十返舎一九(読み)じっぺんしゃいっく

精選版 日本国語大辞典 「十返舎一九」の意味・読み・例文・類語

じっぺんしゃ‐いっく【十返舎一九】

江戸後期戯作者。本名、重田貞一。別号、十遍舎・十遍斎・酔斎。はじめ大坂で、浄瑠璃作者として文筆にたずさわったが、寛政六年(一七九四)江戸に出て蔦屋(つたや)重三郎に寄食、翌年処女作の黄表紙「心学時計草」を発表。以後、洒落本滑稽本、読本、咄本などにも筆を染め、健筆多作で知られた。著「東海道中膝栗毛」など。明和二~天保二年一七六五‐一八三一

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デジタル大辞泉 「十返舎一九」の意味・読み・例文・類語

じっぺんしゃ‐いっく【十返舎一九】

[1765~1831]江戸後期の戯作者。駿河の人。本名、重田貞一。初め江戸に出て、のち大坂に行き、浄瑠璃の合作で文筆活動を始めた。江戸に戻り、洒落本黄表紙などを書き、滑稽本東海道中膝栗毛」で有名になった。他に人情本「清談峯初花」など。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「十返舎一九」の意味・わかりやすい解説

十返舎一九
じっぺんしゃいっく
(1765―1831)

江戸後期の洒落本(しゃれぼん)、黄表紙(きびょうし)、滑稽本(こっけいぼん)、合巻(ごうかん)作者。本名重田貞一(しげたさだかず)、通称与七。十返舎は香道の十返(とがえ)しにちなみ、一九は幼名市九による。酔斎、十偏舎、十偏斎などとも号す。前半生の伝記は詳しくわからないが、駿府(すんぷ)で武家の子として生まれ、ある大名の家に仕えたがまもなく浪人し、23歳ごろ大坂で町奉行(まちぶぎょう)小田切土佐守(おだぎりとさのかみ)に仕えたというが、これもまもなく致仕したらしい。1789年(寛政1)近松余七の筆名で浄瑠璃(じょうるり)『木下蔭狭間合戦(きのしたかげはざまがっせん)』を若竹笛躬(ふえみ)、並木千柳と合作するが、94年江戸に出、翌年黄表紙『心学時計草(とけいぐさ)』以下3種を発表し、以後毎年20種近くの黄表紙を発表している。享和(きょうわ)(1801~04)に入っては洒落本も執筆するが、1802年(享和2)滑稽本『東海道中膝栗毛(ひざくりげ)』初編を出版した。読者の熱狂的歓迎を受けたこの作品は、22年(文政5)に完結するまで、21年間にわたって続編に続編を重ねて出版され続けた。この間、『道中膝栗毛』の作者として人気の高まるとともに、読本(よみほん)、人情本、咄本(はなしぼん)、滑稽本とあらゆるジャンルに筆を染め、黄表紙、合巻だけでも360種に達する作品を発表した、江戸時代の作家としては最大の多作家であった。読者の好尚に忠実にこたえようとした大衆作家としての姿勢からであり、同時に生活を筆で維持するためでもあった。事実、一九はその後半生を原稿料だけで生活をたて、そのためには戯作(げさく)以外にも、通俗的な庶民教科書としての往来案文類などを多数出版するとともに、また書肆(しょし)の依頼によっては素人(しろうと)作者の原稿を編集して出版し、名前を貸すなどしている。江戸後期の最大の大衆作家であった。天保(てんぽう)2年8月7日没。墓は東京都中央区の東陽院にある。

[神保五彌]

『松田修著『十返舎一九――東海道中膝栗毛』(1973・淡交社)』


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改訂新版 世界大百科事典 「十返舎一九」の意味・わかりやすい解説

十返舎一九 (じっぺんしゃいっく)
生没年:1765-1831(明和2-天保2)

江戸後期の黄表紙・洒落本・滑稽本・合巻作者。本名は重田貞一,通称は与七。十偏舎,十遍舎とも書く。駿河府中で武士の子として生まれ,若くして江戸に出て武家奉公をするが,まもなく大坂に移り,商家の養子となり,25歳で浄瑠璃《木下蔭狭間合戦(このしたかげはざまがつせん)》(1789初演)を若竹笛躬(ふえみ),並木千柳と合作している。1794年(寛政6)江戸に帰り,書肆蔦屋重三郎方に寄食し,翌95年《心学時計草》など黄表紙3部を出版,戯作者として登場する。1801年(享和1)には洒落本3部,翌02年には10部を発表するが,《東海道中膝栗毛》初編(1802)の好評で文名が確立し,続編を含めて1822年(文政5)まで書き続け,読者の熱狂的歓迎を受けた。この間,読本,合巻,咄本,人情本のほか,書簡文範,家庭向けの雑書などあらゆる分野に進出し,黄表紙,合巻だけでも約360部を執筆しており,《膝栗毛》発表以後はほぼ原稿料だけで生計を支えた。狂歌,川柳,書画もよくし,この多彩な才能から《膝栗毛》をはじめ初期の作品をすべて自作自画で発表しており,彼の作品は費用が安くつくところから版元が歓迎し多作の原因ともなっている。職業作家に徹して読者の好尚を的確に把握し,《膝栗毛》成功の理由もここにあった。寛政(1789-1801)末年,長谷川町の某家に入聟したというが,まもなく離縁し,その後めとった妻との間に1男1女をもうけ,《膝栗毛》の作者としての名声に包まれ平穏な晩年を送った。門人に十字亭三九,九返舎一八(三亭春馬)らがいる。
執筆者:

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朝日日本歴史人物事典 「十返舎一九」の解説

十返舎一九

没年:天保2.8.7(1831.9.12)
生年:明和2(1765)
江戸時代の黄表紙・洒落本・合巻作者。本名は重田貞一,幼名は市九,十返舎の号は香道の黄熟香の十返しにちなむ。十偏舎,十偏斎,重田一九斎とも称した。駿河府中の千人同心あるいは六十人同心の子ともいわれるが,父母の名は未詳。大坂町奉行小田切土佐守直年の配下として大坂へ上ったが,のち武家奉公をやめ,寛政1(1789)年2月上演の浄瑠璃「木下蔭狭間合戦」に近松余七の名で合作者として加わったのが戯作の最初らしい。同5年秋,江戸へ出て,山東京伝の知遇を得,京伝の黄表紙の挿絵をかく。続いて,書肆蔦屋重三郎の食客となり,錦絵に用いる奉書紙に礬水(絵の具のにじみなどをふせぐもの)を引いたりするうち,同7年,黄表紙『心学時計草』など3種を刊行,以後毎年20冊近くの黄表紙を書いた。この間,狂歌を三陀羅法師に学ぶ。享和2(1802)年滑稽本『膝栗毛』を刊行,年を追うごとに好評を博し,文政5(1822)年まで正続合わせて20編が出て,文名も上がり,山東京伝,曲亭馬琴と並ぶ戯作者の地位を確立した。その他の著作も多く,洒落本は『恵比良之梅』(1801)など13種,『清談峯初花』(1819~21)などの人情本,『深窓奇談』(1802)などの読本の作がある。一九は馬琴と共に執筆料だけで生計を立てた最初の職業作家であった。洒と旅を好み,遊里にも通じていたが,作品とは違った几帳面な性格の持ち主であった。自分の娘を大名の妾にとの話があったとき,これを断った挿話が伝えられている(『江戸作者部類』)。晩年は中風で不自由をかこった。

(園田豊)

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百科事典マイペディア 「十返舎一九」の意味・わかりやすい解説

十返舎一九【じっぺんしゃいっく】

江戸後期の戯作(げさく)者。本名重田貞一。通称与七。別号十遍舎,十偏斎,酔斎など。駿河府中の人。30歳まで江戸から上方(かみがた)を放浪,近松余七の名で浄瑠璃《木下蔭狭間合戦(このしたかげはざまがっせん)》などを書く。以後江戸に定住,黄表紙合巻を精力的に執筆。1802年,滑稽(こっけい)本《東海道中膝栗毛》の好評で筆名を確立した。
→関連項目式亭三馬文化文政時代弥次喜多

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「十返舎一九」の意味・わかりやすい解説

十返舎一九
じっぺんしゃいっく

[生]明和2(1765).駿河,府中
[没]天保2(1831).8.7. 江戸
江戸時代後期の戯作者。本名,重田貞一。通称,与七。別号,十偏斎,酔斎など。町同心の次男。初め江戸で小田切土佐守に仕え,大坂に赴任,同地で職を辞し,材木屋の婿となるが離縁になり再び江戸へ帰った。大坂在住中に近松余七の名で浄瑠璃『木下蔭狭間 (このしたかげはざま) 合戦』 (1789) などを合作。江戸では書店蔦屋重三郎の居候となり,寛政7 (95) 年『心学時計草』を刊行,黄表紙界に進出,以後自作自画の黄表紙,合巻 (ごうかん) など数百部のほか,洒落本,滑稽本,読本,人情本,狂歌などを手がけた。享和2 (1802) 年初編刊行の『東海道中膝栗毛』は 20年にわたって書き継がれるほどの好評を博し,中本形式の滑稽本の先駆となった。ほかに洒落本『野良 (やろう) の玉子』 (01) ,黄表紙『化物太平記』 (04) ,滑稽本『風流田舎草紙』 (04) など。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「十返舎一九」の解説

十返舎一九
じっぺんしゃいっく

1765~1831.8.7

江戸後期の戯作者。本名は重田貞一。駿河国府中生れ。近松余七の名で大坂で浄瑠璃修業ののち,江戸の蔦屋(つたや)の食客となる。「心学時計草(とけいぐさ)」などの黄表紙を自作・画で発表以後,毎年10種以上の黄表紙を出した。「化物太平記」が発禁となる事件もあったが,洒落本・滑稽本・合巻・人情本・読本・噺本・往来物と多くの分野で活躍。とくに滑稽本「東海道中膝栗毛(ひざくりげ)」が好評で,東海道編以後21年にわたって書き継がれた。合巻「金草鞋(かねのわらじ)」「滑稽旅加羅寿(たびがらす)」や読本「通俗巫山夢(ふざんのゆめ)」も滑稽本的要素が強く,式亭三馬や曲亭馬琴などとの違いをみせる。「清談峰初花(みねのはつはな)」は人情本の先駆とされる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「十返舎一九」の解説

十返舎一九 じっぺんしゃ-いっく

1765-1831 江戸時代後期の戯作(げさく)者。
明和2年2月8日生まれ。武士の子といわれる。大坂で浄瑠璃(じょうるり)作者となり,寛政5年江戸にでて版元蔦屋(つたや)重三郎のもとで,黄表紙,洒落(しゃれ)本,読み本などをあらわし,滑稽(こっけい)本を得意とした。天保(てんぽう)2年8月7日死去。67歳。駿河(するが)(静岡県)出身。姓は重田。名は貞一(さだかつ)。幼名は市九。通称は与七。別号に酔斎など。著作に滑稽本「東海道中膝栗毛」「江之島土産」など。
【格言など】この世をばどりゃお暇(いとま)に線香の煙とともに灰左様なら(辞世)

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旺文社日本史事典 三訂版 「十返舎一九」の解説

十返舎一九
じっぺんしゃいっく

1765〜1831
江戸後期の滑稽本作者
本名重田貞一,通称与七。駿河(静岡県)の下級武士の子。滑稽本『東海道中膝栗毛』の好評以来,「膝栗毛物」を多作。ほかに黄表紙『化物太平記』,人情本『清談峰初花』など。

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367日誕生日大事典 「十返舎一九」の解説

十返舎一九 (じっぺんしゃいっく)

生年月日:1765年2月8日
江戸時代中期;後期の黄表紙・洒落本・合巻作者
1831年没

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世界大百科事典(旧版)内の十返舎一九の言及

【滑稽本】より

…〈滑稽本〉とは明治以後の文学史用語で,江戸時代は人情本とともにその書型から〈中本(ちゆうほん)〉と呼ばれた。十返舎一九作《東海道中膝栗毛》(初編1802)以後明治初年までの滑稽諧謔を旨とする作品を指すが,文学史上は,中本の源流とみなしうる宝暦・明和(1751‐72)のころの,笑いを内包する教訓的作品をもふくめている。 文学史上,滑稽本の最初は1752年(宝暦2)刊の静観房好阿(じようかんぼうこうあ)作《当世下手談義(いまようへただんぎ)》とされ,当時の町の生活,風俗を批判,教訓するものであるが,説経僧の語り口を採用しておのずと笑いをかもし出す。…

【木下蔭狭間合戦】より

若竹笛躬(わかたけふえみ),近松余七,並木宗輔(千柳)の合作。余七は十返舎一九太閤記物の一つ。…

【東海道中膝栗毛】より

…滑稽本。十返舎一九作。初編は栄水画,他は自画。…

※「十返舎一九」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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