日本大百科全書(ニッポニカ) 「出羽三山神社」の意味・わかりやすい解説
出羽三山神社
でわさんざんじんじゃ
山形県中央部に横たわる羽黒山(はぐろさん)、月山(がっさん)、湯殿山(ゆどのさん)に鎮座する出羽(いでは)神社、月山神社、湯殿山神社の総称。推古(すいこ)天皇の御代(みよ)に崇峻(すしゅん)天皇の皇子蜂子皇子(はちのこのみこ)によって開かれたと伝える。中世以降、修験道(しゅげんどう)の一大霊場として栄えた。夏季以外の登拝が困難なため、3社の祭祀(さいし)は羽黒山上の三神合祭殿(鶴岡(つるおか)市羽黒町手向(とうげ))で行われる。例祭は3社とも7月15日。国の重要無形民俗文化財である、12月31日の松例祭(しょうれいさい)は、修験道色の濃い祭りである。五重塔(国宝)、古鏡(国指定重要文化財)など所蔵する文化財も多い。
[高橋美由紀]
出羽神社
山形県鶴岡市羽黒町の羽黒山山頂に鎮座。伊氐波神(いではのかみ)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀(まつ)る。平安時代すでに多くの人々の信仰を集めていたことは、式内社に数えられていることや、三神合祭殿前の鏡池から出土したおびただしい数の古鏡の存在から知られる。古くは羽黒大権現(だいごんげん)とか羽黒三所権現などと称し、月山や湯殿山とともに羽黒修験道の霊場として繁栄を極めた。その勢力は熊野(くまの)や大峰(おおみね)をもしのぐほどであったといわれ、文永(ぶんえい)の役(1274)に際し鎌倉幕府7代将軍惟康(これやす)親王は大梵鐘(だいぼんしょう)(国指定重要文化財)を奉納している。近世に入ると江戸幕府より朱印領1550石を安堵(あんど)され、また全国的な三山講の組織化によって参詣(さんけい)者のない国は飛騨(ひだ)一国のみといわれるほどであった。明治初年の神仏分離によって社僧や衆徒は復飾、山内の寺院や坊舎は廃絶した。旧国幣小社。
[高橋美由紀]
月山神社
山形県東田川郡庄内(しょうない)町の月山山頂に鎮座。祭神は月読命(つきよみのみこと)。早くより朝廷の尊崇厚く、奈良時代から平安初期にかけてしばしば叙位(じょい)・叙勲や封戸(ふこ)の寄進がなされ、880年(元慶4)には従(じゅ)二位勲四等に進んだ。『延喜式(えんぎしき)』では名神(みょうじん)大社に列し、大物忌神(おおものいみのかみ)(鳥海山(ちょうかいさん)大物忌神社)とともに祭料2000束をあてられている。中世以降、神仏習合により羽黒山、湯殿山を含め羽黒三所権現と称し、東国における修験道の中心として栄え、朝野の信仰を集めた。明治初年の神仏分離により寺院、仏具などの破棄や旧儀の廃絶にあったが、1914年(大正3)官幣大社に列した。夏季以外は登拝が困難なため、通常の祭祀は羽黒山上の三神合祭殿で行われる。
[高橋美由紀]
湯殿山神社
山形県鶴岡市田麦俣(たむぎまた)の湯殿山中腹、梵字(ぼんじ)川ほとりの熱泉の湧出(ゆうしゅつ)する霊巌(れいがん)を御神体とし、社殿は設けられていない。祭神は大山祇命(おおやまづみのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)。古くは湯殿山大権現と称し、羽黒山、月山の奥の院といわれ羽黒修験の霊場であった。かつては注連寺(ちゅうれんじ)、大日坊(だいにちぼう)、大道寺、大日寺の4か寺の別当があり、注連掛口(しめかけぐち)の注連寺を根本執行(こんぽんしゅぎょう)とした。旧国幣小社。近世から明治にかけて湯殿山で修行した行人(ぎょうにん)のなかには生きながら入定(にゅうじょう)して即身仏(そくしんぶつ)(ミイラ)となった人々がおり、現在庄内(しょうない)地方には6体存在する。
[高橋美由紀]