律令国家の地方行政組織の一つで,国の下におかれた。〈こおり〉ともいう。中国の郡県制に淵源し,日本での初見は《日本書紀》大化2年(646)正月条の〈改新之詔〉に〈凡そ郡は四十里をもって大郡とせよ。三十里以下,四里より以上を中郡とし,三里を小郡とせよ〉とあり,このとき郡制が施行されたかのように記されているが,孝徳朝の649年(大化5)に評(こおり)制が施行されて以来,7世紀の後半を通じて国の下の行政単位が一貫して評であったことは,金石文や木簡などの当時の史料から確かめられている。評も郡もともに〈こおり〉と読まれたらしいが,郡は評を継承しつつ701年(大宝1)の大宝令の制定とともに始まり,〈改新之詔〉はそれにもとづいて作文されたものと考えられている。令の規定では,50戸よりなる1里(のち郷と改称)で20里以下16里以上を大郡,12里以上を上郡,8里以上を中郡,4里以上を下郡,2里以上を小郡とし,各郡ごとに郡家(ぐうけ)と呼ばれる役所を置き,郡司(大領・少領・主政・主帳の四等官)が政務をとった。713年(和銅6)5月,《風土記》の撰進が命ぜられたのと同時に郡郷の名には好字が使われるようになった。郡家には政務をとる庁屋のほか,正税を収める正倉,厨房としての厨家,納屋,厩などのほか,旅舎なども置かれ,律令国家の地方行政の基礎単位として政治的・経済的に重要な役割をになった。こうした郡家の遺構としては,駿河国志太郡家址(静岡県御子ヶ谷遺跡)や常陸国新治郡家址(茨城県古郡遺跡)などがある。郡の総数は奈良時代の前半で555(《律書残篇》奈良時代),平安前期では591(《延喜式》927年)であった。9世紀から10世紀にかけては郡の分割が行われ,また10世紀以降はさらに進んで郡的な機能をもつ郷,保,別名(べちみよう)なども出現し,またこれにともない郡司の四等官制も廃され,地方行政単位の細分化と地方豪族によるその所領化が進行し,郡家も多くは廃絶して,古代国家の地方行政機関としての郡は変質をとげた。
執筆者:原 秀三郎
平安時代の中葉を過ぎる10世紀末~11世紀前半のころに郡は大きな変貌を遂げた。古代の郡が有した広範な権益は国衙(国の役所)によって吸収され,国衙官人の統治が直接的に各郡内に及ぼされることになった。旧来の郡司の地位は低下して,国衙による統治の補助的役割を果たすだけの存在となり,郡衙(郡の役所)も広範な機能を失った。そして旧来の郡域そのものも,分裂・解体の過程をたどることとなった。たとえば《和名抄》にみえる甲斐国山梨郡内の5郷が山梨東郡,5郷が山梨西郡となり,伊勢国安濃郡は安東郡と安西郡に分かれ,常陸国筑波郡も分裂して筑波北条・筑波南条となるなど,郡の分裂は東・西,南・北,あるいは上・下などに分かれることがもっとも一般的であった。また《和名抄》郡の下部単位たる郷がそのまま郡に昇格して古代の1郡のなかから数個の郡が分出することもあった。ただし,呼称は従来のままの郷名が踏襲されることが多かった。あるいはまた,院・令などと呼ばれることもあった。たとえば北陸の能登国,南九州の薩摩・大隅・日向などの諸国における院,周防国における令の存在はよく知られているし,《和名抄》の能登国羽咋(はくい)郡から羽咋正院・邑智(おうち)院・都智(つち)院・富来(とぎ)院などが分出している。このような古代の郡のアメーバ的分裂の結果,生まれてきたものが,中世の郡である。郡の分裂の背景には,農業生産力の高まり,人口の増加などの要因があったとみられる。
12世紀中葉を頂点とする荘園の設立・寄進の動向によって,郡の変貌はよりいっそう大きなものとなった。郡・郷・院など新設の郡のうち,その半数ほどが国衙の統治から離れ,荘園として寄進・立券されて,中央の貴族・寺社のもとに属することになった。この結果,諸国の公領(国衙領)は大幅に減少し,荘園は公領にほぼ匹敵する事態となった。その公領の部分にのみ郡が残存することとなったのはいうまでもない。その公領でも,別名(べつみよう)など国衙直結の行政単位が郡から新たに分離・設定されるなど,郡の地位はさらに低下した。
だが鎌倉時代に入っても,地域社会における郡の地位はそれなりの重みを失うことはなかった。鎌倉御家人は全国各地の郡を所領として給与され(郡地頭職),その統治のために郡内に政所・公文所などの役所を設けた(郡政所)。旧来の郡司がその役人として登用された場合もある。地頭だけではなく,守護もまた郡ごとに置かれることがあった。南北朝期以降の陸奥国における郡守護職などがその典型である。さらにまた守護大名・戦国大名は荘園制の枠組みをのり超えて領国の統一をはかるために,国-郡の行政機構をことさらに重視して,郡代・郡使などの役人を置いた。郡内の有力寺社は地域社会の中心として,中世に生きる人々の寄合いの場となった。南山城国一揆,近江国甲賀郡中惣などのように,郡を拠り所とする人々の集団が中央の権力にたいして独立の勢いを示すこともあった。
執筆者:入間田 宣夫
中世において大きく変貌を遂げながらも,行政単位・所領あるいは住民の地域的な結集の単位などとして生き続けた郡は,1585年(天正13)に豊臣秀吉が関白となり,古代以来の国家支配の枠組みを継承する路線をとって天下統一をすると,支配・行政の基本単位とされるに至った。91年に作製を命じた日本全国の御前帳(検地帳)と国絵図は,国郡を単位としてつくられており,豊臣政権の国郡制的国家支配の特質をよく示している。江戸幕府もそのような古代以来の国郡制を幕末に至るまで継承したのであって,郡は国とともに近世国家の行政・支配の根幹をなす単位であった。それでも,正保国絵図・郷帳までは中世的な郡名や郡域などが残されていたが,家綱政権による寛文印知(かんぶんいんち)では《延喜式》や《和名抄》などにみられる古郡名と郡域に復古した。しかしそれはかなり強引で,誤りもあったので,元禄国絵図・郷帳で再修正された。以後,元禄国絵図・郷帳で確定した郡名・郡域は,天保郷帳でもわずかな変更があっただけで,近世的郡名・郡域として固定されたのである。
執筆者:黒田 日出男
1871年(明治4)の大区・小区制の下で旧来の郡は否定されたが,78年の郡区町村編制法によって行政区画として復活し,郡役所と郡長がおかれた。郡長は官選で,府知事・県令の下にあって町村を監督し,もっぱら上命下達にたずさわった。当時郡長は警察とともに国家権力の象徴的存在とみなされ,各府県会ではしばしば郡長公選が建議された。90年の郡制公布によって郡には郡会がおかれ初めて地方自治体となったが,課税権もなく,府県知事や内務大臣の強い監督権下におかれ,自治体としては不完全であった。郡会はその3分の2の議員を各町村会が選挙し,残り3分の1は地価1万円以上の土地を所有する大地主が互選でえらぶこととされ,地主層中心の議会となった。99年に大地主議員と町村会からの複選制は廃止され,直接国税3円以上を納める者を選挙権者とし,同じく年額5円以上を納める者を被選挙権者とする改正がおこなわれた。大地主議員はプロイセンにならった制度であるが日本の実情にあわず,また複選制は町村の政争を激化するというのが改正理由であった。しかし,その後も郡は自治体として不十分であったため地方制度合理化の見地から問題視され,日露戦争以後たびたび郡制廃止が議論の対象となった。郡制廃止問題の背景には,官僚支配の牙城である郡制を維持しようとする貴族院の山県有朋系勢力と,廃止を機とし内務省内の山県閥を弱めようと策する原敬ら政友会勢力の対立があった。廃止法案は衆議院を何回か通過しながらも貴族院で流産させられ,成立したのは原敬内閣下の第44議会(1921)である。1923年4月1日郡制は廃止され,郡は純然たる行政区画となった。さらに26年7月には,地方行政整備と地方財政緊縮の見地から郡長以下の官吏が廃止され,郡役所もそれに伴って姿を消し,郡は単なる地理的名称となった。
執筆者:大島 美津子 第2次大戦後の地方制度改革を経た今日,郡は地方自治法上町村の存する区域を示す地理的単位であり,郡区域内町村が市となったときは郡の区域も自然変更される(259条)。しかし郡の選挙制度にもつ意義は小さくない。郡は公職選挙法により衆議院議員選挙と都道府県議会議員選挙の選挙区編成単位となる。前者では複数の市郡をもって一選挙区が構成され,後者では市と郡を選挙区とする。また市町村行政の実態面からみると,旧郡制時代の郡区画は依然として機能している。広域市町村圏などの市町村レベルにおける広域行政の圏域設定,府県庁の地方事務所の管轄区域などは,おおむね郡制時代の区域に対応しており,市町村間の交流も活発である。
執筆者:新藤 宗幸
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
戦国期よりみえる地名。フロイス「日本史」によれば、一五六六年(永禄九年)ドン・バルトロメオ(大村純忠)はその最も重要な城の一つ
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「こおり」とも読む。古代から現代までの地方行政区画。『日本書紀』には、646年(大化2)条の改新詔に郡の規定があり、郡が行政区画として定められたとされてきた。しかし、木簡(もっかん)などの史料から、このとき定められたのは評(ひょう/こおり)であることが明らかになった。
郡が定められたのは、8世紀初頭制定の大宝律令(たいほうりつりょう)であった。律令制では、郡は、国の下にあって里(1里=50戸)を包括し、里の数によって、大(16~20里)、上(12里以上)、中(8里以上)、下(4里以上)、小(2里以上)の5等に分けられた。郡司には、旧国造(くにのみやつこ)層をはじめとする在地首長が任命され、口分田(くぶんでん)の班給が郡規模の広さで行われるのを原則とし、調庸物の合成が郡を単位に認められていたことなど、郡は、郡司の体現する伝統的支配と密接な関連をもって設定された、律令制支配の基礎となる行政区画であった。10世紀以降、郡司の支配の変質、荘(しょう)などの増加によって、地域名化していった。その後、16世紀の太閤(たいこう)検地によって、郡は諸村を統轄するものとされ、江戸幕府も郡名の復旧に務めた。1878年(明治11)郡区町村編制法によって、府県の下位の行政単位とされ、郡役所が置かれた。1921年(大正10)郡制の廃止が決議され、郡は行政区画としてのみ存続している。
[大町 健]
「こおり」とも。律令地方制度上の国の下の行政区分。浄御原(きよみはら)令制までに各地に成立していた「評(こおり)」が,大宝令制の施行にともない「郡(こおり)」と改称されてうけつがれた。所属する里の数によって大・上・中・下・小の5等級にわけられ,その等級に応じて在地の有力者から任じられる郡司の員数が定められた。大宝令施行後も地方への律令制度の浸透により,交通状況や帰化人の移配,蝦夷(えみし)・隼人(はやと)の服属など,在地の実情に即した郡の新置や統廃合が行われた。地方行政の末端にあって在地で民衆を動員できた郡司の力や,地方行政の運営を支える財源となった郡稲の存在など,郡は初期の律令国家の地方支配の基盤であった。やがて律令国家の地方行政の機能が国に集中するようになって以後,平安時代中頃からは荘園公領制の広がりによって制度的に変質し,行政区分としての機能をはたさなくなったが,その後も地域区分の名称としては存続し,中世・近世を通して国の下の単位とされた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…〈こおり〉ともいう。中国の郡県制に淵源し,日本での初見は《日本書紀》大化2年(646)正月条の〈改新之詔〉に〈凡そ郡は四十里をもって大郡とせよ。三十里以下,四里より以上を中郡とし,三里を小郡とせよ〉とあり,このとき郡制が施行されたかのように記されているが,孝徳朝の649年(大化5)に評(こおり)制が施行されて以来,7世紀の後半を通じて国の下の行政単位が一貫して評であったことは,金石文や木簡などの当時の史料から確かめられている。…
…律令制下における郡の役所。郡衙(ぐんが),郡府ともいう。…
…東国が畿内を中心とする国家の支配下に名実ともに組織されたのは,逆にこれ以後ということもできるのである。 東国にも東北北半を除いて国郡制が一応貫徹し,天武朝以後,伊賀以東の東海道,あるいは美濃以東の東山道を〈東国〉とする呼称が新たに用いられるようになり,三関以東は〈関東〉,関東・東北地方は〈坂東〉〈山東〉と呼ばれた。しかしすでに古墳時代,毛野(けぬ)氏などの自立的な勢力を生み出した東日本の社会は,律令国家の支配下にそのままとどまってはいなかった。…
※「郡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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