改訂新版 世界大百科事典 「前衛写真」の意味・わかりやすい解説
前衛写真 (ぜんえいしゃしん)
たかだか150年にすぎない写真の歴史は,他の芸術と比べればあまりにも短い。したがって,写真における〈アバンギャルド〉といっても,それは他の芸術,たとえば前衛劇や前衛絵画と同様のレベル,すなわちそれまでの膨大な歴史的産物と方法の近・現代における〈一大変革〉あるいは〈全否定〉などのような形では存在しえない。たとえば,20世紀の初頭にA.スティーグリッツが提唱した〈ストレート・フォトグラフィー〉や,M.レイ,モホリ・ナギによるフォトグラムなどには,写真の特性の再認識としての一種の〈アバンギャルド精神〉を認めることもできるが,しかしそれも,批判や変革の対象としての何らかの〈伝統〉を前提にして,一つの新しい様式や思潮を形成したというよりは,今日まで原則的には一単位のものとして展望することができる写真の発展史上の,一つの新しい運動であったと考える方が妥当であろう。
なお日本の写真史では,〈前衛写真〉というと,とくに1930年代を中心とした美術のシュルレアリスムや抽象主義の影響を受けた一群の写真を固有名詞的にさす言葉として用いられる。それは旧態然としたピクトリアリズムの芸術写真とも,カメラの眼に注目し即物的なリアリティを追求しながらもステロタイプ化せざるをえなかった〈新興写真〉運動とも決別し,新しい写真のあり方を模索するものであった。このような動きはとくに〈浪華俱楽部(なにわクラブ)〉や〈丹平(たんぺい)俱楽部〉〈アシヤカメラクラブ〉などに所属する関西のアマチュア写真家たちを中心にして展開された。小石(こいし)清,安井仲治(なかじ),中山岩太(いわた)らはその動きの中心であった。この当時〈前衛〉とよばれた写真家たちは,モンタージュ,コラージュ,多重露光,フォトグラムなどのテクニックを駆使して,幻想的な傾向の作品を生みだしたばかりではなく,安井仲治の写真のように強い主観性に根ざしたリアルでストレートな写真をも生み出していった。また東京では,当時は写真評論家としても指導的立場にあった美術評論家で詩人の滝口修造らを中心として,1938年(昭和13)に〈前衛写真研究会〉も設立されている。シュルレアリスムの紹介者でもある滝口修造は,幻想的・抽象的な傾向だけではなく,それと対立するようなストレートで記録的な写真の中にもそれに通底する新しい写真の表現を見ようとしていた。これら一連の動きは,日本が戦争へと傾斜していくなかでいやおうなく変質してゆき影をひそめてしまうのである。この時代,前衛写真という概念自体があいまいで混乱を呈してはいたが,そこでは明治期以来の絵画的写真の時代とはまったく異なった意味で,美術と写真との関係が考えられている。それは絵画に追従するというのではなく,絵画にとっての写真という意味も含めた対等な関係が意識されていたのであった。この直前の〈新興写真〉運動が〈写真〉の特性への再認識をもたらしたとすれば,この〈前衛写真〉は〈写真〉という概念をさらに拡張させたということができよう。
執筆者:金子 隆一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報