ぐん【郡】
〘名〙
※
令義解(718)戸「凡郡以
二廿里以下。十六里以上
一。為
二大郡一」
②
地方自治体の一つ。明治二三年(
一八九〇)以降は
府県と
町村の間に位し、市と共に府県(
自治団体)を構成するもの。郡会、郡参事会、
郡長の機関を置いた。大正一二年(
一九二三)に
廃止後は地方行政
区画として郡長に管轄されたが、大正一五年、郡長も廃止され、現在では単に
都道府県の区・市以外の町村を包括する地理上の区画をさす。〔仏和法律字彙(1886)〕
③ 日本統治下の
朝鮮及び
台湾に置かれた地方行政機構の一つ。
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デジタル大辞泉
「郡」の意味・読み・例文・類語
ぐん【郡】
1 都道府県の区・市以外の町村を包括する区画。明治11年(1878)府県の下の行政区画とされ、同23年の郡制によって地方自治体として認められたが、大正12年(1923)廃止。現在は単に地理上の区画。
2 律令制での行政区画の一。国の下に位し、郡司が管轄した。この下に郷・里がある。
[類語]都・道・府・県
こおり〔こほり〕【▽郡】
律令制で、国の下に位置する地方行政区画。里・郷・村を包括するもの。→郡
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郡
こおり
戦国期よりみえる地名。フロイス「日本史」によれば、一五六六年(永禄九年)ドン・バルトロメオ(大村純忠)はその最も重要な城の一つ彼杵を失ったという。大村・肥前武雄両軍の戦があった郡村野岳の山城のこととされるが、明らかではない。元亀三年(一五七二)七月三〇日、大村純忠が伊佐早の西郷純尭および後藤貴明・有馬鎮純・松浦隆信の軍勢に居城の三城城を攻撃された際、郡村給人の長岡左近・同備前・朝長壱岐・峰将監・神近加賀らが援軍に参じたという(大村家覚書)。年未詳八月二八日の大村純忠書状写(福田文書)に「郡大村」とみえ、武略の最中である純忠に対し、入魂にしている当地など領内の人々が近日中に味方するであろうから、その時に福田兼次に対してさらなる忠節を尽すように要請しているのは、この頃か。
郡
こおり
[現在地名]山陽町大字郡
厚狭盆地の南部、南流する厚狭川の両岸に広がる地。江戸時代には末益村の小村名称であったが、古代この地に長門国厚狭郡の郡家が置かれたことに由来するという。現在、郡家がどの場所にあったかは確定できないが、小名に上郡の地名が残る。
九州探題今川了俊の紀行「道ゆきぶり」の、応安四年(一三七一)一〇月八日に「あさの郡といふさとにつきぬ」と記される。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
郡【ぐん】
国の下にあって郷(ごう)・里(り)・町・村などを包括した行政区画。古くは〈こおり〉とも読む。649年から評(こおり)制が施行されていたが,701年の大宝(たいほう)律令施行により郡制に改編され成立したと考えられる。令の規定では50戸からなる里(715年に郷に改称し,郷里制施行)を構成単位とし,20里以下16里以上を大郡(たいぐん),12里以上を上郡(じょうぐん),8里以上を中郡(ちゅうぐん),4里以上を下郡(げぐん),2里以上を小郡(しょうぐん)とし,郡ごとに郡衙(ぐんが)を設け郡司(ぐんじ)を置いた。郡の総数は奈良時代で555(律書残篇(りっしょざんぺん)),《和名抄(わみょうしょう)》では592。平安時代中期以降律令制的な郡制はしだいに崩壊し,とくに荘園の発達により行政区画としての機能は衰退した。中世前期の郡数は《拾芥抄(しゅうがいしょう)》によると604とされるが,中世後期には私郡が成立するなど流動的で,郡域の変更もしばしば行われた。なお郡名の訓は《和名抄》や《拾芥抄》に記されているが,必ずしも一定ではない。1591年豊臣秀吉は国郡を単位に御前帳(ごぜんちょう)(検地帳)・国絵図(くにえず)の作成を命じて国郡制的な支配を行い,江戸時代もこれを継承した。天保郷帳(てんぽうごうちょう)によると郡数631。1872年の大区・小区制により旧郡は否定されたが,1878年公布の郡区町村編制法によって行政区画として復活,郡役所・郡長が置かれた。1890年の郡制公布によって郡会が設置され,地方自治体となった。1923年郡制廃止法が施行され,郡は再び行政区画となり,1926年には郡長以下の官吏(かんり)および郡役所も廃され,たんなる地理的名称として現在に至っている。なお,いわゆる〈平成の大合併〉に伴い,1999年3月末に558あった郡は2006年3月末には406に減少した。
→関連項目県|評|大化改新|那須国造碑
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郡
ぐん
「こおり」とも読む。古代から現代までの地方行政区画。『日本書紀』には、646年(大化2)条の改新詔に郡の規定があり、郡が行政区画として定められたとされてきた。しかし、木簡(もっかん)などの史料から、このとき定められたのは評(ひょう/こおり)であることが明らかになった。
郡が定められたのは、8世紀初頭制定の大宝律令(たいほうりつりょう)であった。律令制では、郡は、国の下にあって里(1里=50戸)を包括し、里の数によって、大(16~20里)、上(12里以上)、中(8里以上)、下(4里以上)、小(2里以上)の5等に分けられた。郡司には、旧国造(くにのみやつこ)層をはじめとする在地首長が任命され、口分田(くぶんでん)の班給が郡規模の広さで行われるのを原則とし、調庸物の合成が郡を単位に認められていたことなど、郡は、郡司の体現する伝統的支配と密接な関連をもって設定された、律令制支配の基礎となる行政区画であった。10世紀以降、郡司の支配の変質、荘(しょう)などの増加によって、地域名化していった。その後、16世紀の太閤(たいこう)検地によって、郡は諸村を統轄するものとされ、江戸幕府も郡名の復旧に務めた。1878年(明治11)郡区町村編制法によって、府県の下位の行政単位とされ、郡役所が置かれた。1921年(大正10)郡制の廃止が決議され、郡は行政区画としてのみ存続している。
[大町 健]
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郡
ぐん
「こおり」とも。律令地方制度上の国の下の行政区分。浄御原(きよみはら)令制までに各地に成立していた「評(こおり)」が,大宝令制の施行にともない「郡(こおり)」と改称されてうけつがれた。所属する里の数によって大・上・中・下・小の5等級にわけられ,その等級に応じて在地の有力者から任じられる郡司の員数が定められた。大宝令施行後も地方への律令制度の浸透により,交通状況や帰化人の移配,蝦夷(えみし)・隼人(はやと)の服属など,在地の実情に即した郡の新置や統廃合が行われた。地方行政の末端にあって在地で民衆を動員できた郡司の力や,地方行政の運営を支える財源となった郡稲の存在など,郡は初期の律令国家の地方支配の基盤であった。やがて律令国家の地方行政の機能が国に集中するようになって以後,平安時代中頃からは荘園公領制の広がりによって制度的に変質し,行政区分としての機能をはたさなくなったが,その後も地域区分の名称としては存続し,中世・近世を通して国の下の単位とされた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
郡
ぐん
古くは「こほり」といった。行政単位として国の下にあり,郷,里,村などを含む区画。古くは「こほり」に「評」の文字が用いられていたことは当時の金石文,古文書,古記録類に明らかで,『大宝令』の頃から「郡」の文字に変ったものと思われる。『大宝令』では郡は,広さ,郷の数などにより大,上,中,下,小の5等に分けられた。郡には役人として郡司がおかれていた。郡の数は時代により変動があった。奈良時代の『古律書残編』には 555郡,平安時代前期の『延喜式』には 591郡,中世の『拾芥抄』には 604郡,江戸時代の『郡名考』では 631郡となっている。明治以降,府県のもとに編入された。
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ぐん【郡】
[古代]
律令国家の地方行政組織の一つで,国の下におかれた。〈こおり〉ともいう。中国の郡県制に淵源し,日本での初見は《日本書紀》大化2年(646)正月条の〈改新之詔〉に〈凡そ郡は四十里をもって大郡とせよ。三十里以下,四里より以上を中郡とし,三里を小郡とせよ〉とあり,このとき郡制が施行されたかのように記されているが,孝徳朝の649年(大化5)に評(こおり)制が施行されて以来,7世紀の後半を通じて国の下の行政単位が一貫して評であったことは,金石文や木簡などの当時の史料から確かめられている。
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郡
律令[りつりょう]時代の「国」の中を支配するために、さらに細かく分けられた行政区分が「郡」になります。郡にはそれぞれ「郡衙[ぐんが]」という役所が置かれました。
出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報
世界大百科事典内の郡の言及
【郡家】より
…律令制下における郡の役所。郡衙(ぐんが),郡府ともいう。…
【東国】より
…東国が畿内を中心とする国家の支配下に名実ともに組織されたのは,逆にこれ以後ということもできるのである。 東国にも東北北半を除いて国郡制が一応貫徹し,天武朝以後,伊賀以東の東海道,あるいは美濃以東の東山道を〈東国〉とする呼称が新たに用いられるようになり,三関以東は〈関東〉,関東・東北地方は〈坂東〉〈山東〉と呼ばれた。しかしすでに古墳時代,毛野(けぬ)氏などの自立的な勢力を生み出した東日本の社会は,律令国家の支配下にそのままとどまってはいなかった。…
【郡】より
…〈こおり〉ともいう。中国の郡県制に淵源し,日本での初見は《日本書紀》大化2年(646)正月条の〈改新之詔〉に〈凡そ郡は四十里をもって大郡とせよ。三十里以下,四里より以上を中郡とし,三里を小郡とせよ〉とあり,このとき郡制が施行されたかのように記されているが,孝徳朝の649年(大化5)に評(こおり)制が施行されて以来,7世紀の後半を通じて国の下の行政単位が一貫して評であったことは,金石文や木簡などの当時の史料から確かめられている。…
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