中国の字書の名。南朝梁の武帝が周興嗣(?-520)に命じ,王羲之の書の中から1000字を選び,すべて4字1句の重複のない押韻対偶の文に仕立てさせたものという。しかし清の顧炎武の《日知録》によれば,周興嗣の伝をのせる同じ《梁書》の〈蕭子範伝〉には,南平王が蕭子範(486?-549?)に千字文をつくらせたが,〈其の辞甚だ美,記室蔡遠に命じこれに注釈せしむ〉とあり,さらに《旧唐書》経籍志には〈千字文一巻蕭子範,又一巻周興嗣撰〉という。顧炎武はさらに《旧唐書》に先立つ《隋書》経籍志に〈千字文一巻梁給事郎周興嗣撰,千字文一巻梁国子祭酒蕭子雲注〉とあるのを引き,《梁書》に蕭子範が作って蔡遠が注釈を加えたというのと異なることを注意している。蕭子雲(486?-548)は蕭子範の弟なのである。蕭子範のものと周興嗣のものとの関係も不明だが,《梁書》周興嗣伝には《次韻王羲之書千字》という名が見えるところからすると,《旧唐書》の記事のように蕭子範の《千字文》が先行してあり,それに〈次韻〉する形で周興嗣のものが作られたのであろうか。
いずれにしても〈天地玄黄,宇宙洪荒〉というように〈黄〉〈荒〉と脚韻を踏んで記憶に便利なようにしたこの一種の〈いろは歌〉,識字教科書は,いま見るように〈天地〉に始まり,〈社会〉〈歴史〉〈教育〉等さまざまの事柄に触れていく。もともと王羲之の書が介在しているところからもわかるように,おそらくその初めの段階から習字の手本という性格を帯びていて,それあればこそ,たとえば〈夫倡婦随〉ということばを日本人にまで記憶させたと思われる。日本には周の李邏(りら)(李暹(せん)の誤りか)注というものが伝えられるが,注釈として寺子屋の講釈という程度を出るものではない。応神天皇の世,百済の和邇吉師(わにきし)が《論語》10巻,《千字文》1巻を奉ったのが,日本で字を読むようになった初めという《古事記》の記事は,遺憾ながらそのままでは年代が合わない。唐の義浄《梵語千字文》などのように一般に何かの入門書が〈何々千字文〉と名づけられることがあるのも,この《千字文》が一時期きわめて広く用いられたことを示すものである。
執筆者:尾崎 雄二郎 朝鮮でも識字教科書として用いられ,6歳ころから学び始め,次に《類合》(李朝前期),《童蒙先習》(李朝後期)等に進んだ。家庭・家塾または書堂(寺子屋)等で,口伝により訓と音を学び,20世紀初頭まで続いた。15世紀半ばにハングルが創製されて半世紀後ころには,ハングルで訓と音が,各字の下に付され始める。訓は文脈によらぬため異なり,現在大きく3系統存するが,学派の違いによるらしい。盛行するのは,名筆韓濩(号石峯)揮毫にかかる1583年刊の官版であるが,法帖として日本でも江戸時代の和刻がある。口伝は方言によったらしい。なお,朝鮮人撰の《千字文》もある。また,《千字文》の配列による漢字は官庫や大蔵経函の番号や田畑の地番にも用いられた。
執筆者:藤本 幸夫
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中国、梁(りょう)の武帝(在位502~549)の命により、1000の漢字を四字句からなる美しい韻文に編んだもの。六朝(りくちょう)時代の周興嗣(しゅうこうし)(470ころ―521)撰(せん)。同じ漢字を二度と用いることがない。「天地玄黄、宇宙洪荒」(天地は玄黄なり、宇宙は洪荒なり)に始まり、「謂語助者、焉哉乎也」(語助(ごじょ)と謂(い)う者は、焉哉乎也(えんさいこや)なり)に終わる。初学者の漢字学習用に、基本的な漢字を集めて調子のよい文章を綴(つづ)ったものとしては漢の史游(しゆう)の作という『急就篇(へん)』などがすでにあったが、『千字文』は洗練された文体と内容によってそれらを圧倒し、6世紀から20世紀の初めに至るまで、漢字の教科書ならびに習字の手本として、広く用いられた。梁の武帝は書聖王羲之(おうぎし)の筆跡から『千字文』の字を集め、模写させて、皇子たちに与えたといわれ、六朝末の僧智永(ちえい)が王羲之の書を模写したという「真草千字文」(楷書(かいしょ)、草書の二体で『千字文』を書いたもの)の真跡かとみられるものが日本に伝わる。応神(おうじん)天皇16年に百済(くだら)の王仁(わに)が『論語』と『千字文』を献上したという『古事記』の記事はそのままは信じられないが、『千字文』が日本でも早くから重んじられたことを物語っている。
[平山久雄]
『『書道全集 第五巻』(1957・平凡社)』▽『小川環樹・木田章義著『注解 千字文』(1984・岩波書店)』
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重複しない合計1000字からなる四言古詩。識字ならびに習字のテキスト。「梁書」によると,武帝が周興嗣(しゅうこうし)に命じて王羲之(おうぎし)の筆跡から字を選び,成文させたらしい。唐以降テキストとして普及していった。日本には東大寺献物帳に真草千字文の記載があり,その現物とされる真跡本も現存する。奈良時代の木簡にも書写の断簡がある。成立当時その臨書にかかわった能書家として智永の名が伝えられ,以後歴代書家の作品が種々の書体で残されている。
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…ただ北朝末期には一時篆隷の筆法を加味した独特の楷書が流行し,一つの特色を発揮した。南朝の陳から隋にかけて,王羲之7世の孫と伝えられる智永が現れ,王羲之の書法をうけついで多くの《千字文》を書いた。なかでも日本に伝わる真跡本の《真草千字文》が名高い。…
…また文字の意味についての簡単な講釈も行われた。児童教育のための書物としては,漢代にも《凡将篇》や《急就章(きゆうしゆうしよう)》(《急就篇》)などが存在し,また唐代には《千字文》や《開蒙要訓》などが行われたが,しだいに《三字経》《百家姓》《千字文》が用いられるように定まり,児童用の教科書はひっくるめて〈村書〉とも呼ばれた。いずれも3字ないし4字で1句をなし,かつ韻をふみ,暗誦しやすいようにつくられている。…
※「千字文」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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