古閑村(読み)こがむら

日本歴史地名大系 「古閑村」の解説

古閑村
こがむら

[現在地名]一の宮町三野さんの

阿蘇カルデラの北東部にあり、北は外輪山の原野、南は湿田となり、東と南は野中のなか村、西は三箇さんが村、北は手野ての村と接する。中世には久家・古河・古家などとも記され、建武三年(一三三六)三月一一日の阿蘇社領郷村注文写(阿蘇家文書)には、中司権大宮司が沙汰する東郷の村分の中に「一所四町 久家村」とみえる。至徳二年(一三八五)八月七日の阿蘇社領郷々注文(同文書)には「一所こかのむら 四丁(九)反」とあり、南郷の武家方大宮司惟村の代官「めせの」と「なかゝ」の代官せん二大夫の知行地となっている。


古閑村
こがむら

[現在地名]八代市古閑上こがかみ町・古閑中こがなか町・古閑下こがしも町・古閑浜こがはま町・横手本よこてほん

横手村から北流する水無みずなし川の流れに沿って立地し、近世以降の干拓地が西に続く。東は上野こうずけ村、西は高子原こうごばら村に接する。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳では田方七一三石二斗余・畠方一〇三石一斗余。高田手永に属し、「国誌」は立原・横小路・碇・大間田畑・春崎・五郎丸・立小路・出口・沖野・畑中などの小村を記す。明暦二年(一六五六)当村の海浜六三〇余間に塘築が完成し、いわゆる明暦古閑新地が竣工


古閑村
こがむら

[現在地名]山鹿市古閑

西部を菊池川が西流し、東は白石しらいし村、西はなか村と接する。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によれば田二二町一反余・畠四〇町九反五畝余・屋敷筆数二五、分米五五四石三斗余、屋敷方として茶師屋敷・地蔵屋敷などがある。同一三年の古閑村出目方検地帳では田二町三反六畝余・畠一七町六反五畝余・屋敷筆数一一、分米一三七石九斗余とあり、下ケ名に堂免・垣内などがみられる。


古閑村
こがむら

[現在地名]泗水町吉富よしどみ

とみ村の南、合志こうし川中流右岸に東西に延びる水田地帯。現在の字田中たなか一帯の地。寛永一〇年(一六三三)人畜改帳によれば、永村組に属した。戸数五・家数二一、人数二八(うち名子一・作子二)、牛馬一〇。「国志草稿」に「古閑村 百四十八石ヨ」とあり、「肥集録」には富出分とみでぶん村の小村として記されている。「国誌」には「古閑村富村高ノ内当村ノ高五十六石余」「古閑村 高百四十八石余」と並記され、竹迫手永に属した。天保期(一八三〇―四四)以降の村柄を示す明治三年(一八七〇)竹迫手永手鑑では高二〇四石六斗余とあり、「国誌」記載の古閑村二ヵ村の高を合算したものと一致する。


古閑村
こがむら

[現在地名]砥用町古閑

東部から北部にかけて緑川が蛇行し、上益城郡坂谷さかだに(現甲佐町)へと流れる。川に面する一帯は急峻な崖地で、「国誌」にみえる鰐淵・蛇釜淵などは蛇行の激しい流れを象徴する。西は名越谷なごしたに村、南はきた村・柑子野こうしの村と接する。村の中央部を谷子たにこ川が北流し、緑川へと注ぐ。慶長国絵図に村名がみえ、正保郷帳によると高三七三石五斗余、うち田方一七八石一斗余・畠方一九五石三斗余。砥用手永に属し、「国誌」に「里俗下古閑村ト云」とあり、「古閑村権現村姫椿村石ノ平村谷村塚瀬村コム水村藤ノ木村等ノ小村有」と記す。


古閑村
こがむら

[現在地名]北部町和泉いずみ 古閑

井芹いせり川右岸の低地に開け、北と西は桑鶴くわづる村、北東は赤水あかみず村、南は五町ごちよう村に接する。慶長一三年(一六〇八)の検地帳に「鹿子木之内古閑村」とあり、田方六町五反六畝余・畠方九町五反二畝余、分米一四四石七斗余、家数一九・人数一九とある。


古閑村
こがむら

[現在地名]植木町古閑

石川いしかわ村の北、中央を古閑川が貫流し、南西有泉ありずみ村、東は合志こうし上生わぶ(現菊池郡西合志町)に接する東西六町余・南北二二町余の南北に長い村で、野々島ののしま村道・有泉村道が通る。元禄国絵図に「石川村之内古閑村」とみえる。近世は正院手永に属し、文政九年(一八二六)の同手永手鑑では田一一町八畝余・畑二六町八反三畝余。


古閑村
こがむら

[現在地名]岱明町古閑

西部を西照寺さいしようじ川が南流し、東・南はじよう村、北は西照寺村、西は赤崎あかさき(現長洲町)に接する。慶長一一年(一六〇六)の検地帳表紙に「大野内古閑村」とある。近世は坂下手永に属する。元禄国絵図に「上村之内古閑村」とあり、上村からの分村。文化八年(一八一一)の坂下手永略手鑑では高三五五石九斗余、田一六町六畝余・畑九町八反一畝余。


古閑村
こがむら

[現在地名]甲佐町白旗しらはた

緑川右岸沿いにあり、左岸上田口かみたぐち村、北は八町はつちよう村と接する。慶長国絵図に村名がみえ、近世は甲佐手永に属した。「国誌」に「辺場ト云小村アリ」とみえ、宝暦一二年(一七六二)の甲佐手永手鑑では竈数四五・男一〇九・女一二六、馬二九。


古閑村
こがむら

[現在地名]益城町古閑

広崎ひろざき村の北側にあり、東を馬水まみず村と接する。慶長国絵図に村名がみえ、近世は沼山津手永に属した。正保郷帳では田一〇石一斗余・畑一一三石四斗余。文化八年(一八一一)沼山津手永略手鑑では高二四九石九斗余、田五町九反九畝余・畑二一町一反三畝余で、惣領そうりよう村よりの越地分として高三石六斗余、田五町九反余が記され、質屋札・商札各二がある。


古閑村
こがむら

[現在地名]富合町志々水しじみず

志々水村の南にあり、平野地に位置する。天文一九年(一五五〇)・同二〇年の銘のある板碑などが残る。慶長国絵図に村名がみえる。廻江手永に属し、「国誌」や廻江手永略手鑑に記す石高は四二〇石六斗余だが、郷帳には五一一石六斗余と記載される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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