国内の治安維持,思想対策,軍事機密の保持,風俗取締り等を目的に,政府が法律によって特定の書物の刊行・所蔵・閲覧を禁止すること,ならびに禁止された書物をいう。
禁書の事例は古く戦国時代にまでさかのぼる。秦の孝公の下で変法を実施した商鞅(しようおう)は,古聖の書を引証しては変法に攻撃を加える守旧派に対抗するため《詩経》《書経》を焚(た)いた。韓非子も古書と儒者を除くことを主張しているが,有名な秦の始皇帝による焚書(ふんしよ)はこの流れを受けたものである(焚書坑儒)。前213年,古の封建制を賛美し,郡県の新制を批判する声があがると,始皇帝は宰相李斯(りし)の提言を入れ,秦の史料以外のすべての歴史書および《詩経》《書経》,諸子百家の書はいっさい民間に所蔵することを禁じ,焼棄せしめた。ただし医薬,卜筮(ぼくぜい),農業に関する書のみはその使用を許すというこの挟書律(きようしよりつ)は,漢の高祖にも受けつがれ,恵帝に至って解除された。秦・漢の思想界は迷信的色彩が強かったが,ことに前漢の中ごろから後漢の初めにかけ,予言や神秘を説く讖緯(しんい)説が流行し,おびただしい緯書が現れた。人心を乱す妖妄の書として南北朝の宋や梁でもしばしば禁じられたが,隋の煬帝(ようだい)が即位すると,全国に使者を派遣して讖緯に関する書を焚かせた。これにより緯書の多くが散亡し,今日まで伝わるものは少ない。後漢の末から三国時代にかけ民間に仏教が流通する一方,道教もしだいに組織され,仏道2教の衝突が絶えず起こるようになった。南北朝から隋・唐の間にあってその争論の中心となったのは《老子化胡経(かこきよう)》という偽経である。老子が釈迦を教えたと説くこの道教の偽経に対抗して,仏教側も老子を仏弟子とする《老子大権菩薩経》等を偽作した。668年(総章1),唐の高宗が宮中で《老子化胡経》の真疑を対決させた結果,仏教側が勝利し,いっさいの《老子化胡経》は焼棄を命ぜられた。今日ではペリオが敦煌から発見した残巻が存するだけである。
印刷術の普及した宋以後は,禁書の例も前代に比して増大し恒常化する。西夏や遼と対峙し,対外政策に苦慮する宋は,国内事情の漏洩を恐れ,書物の国外搬出を禁ずる法令(書禁)を定めた。文集の印刷には検閲が施され,国情が異民族に伝わる恐れがあるとして《宋賢文集》の版が焚かれた。また官撰書の国史や実録,会要を民間に存することも,同じ理由で禁じた。民間に対しては,これ以外にも兵書(軍事機密),天文書(反乱の動機になる),刑書(法知識を民間に与えぬ),を存することを禁止している。北宋末,新法・旧法の党争が激化すると,政治的理由で反対派の書が禁じられ,南宋でも私史が禁じられた。元代では秘密結社を弾圧するため,しばしば《推背図》等の妖書の禁令が発せられている。明では異端邪説として《剪灯新話》等の小説が禁じられたほか,反儒的な言辞をもって知られる李贄(りし)の著作はすべて禁止せられた。また李自成の乱が熾烈を極めた明末には,反乱を教唆する賊書として《水滸伝》が厳禁された。
禁書令は異民族王朝である清の全盛期にとりわけ厳重に実行された。康熙(1662-1722)の末年,南明政権の記述をした戴名世が斬死に処せられ,雍正期(1723-35)には華夷の別を説く朱子学者呂留良のしかばねがさらされた。これら一連の文字の獄が目ざすものは,反満思想の根絶であるが,この思想弾圧は乾隆期(1736-95)に入るといっそう厳しさを加え,《四庫全書》編纂のため各地から蔵書を集めると同時に検閲を加え,禁止すべき書物を抽出した。その数は浙江省だけで538種,1万3862部にのぼる。その書目をみると,明・清交代期の歴史はほとんど湮滅(いんめつ)せられ,華夷思想に反論を加えるため雍正帝が編纂せしめた《大義覚迷録》すら禁書となっている。なお《水滸伝》《金瓶梅》《紅楼夢》等の小説は淫詞として一貫して禁止されていた。
執筆者:森 紀子
日本では1630年(寛永7)キリシタン信者の国外追放とともに,キリシタン関係書32点の輸入を禁じ,所持も許さず,39年鎖国令とともに厳重に取り締まられた。《天学初函》19点はキリスト教義の書であるが,その他13点は数学・天文測量書であった。輸入取締りのため同年長崎に春徳寺を建立し,開山泰室に目利(めきき)(検閲者)を命じた。しかし85年(貞享2)副目利長崎聖堂祭酒向井元成は,清船積荷検閲で《寰有詮》等を発見し,その功で正副目利の地位が逆転した。国内出版に対してもしばしば禁止を命じたが,実効が挙がらなかった。将軍吉宗の下で,1722年(享保7)に出版令が組織的に布令され,禁止強化と本屋仲間の結成とを両立させた。その布令には将軍役人等の政道と行為の記事を禁止し,伝聞浮説,新規の創作,好色物,華美な絵柄を禁じ,奥付に住所氏名を明記させた。これを基本法規として幕末まで取締りが行われた。とくに寛政異学の禁の思想統制(1790)と天保改革(1841)は,思想よりも風俗取締りに比重がかかっていた。文学者では先に山東京伝,後に柳亭種彦と為永春水とが大きな犠牲を払わされた。
執筆者:弥吉 光長 明治維新後,政府は,まず1868年(明治1)閏4月に,太政官布告によって出版統制を行い,新刊・重版とも官許を得ないものの売買を禁じた。次いで翌69年には出版条例を公布し,政府批判を禁じるなどさらに細かい取締規則を定めた。監督官庁は最初昌平学校であったが翌70年に大史局所管となり,71年大史局の廃止に伴い文部省へ移った。さらに75年にはこれが内務省へ移管され,1947年12月敗戦によって内務省が解体されるまで続く。1875年は,言論出版の取締りを目的とする讒謗(ざんぼう)律・新聞紙条例の公布された年であるが,この年9月出版条例が大改正され,きびしい罰則規定が設けられた。87年には発行届出制度を採用した新聞紙条例改正と別に版権条例を公布し,著作権保護と出版取締りとを峻別した。このころから秘密出版が盛んとなり,出版条例違反で処罰される者が続出した。93年4月出版条例を出版法と改めたが,この出版法はその後出版統制を強化する方向で何回か改正され,1945年9月GHQによって失効させられ,49年5月正式に廃止するまで続く。ちなみに1893年の出版物発禁は124件であったが,大正に入り,風俗壊乱で発禁となるものが多く,1913年には1096件に上っている。23年の発禁処分は,風俗壊乱1442件に対し安寧秩序違反(思想取締)893件であったが,昭和に入るとこの比率が逆転し,思想統制の厳しさがうかがわれる。たとえば32年には風俗壊乱858件に対し,安寧秩序違反5037件に上っている。発売禁止になった作品としては,1868年5月《江湖新聞》論説〈強弱論〉が官軍の憎むところとなり,同紙は発禁,福地桜痴が投獄された例をはじめ,末広鉄腸(《東京曙新聞》1875.8),島崎藤村(《旧主人》1902.11),森鷗外(《ヰタ・セクスアリス》1909.7),石川淳(《マルスの歌》1928.1),石川達三(《生きてゐる兵隊》1928.3)などの多くの作品がある(プロレタリア作家の場合その頻度がとくに高いことはいうまでもない)。また,1925年4月に公布された治安維持法は,28年5月,41年3月に改正されているが,改正のたびに思想統制は強化されていった。さらに,発禁件数がふえるにしたがい,出版界では内務省の内検閲制度を維持して,発禁ではなく,一部削除処分とするよう要請し,1933年ころからは,漸次一部削除処分がふえてきている。第2次世界大戦後は,GHQによる事前検閲制度が行われたが,占領終了後の51年以降は,刑法第175条(猥褻文書頒布等)に基づく押収および起訴だけが行われている。このように禁書のあり方は,時の政治状況に拠って異なり,まさに〈筆禍史は即ち国家が旧事を語れる懺悔話と見るも亦可ならん乎〉(宮武外骨)である。
→言論統制 →発禁
執筆者:谷井 精之助
西洋における禁書はまず教会によって行われた。パウロがエペソ(エフェソス)に宣教に行ったとき,パウロの力を見て〈魔術を行っていた多くの者が魔術の本を持ち出してきては,皆の前で焼き捨てた。その値段を総計したところ,銀5万にも上ることが分かった〉(《使徒行伝》19:19)という記述が新約聖書にある。これは自発的焚書であるが,ローマ皇帝コンスタンティヌス1世はアリウス派を異端と宣したニカエア公会議(325)の後アリウス派の書籍を禁じ焼かせている。これが異端の書を焼く先例となり,異端審問裁判所は書籍の所持まで罰したが,印刷術の普及以前は禁書は偶発的なものであった。印刷術の開発は教皇アレクサンデル6世やレオ10世の教書等の警告を惹起し,1546年カール5世はルーバン大学に命じて《禁書目録》を作らせた。また49年にはベネチアで枢機卿による《禁書目録》が出ている。57年トリエント公会議の中断中に教皇パウルス4世は禁書目録作成のため聖省を作ることを命じるとともに59年に《禁書目録》をローマ宗教裁判所から出させたが反論が出たので特別委員会によって改訂させた。これが64年ピウス4世のとき公刊された《トリエント禁書目録》である。71年ピウス5世のときに禁書聖省が発足し,1917年までこれの増補訂正に当たり,それ以降は検邪聖省の所管となった。《禁書目録》にはたんに異端と目された宗教書だけでなく,哲学,歴史,小説など広範囲な著作が含まれている。社会情勢の変化から徹底的な改訂が必至となり,1900年と30年に大幅な改正が行われた。1900年の改正では1600年以前の禁書が全部取り消され,ゲーテの作品などもはずされたが,カントの《純粋理性批判》,ゾラ,スタンダールの作品などはいまだに見られる。1948年に40回目の改訂があり翌49年からはマルクス主義の著作やジッドの全著作などが禁書になったりしたが,66年より《禁書目録》は停止され再版もしないことになったので事実上は廃止に等しい。禁書は一般の信者の信仰を保護するためのものなので,勉学や研究上必要な場合は管区の司教が読書の許可を与えることができた。また聖職者が世俗的内容を持つ著作を出版するときは事前に教区長ないし直属の修道会の上級長の許可を得なければならず,この場合印刷認可の公文書の冒頭のラテン文〈Nihil obstat〉と許可を与えた検閲者の名を本の扉裏に転載する必要がある。
執筆者:松原 秀一 印刷術の発明と軌を一にして,近代国家への道を歩み始めたヨーロッパ諸国は,急増する書物の社会的な力に大きな関心を寄せた。当初は,教会の禁令を支持する形で関与していくが,しだいに出版統制権の独占を図る。フランスでは,1521年,フランソア1世が神学書に対してパリ大学神学部による事前検閲を命じたのに始まり,63年シャルル9世は王の許可なき書物の出版を禁じ,1653年には教会から事前検閲権を完全に奪取した。ルイ14世の絶対王政下には統制も一段と強化される。禁止の対象は,反宗教,反国家,誹謗文書,風俗紊乱の書に大別されるが,ルター,カルバンを始めとするプロテスタントやパスカルらのジャンセニストの著作,マザリナードに代表される誹謗文書,ボーバンの《王国十分の一税草案》,ブラントームの《艶婦伝》など広範な出版物が王権により禁じられた。王権による出版統制は,ローマ教皇庁の《禁書目録》のようにリストが存在するわけではないが,事前検閲と秘密出版や国外からの流入本の規制により,思想の自由を大きく制限した。啓蒙主義時代には,ディドロの《哲学書簡》やエルベシウスの《精神論》の発禁,《百科全書》の出版差止めなどよく知られているが,反面,当局が〈黙許〉のシステムを採るなど新思潮に妥協したことも注目される。
イギリスでは,1524年に教会が,38年には国王が書物の事前検閲と輸入規制を定めた。クロムウェル時代にも厳しい統制がしかれた。ドイツでは,1524年のニュルンベルク帝国議会決定,48年のカール5世の警察法規によって,検閲は全般的な拘束力をもつようになり,違反者には業務停止や罰金刑が課せられた。
近代に入ると,自由主義あるいは社会主義運動の展開に伴い,反体制思想の出版禁止が顕著となる。初期の代表的な例としては,1819年にメッテルニヒの主導のもとにドイツ連邦議会で採択された〈カールスバート決議〉の出版法であり,これによって革命防止の対策として小冊子印刷物の検閲が行われた。ナチス・ドイツにおける焚書はその極端な例である。思想・表現の自由が,基本的人権の柱であるとの共通認識が築かれるまで,反国家文書は禁書であり続け,現在もなお風俗紊乱の名のもとに表現の自由は制限されている。
→表現の自由
執筆者:二宮 素子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
国内の治安維持、信仰上の問題、風俗取締りなどのいろいろな理由から、政府や教会の命令によって書物の発売、輸入、所蔵、閲覧を禁止すること、またそれによって禁止された書物。広い意味の言論統制の一つ。一方、規制される側による書籍の隠匿や秘密回覧、地下出版などの手段による抵抗も、洋の東西を問わず多くの国にみられた。
[金子和正]
中国における禁書のもっとも古い例は秦(しん)である。すでに戦国時代、李斯(りし)などの献策による例もあるが、著名なのは統一後の紀元前213年、始皇帝が挟書律(きょうしょりつ)を定めて、秦の記録、占卜(せんぼく)、医薬、農業などの書を除くすべての書物を焼き払った焚書(ふんしょ)である。以後、隋(ずい)の煬帝(ようだい)は、漢代から流行し、歴代の皇帝がしばしば禁じていた讖緯(しんい)の書を厳禁し、四方に捜し求めて焼いた。唐代では偽書と断じられた『老子化胡経(ろうしけこきょう)』や仏教の一派であった三階教の経典が焼却され、宋(そう)代では実録、正史、会要など政治に関する書、あるいは天文書、刑法書、兵書などが禁書となった。宋代になると、印刷術の普及によって書物の大量出版が可能となり、社会への影響力も激増してくる。禁書は以前にもましてしばしば行われるようになった。元代では『太乙雷公式』『推背図』などのいわゆる妖(よう)書や道教の書が禁じられ、明(みん)代では反儒教的思想をもち希代の危険思想家とされた李贄(りし)の筆禍事件が有名である。彼の著作は既刻・未刻を問わずすべて焼却された。このように禁書は歴代にわたって行われたが、もっとも大規模かつ徹底的であったのは清(しん)朝の乾隆帝(けんりゅうてい)である。彼は漢民族の反満思想を除くために、統治に不利益と認められる書物は容赦なく焼却、その数は538種、1万3862部に及んだ。また彼はこの時期に、中国最大の叢書(そうしょ)『四庫全書』の編集を命じているが、これも実は全国各地の書物を集めて検閲するためであったともいわれる。1788年(乾隆53)には『禁書総目』を刊行したが、これに登録された禁書のなかには、すでに日本に舶載されていたため焼却を免れたものも少なくない。禁書には書物・版木ともに焼却を命ぜられた全燬(ぜんき)書、一部分の訂正削除を命ぜられた抽燬(ちゅうき)書がある。このほかに『金瓶梅(きんぺいばい)』『水滸伝(すいこでん)』などの小説が風俗惑乱、社会不安をきたすおそれのあるものとして、また科挙受験のための模範答案例のようなものも禁じられた。
[金子和正]
1639年(寛永16)、江戸幕府はキリスト教を厳禁し、ポルトガル船の来航を禁止する鎖国令を発布したが、それに先だつ1630年には禁書令を発布してキリスト教関係の書物32種の輸入を禁止した。以後、長崎会所に書物目利(しょもつめきき)、長崎聖堂に書物改役(あらためやく)を置いて、中国より舶載される書物の検閲をすることになった。検閲は厳しく、禁書、または疑わしい書物は、有害の程度によって焼き捨てあるいは積み戻しをし、書中に一言半句でもキリスト教に関する記事があれば、その部分を墨で消すか、一葉全部を破り取った。しかし、禁書中には『幾何原本』などキリスト教とは無関係の技術書や科学書が含まれていたので、8代将軍吉宗(よしむね)は1720年(享保5)禁制を緩和し、これら科学・技術書の輸入を認めるようになった。ただし、国内出版物に関しては1722年に出版令を布令し、本屋仲間の結成などの規制強化を行った。これらの方針は幕末まで続く。江戸幕府はこのほかに、治安維持のため著作中に将軍家・大名家などに言及することを禁じ、あるいは時代の新しい動向を盛り込んだ書物の出版、また風俗取締りのために好色本の出版を厳しく禁じた。明治から昭和にかけては、1893年(明治26)、検閲制度のもとに発売禁止(発禁)や輸入禁止を規定する出版法が施行され、1925年(大正14)の治安維持法と相まって猛威を振るい、第二次世界大戦中は紙などの資材配給を絡めた出版統制が行われた。さらに戦後はアメリカ軍の占領政策によって、かつての軍国主義思想書はすべて禁止されるなど、さまざまな理由で発禁となった出版物はおびただしい数に上る。
[金子和正]
紀元前387年に、未成熟な読者を惑わすとの理由で、プラトンはホメロスの『イリアス』や『オデュッセイア』の追放を提言しており、その『オデュッセイア』を、ローマ皇帝カリグラは紀元後35年に、ローマの独裁帝政に危険な自由思想を鼓吹するものとして読ませないようにしたなどの例からみても、禁書の観念はずいぶん古くまでさかのぼり、古代、中世を通じて連綿と続いた。なかでも、ローマ・カトリック教会の公布した禁書目録は有名である。
絶対主義王政下では当然のことながら王権にすこしでも疑問を抱かせるものは禁書とされた。フランスではルイ14世が広範な書籍を禁書とした。18世紀以降でも、思想と表現の自由がもっとも大幅に認められたイギリスにおいてさえ、1774年に出版されたジェファソンの『英植民地アメリカの権利』が発禁処分に付されている。またD・H・ローレンスの完本『チャタレイ夫人の恋人』の公刊がイギリスで許されたのも1960年のことである。なお、第二次世界大戦中、ヒトラーがマルクス主義的、自由主義的、ユダヤ的、反ナチス的な書物を大量に焼き滅ぼした事実は記憶に新しい。
[寿岳文章]
思想や表現の自由が基本的人権の一つとして重んぜられる潮流が強まる一方で、体制に不都合な思想の規制を依然として必要とする例が少なくない。そのため、単純な禁止と併行して、事前の検閲による内容への干渉、紙などの資材や印刷・複写機器の管理、書籍発刊・輸入の一元化などにより実質的な統制を図る国も多い。さらに、限られた研究者などにのみ特定の書籍の閲読を許す制度も広くみられる。もっとも規制の少ない国の一つであるアメリカにおいても、マッカーシズムの例や、一部地域での進化論を教える教科書の抑圧などの例がある。禁書は人類の永遠のテーマの一つといえるかもしれない。
[大川哲也]
『『筆禍史』(『宮武外骨著作集4』所収・1985・河出書房新社)』
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中国諸王朝で支配維持,思想統制などのため行った書物の刊行,所蔵の禁止策および対象となった書物をいう。古くは始皇帝の焚書(ふんしょ)がある。以後各王朝にみられるが,清朝の禁書が特に著名。中国的支配を行った異民族王朝の清は国内批判を恐れ,思想統制を厳しくして文字の獄や禁書の徹底を期した。康熙(こうき)帝,雍正(ようせい)帝,乾隆(けんりゅう)帝の盛時に激しく,乾隆帝において特に厳しかった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…収書法には買上げと借用とがあり,500部以上進献したものには,《古今図書集成》が下賜された。しかし審査の際に,清朝にとって都合の悪い記事は削除されたり文字を改められ,2000を超える書籍が禁書となったのであり,思想統制と知識人対策が同書編纂の目的の一つであったといわれている。 こうして最初の四庫全書一揃いができたのは1781年で,任松如の《四庫全書答問》によると著録3457部7万9070巻,存目6766部9万3556巻といわれる。…
※「禁書」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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