古屋敷遺跡(読み)ふるやしきいせき

日本歴史地名大系 「古屋敷遺跡」の解説

古屋敷遺跡
ふるやしきいせき

[現在地名]小見川町上小堀 古屋敷

利根川を北西に望む標高約四〇メートルの台地上に位置する。水田面との比高は三五メートル。当遺跡の中心は奈良・平安時代の集落跡であるが、ほかに中世以降の土壙墓群や溝・柵列などが検出されている。平成二年(一九九〇)に発掘調査が行われ、奈良・平安時代の竪穴住居跡三七軒、掘立柱建物跡一棟が検出された。出土遺物のうち「山幡」と記載された墨書土器が九点以上出土した点がとくに注目されている。この墨書土器はいずれも九世紀中頃のもので、その表記は「山幡」と「山幡」の二種がある。


古屋敷遺跡
ふるやしきいせき

[現在地名]会津坂下町大沖 古屋敷

大江おおえ集落の西側、出鶴沼いづるま川が形成した南北に細長い、標高約一八八メートルの河岸段丘微高地上に立地する。昭和六三年(一九八八)の遺跡分布調査で発見され、平成元年(一九八九)県営圃場整備事業に伴い約二万平方メートルが発掘調査され、九―一六世紀の掘立柱建物跡約四〇棟と土坑・溝跡等が多数検出された。遺構群は最南端の調査区で確認され、南北を限る幅約三メートルの堀跡によって区画されていた。調査区中央部からは三間に七間の掘立柱建物跡を主体とした建物跡群や南北に走る幅約四メートルの道路状遺構が検出された。


古屋敷遺跡
ふるやしきいせき

[現在地名]富士吉田市大明見 古屋敷

道志どうし山地南東にそびえる杓子しやくし丘陵南側緩斜面にある。発掘調査は昭和五八年(一九八三)と同六三年に行われ、昭和五八年の調査では平安時代の竪穴住居跡二軒・掘立柱状遺構一軒・土壙一基、中世の溝状遺構四基・ピット一基・地下式土壙一基が検出された。昭和六三年の調査では縄文時代早期の住居跡六軒・竪穴状遺構一基・炉穴七基・集石土壙三基が検出され、これらに伴い早期後半期の土器群と石器が出土した。


古屋敷遺跡
こやしきいせき

[現在地名]開田村大字末川 古屋敷

末川すえかわ集落の西方、末川右岸段丘は表面がわずかに波打つような地形を呈するが、その波頭のような台地上、標高一一五〇メートルの地点に立地する。

昭和二四年(一九四九)以来数次にわたる調査が行われ、先土器時代と縄文時代早期の遺跡であることが確認された。


古屋敷遺跡
こやしきいせき

[現在地名]田上町田上 古屋敷

新津丘陵西側の中位段丘から北西に半島状に突出する丘陵先端、標高九メートルの緩傾斜地に立地。第二次世界大戦前から縄文中期の遺跡として知られ、とくに中期前葉の古屋敷式土器の標式遺跡でもある。昭和四九年(一九七四)、緊急発掘調査を実施し、縄文中期初頭から前葉の土器と石鏃・石斧・石匙凹石・石皿が出土した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「古屋敷遺跡」の解説

ふるやしきいせき【古屋敷遺跡】


福島県喜多方市塩川町にある5世紀後半から6世紀初頭にかけての居館跡。会津盆地北西側、阿賀川支流の濁(にごり)川と田付(たづき)川に挟まれた自然堤防上に位置する。1981年(昭和56)に発掘調査が行われ、2000年(平成12)に国指定史跡となった。1988年(昭和63)の調査では、縄文時代早期の住居跡も発見されている。遺跡は、西側を幅4~9mの堀、東側を小河川、北側を低湿地で囲まれた東西230m、南北200mの微高地で、居館はその中心施設である方形区画施設と付属する倉庫群、祭祀跡などで構成されており、経済・軍事的に優位な会津盆地の西側出口にあり、居住貯蔵、祭祀の各施設が良好に残っている。近くに前方後円墳1基、円墳2基からなる天神免(てんじんめ)古墳群があり、この居館を拠点とした豪族の墓ではないかとみられている。磐越自動車道会津若松ICから車で約25分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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