(読み)ぐん

  • ▽郡
  • こおり
  • こおり〔こほり〕
  • 漢字項目

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

古くは「こほり」といった。行政単位としての下にあり,,里,などを含む区画。古くは「こほり」に「」の文字が用いられていたことは当時の金石文,古文書,古記録類に明らかで,『大宝令』の頃から「郡」の文字に変ったものと思われる。『大宝令』では郡は,広さ,郷の数などにより大,上,中,下,の5等に分けられた。郡には役人として郡司がおかれていた。郡の数は時代により変動があった。奈良時代の『古律書残編』には 555郡,平安時代前期の『延喜式』には 591郡,中世の『拾芥抄』には 604郡,江時代の『郡名考』では 631郡となっている。明治以降,府県のもとに編入された。

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デジタル大辞泉の解説

都道府県の区・市以外の町村を包括する区画。明治11年(1878)府県の下の行政区画とされ、同23年の郡制によって地方自治体として認められたが、大正12年(1923)廃止。現在は単に地理上の区画。
律令制での行政区画の一。国の下に位し、郡司が管轄した。この下に郷・里がある。
[音]グン(呉) [訓]こおり
学習漢字]4年
行政区画の一。「郡下・郡司(ぐんじ)郡部
古代中国で、県より大きい行政区の単位。「郡県制楽浪郡
[名のり]くに・さと・とも
律令制で、国の下に位置する地方行政区画。里・郷・村を包括するもの。→郡(ぐん)

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百科事典マイペディアの解説

の下にあって(ごう)・(り)・町・村などを包括した行政区画。古くは〈こおり〉とも読む。649年から評(こおり)制が施行されていたが,701年の大宝(たいほう)律令施行により郡制に改編され成立したと考えられる。令の規定では50戸からなる里(715年に郷に改称し,郷里制施行)を構成単位とし,20里以下16里以上を大郡(たいぐん),12里以上を上郡(じょうぐん),8里以上を中郡(ちゅうぐん),4里以上を下郡(げぐん),2里以上を小郡(しょうぐん)とし,郡ごとに郡衙(ぐんが)を設け郡司(ぐんじ)を置いた。郡の総数は奈良時代で555(律書残篇(りっしょざんぺん)),《和名抄(わみょうしょう)》では592。平安時代中期以降律令制的な郡制はしだいに崩壊し,とくに荘園の発達により行政区画としての機能は衰退した。中世前期の郡数は《拾芥抄(しゅうがいしょう)》によると604とされるが,中世後期には私郡が成立するなど流動的で,郡域の変更もしばしば行われた。なお郡名の訓は《和名抄》や《拾芥抄》に記されているが,必ずしも一定ではない。1591年豊臣秀吉は国郡を単位に御前帳(ごぜんちょう)(検地帳)・国絵図(くにえず)の作成を命じて国郡制的な支配を行い,江戸時代もこれを継承した。天保郷帳(てんぽうごうちょう)によると郡数631。1872年の大区・小区制により旧郡は否定されたが,1878年公布の郡区町村編制法によって行政区画として復活,郡役所郡長が置かれた。1890年の郡制公布によって郡会が設置され,地方自治体となった。1923年郡制廃止法が施行され,郡は再び行政区画となり,1926年には郡長以下の官吏(かんり)および郡役所も廃され,たんなる地理的名称として現在に至っている。なお,いわゆる〈平成の大合併〉に伴い,1999年3月末に558あった郡は2006年3月末には406に減少した。
→関連項目大化改新那須国造碑

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防府市歴史用語集の解説

 律令[りつりょう]時代の「国」の中を支配するために、さらに細かく分けられた行政区分が「郡」になります。郡にはそれぞれ「郡衙[ぐんが]」という役所が置かれました。

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世界大百科事典 第2版の解説


古代
 律令国家の地方行政組織の一つで,国の下におかれた。〈こおり〉ともいう。中国の郡県制に淵源し,日本での初見は《日本書紀》大化2年(646)正月条の〈改新之詔〉に〈凡そ郡は四十里をもって大郡とせよ。三十里以下,四里より以上を中郡とし,三里を小郡とせよ〉とあり,このとき郡制が施行されたかのように記されているが,孝徳朝の649年(大化5)に(こおり)制が施行されて以来,7世紀の後半を通じて国の下の行政単位が一貫して評であったことは,金石文や木簡などの当時の史料から確かめられている。

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大辞林 第三版の解説

都道府県の下位区分の一つで、町・村を包括する区画。1878年(明治11)府・県の下の行政区画とされ、1890年の郡制によって地方自治体としての権能が明確になったが、1923年(大正12)廃止。以後、地理的区画となった。
律令制下、国の下に置かれた地方行政単位。この下に里(郷)があった。中世・近世にも存続した。
中国で、秦以降隋まで県の上に置かれた行政区画。 → 郡県制度
ぐんの古い呼び方。一国を小分けにした町・村・里・郷などを包括するもの。 → ぐん

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

「こおり」とも読む。古代から現代までの地方行政区画。『日本書紀』には、646年(大化2)条の改新詔に郡の規定があり、郡が行政区画として定められたとされてきた。しかし、木簡(もっかん)などの史料から、このとき定められたのは評(ひょう/こおり)であることが明らかになった。
 郡が定められたのは、8世紀初頭制定の大宝律令(たいほうりつりょう)であった。律令制では、郡は、国の下にあって里(1里=50戸)を包括し、里の数によって、大(16~20里)、上(12里以上)、中(8里以上)、下(4里以上)、小(2里以上)の5等に分けられた。郡司には、旧国造(くにのみやつこ)層をはじめとする在地首長が任命され、口分田(くぶんでん)の班給が郡規模の広さで行われるのを原則とし、調庸物の合成が郡を単位に認められていたことなど、郡は、郡司の体現する伝統的支配と密接な関連をもって設定された、律令制支配の基礎となる行政区画であった。10世紀以降、郡司の支配の変質、荘(しょう)などの増加によって、地域名化していった。その後、16世紀の太閤(たいこう)検地によって、郡は諸村を統轄するものとされ、江戸幕府も郡名の復旧に務めた。1878年(明治11)郡区町村編制法によって、府県の下位の行政単位とされ、郡役所が置かれた。1921年(大正10)郡制の廃止が決議され、郡は行政区画としてのみ存続している。[大町 健]

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精選版 日本国語大辞典の解説

〘名〙
① 律令制で、一国の下の行政区画。郡司が管轄する。この下に郷、里があった。こおり。
※令義解(718)戸「凡郡以廿里以下。十六里以上。為大郡
② 地方自治体の一つ。明治二三年(一八九〇)以降は府県と町村の間に位し、市と共に府県(自治団体)を構成するもの。郡会、郡参事会、郡長の機関を置いた。大正一二年(一九二三)に廃止後は地方行政区画として郡長に管轄されたが、大正一五年、郡長も廃止され、現在では単に都道府県の区・市以外の町村を包括する地理上の区画をさす。〔仏和法律字彙(1886)〕
③ 日本統治下の朝鮮及び台湾に置かれた地方行政機構の一つ。

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世界大百科事典内のの言及

【郡家】より

…律令制下における郡の役所。郡衙(ぐんが),郡府ともいう。…

【東国】より

…東国が畿内を中心とする国家の支配下に名実ともに組織されたのは,逆にこれ以後ということもできるのである。 東国にも東北北半を除いて国郡制が一応貫徹し,天武朝以後,伊賀以東の東海道,あるいは美濃以東の東山道を〈東国〉とする呼称が新たに用いられるようになり,三関以東は〈関東〉,関東・東北地方は〈坂東〉〈山東〉と呼ばれた。しかしすでに古墳時代,毛野(けぬ)氏などの自立的な勢力を生み出した東日本の社会は,律令国家の支配下にそのままとどまってはいなかった。…

【郡】より

…〈こおり〉ともいう。中国の郡県制に淵源し,日本での初見は《日本書紀》大化2年(646)正月条の〈改新之詔〉に〈凡そ郡は四十里をもって大郡とせよ。三十里以下,四里より以上を中郡とし,三里を小郡とせよ〉とあり,このとき郡制が施行されたかのように記されているが,孝徳朝の649年(大化5)に(こおり)制が施行されて以来,7世紀の後半を通じて国の下の行政単位が一貫して評であったことは,金石文や木簡などの当時の史料から確かめられている。…

※「郡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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