和佐荘(読み)わさのしょう

百科事典マイペディア 「和佐荘」の意味・わかりやすい解説

和佐荘【わさのしょう】

紀伊国名草(なくさ)郡の紀ノ川南岸,現和歌山市和佐中一帯にあった荘園。成立の時期は不明だが,同川沿岸の沖積低地が開発されて耕地化したものであろう。南西に接して領主を異にする下和佐荘があるため,上和佐荘,和佐上荘ともいわれた。1264年後鳥羽院の宮女大宮局が院の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うため,和佐荘内下村・南村を洛中歓喜(かんぎ)寺に長日護摩料所として寄進している。同寺は1330年当荘内の薬徳寺に寺領とともに譲られ,14世紀末までに薬徳寺は観喜寺を名乗る。したがって当庄は薬徳寺領の時代を経て再び歓喜寺領となった。14世紀初めの史料によると薬徳寺の別当職は当時沙弥(しゃみ)恵性が所持しており,これは〈代々相伝職〉であったという。また別の史料によると,恵性は〈下村下司(げし)孫太郎入道智性〉と同一人物で,〈根本開発領主子孫〉であり御家(ごけ)人でもあった。その子実村は大伴姓を名乗っており,また和佐又次郎とも称している。下村には下司のほか公文(くもん)・惣追捕(ついぶ)使がおり,公文も大伴姓であった。1327年下村の雑掌(ざっしょう)道覚と下司大伴実持との間で下地中分が行われ,検断権・用水管理権も二分された。また同時に道覚と公文大伴実員との間でも和与(わよ)が成立し,公文得分(とくぶん)が明確にされている。同年の公文得分公事(くじ)注文には各種公事とさまざまな夫役(ぶやく)が書き上げられていて,著名である。荘内を当庄を灌漑(かんがい)する和佐井と日前国懸(ひのくまくにかかす)神宮(日前宮)領一帯を潤す宮井とが通っており,1433年から翌年にかけて用水相論が発生,合戦に及んでいる。相論のなかで日前宮は和佐井は宮井の枝溝とし,当荘では宮井とは別の取水口をもつ井溝であると主張している。

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改訂新版 世界大百科事典 「和佐荘」の意味・わかりやすい解説

和佐荘 (わさのしょう)

紀伊国名草郡(現,和歌山市)の荘園。平安末期の成立と考えられるが,成立事情は不詳。1189年(文治5)ころ石清水(いわしみず)八幡宮寺祠官の田中成清を領家(りようけ)とし,高野山随心院を本家とする下和佐荘が成立したため,これと区別するために上和佐荘(和佐上荘)と称することもある。当荘の下村と南村(箕田村)の領家職(しき)は歓喜寺が有しており,在庁名(ざいちようみよう)と思われる千住名も荘内にあったが,その他の領有関係はつまびらかでない。歓喜寺はもと京都にあって蓮光寺と称し,1264年(文永1)後鳥羽院の寵妾大宮局の寄進によって下村,南村を領した。熊野参詣道にそった南村には薬徳寺があり,1330年(元徳2)歓喜寺が薬徳寺内に護摩堂として移転されたため,両寺の混同が生じ,その後薬徳寺は歓喜寺に吸収された。歓喜寺には古文書約200通が伝来し,なかでも1327年(嘉暦2)の下村公文(くもん)得分注文(とくぶんちゆうもん)は多種の公事(くじ)・夫役(ぶやく)が列挙されていて著名である。下司(げし),公文,惣追捕使(そうついぶし)などの荘官にはいずれも開発領主と思われる大伴氏一族が任ぜられており,彼らは室町期には和佐氏を称し,守護畠山氏の被官となっている。当荘の水田大部分宮井用水によって灌漑されるため,1433年(永享5)には日前国懸(ひのくまくにかかす)神宮との間に激しい用水相論が起こっている。
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