの川右岸の丘陵上に位置する。曹洞宗。四国山と号し、本尊は十一面観音。開基は近世おかごうなどの領主であった旗本酒井氏、開山は本寺法性ほうしよう(現鳩ヶ谷市)四世の章山祖芳(永禄一〇年没)と伝える。しかし、当寺にある元亨三年(一三二三)銘の宝篋印塔(国指定重要文化財)には「奉造立宝篋印塔一(基) 右塔婆者大日本国武州比企玉太岡(四)国山光福禅寺 沙門鏡空了円」「当寺大旦那比丘尼妙明 藤原光貞朝臣 施主沙弥聞阿」などと記されており、鎌倉時代の末期には禅寺として存在していた。


光福寺
こうふくじ

[現在地名]品川区大井六丁目

立会たちあい川の右岸、池上いけがみ通沿いにある。大井山と号し、本尊阿弥陀如来。かつては浄土真宗東本願寺末(風土記稿)、現在は単立。当寺は天台宗の薬王院神宮寺として延暦元年(七八二)創建されたのに始まると伝え、文永二年(一二六五)親鸞門下の関東六老僧の一人了海願明が再興して浄土真宗に改宗、名を光福寺と改めたとされる。了海は武蔵国荒木あらき(現埼玉県行田市)を中心に関東地方への布教を展開した初期の真宗教団の指導者源海(光信)の弟子であった。親鸞の子弟を総覧した「親鸞聖人惣御門弟等交名」(光照寺本抜抄)には「願明ムサシノクニアサフノ了海」とその名が記されている。


光福寺
こうふくじ

[現在地名]大洋村梶山

西に北浦を遠望する梶山かじやま台地北端に位置する。医王山密厳院と号し、真言宗豊山派。本尊は薬師如来。成立時期は不明であるが、大同三年(八〇八)の創建と伝えられる。初めは鹿島神宮の大宮司・大禰宜の菩提所である広徳こうとく(現鹿島町宮中)末寺として三論宗に属したが、鎌倉末期に本寺の改宗に伴い真言宗となる。永禄二年(一五五九)一二月一七日の鹿島治時寄進状(光福寺文書)

<資料は省略されています>

とあり、鹿島治時は薬師やくし寺の本尊薬師如来を管理していた当寺へ、守護料として土地一町九反、田銭を寄進している。


光福寺
こうふくじ

[現在地名]結城市結城 西の宮

日高山地蔵院と称し、真言宗豊山派。本尊阿弥陀如来。円蔵えんぞう坊とも号した。寺蔵の長禄元年(一四五七)の結城成朝判物断簡の宛名に「西宮円蔵坊」がみえ、同年一一月の結城成朝安堵状によれば、氏朝の時代に円蔵坊へ安堵状が出されていた。また文明三年(一四七一)結城氏広は円蔵坊祐仙に阿弥陀堂の相続を認めている。当寺の血脈によれば祐仙は第三世で、開山は祐尊。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「光福寺」の解説

光福寺

埼玉県東松山市にある曹洞宗の寺院。1323年に建てられた石造りの宝篋印塔があり、国の重要文化財に指定されている。

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