浄土教美術 (じょうどきょうびじゅつ)
浄土思想(浄土教)にもとづいて制作される仏教美術。大乗仏教では釈迦如来のほかにも多くの如来が現れるが,それらの如来はみずからの理想の国土〈浄土〉を建設することを自己の目標とした。このような思想を説く経典を浄土経典と呼び,すでに1世紀ごろには阿閦(あしゆく)如来とその仏国土〈妙喜浄土〉が説かれるが,やや遅れて阿弥陀如来とその仏国土〈極楽浄土〉を説く経典が現れた。このほかにも種々の浄土が存在するが,その中では弥勒菩薩の居所〈兜率天(とそつてん)〉や観音菩薩の居所〈補陀落山(ふだらくせん)〉などが著名であり,これらにまつわる美術も少なくない。しかしここでは浄土教美術として最も隆盛をきわめた阿弥陀如来に関する浄土教美術を中心に述べる。
中国
中国や日本において最も重用された阿弥陀の浄土を説く基本経典には《無量寿経》(通称大経),《阿弥陀経》(小経),《観無量寿経》(観経)のいわゆる浄土三部経がある。このうち前2経は2世紀末ごろのインド撰述経で,このころにはインドにおいて阿弥陀浄土信仰が成立していたものとみられるが,この当時の阿弥陀如来の遺品は確認されていない。インドに成立した浄土信仰は中央アジアに入って繁栄し,遅くとも5世紀初めには中央アジアの一隅において《観無量寿経》が成立したと推定される。中国での前記浄土2経の翻訳はすでに2世紀にさかのぼるが,阿弥陀如来の造像は記録上では4世紀をさかのぼりえない。しかし浄土信仰の台頭は5世紀初めの慧遠(えおん)による結社念仏をもって嚆矢(こうし)とし,6世紀以降北魏に曇鸞(どんらん),隋・唐期に道綽(どうしやく),善導が現れて中国浄土教の最盛期を迎えた。6世紀初めには竜門石窟において無量寿仏の名で阿弥陀如来が造立され,同じころから阿弥陀三尊や阿弥陀浄土を表す〈西方極楽浄土変〉(変相図)が作られるようになった。浄土信仰の最盛期を迎えた唐代には多くの浄土変が作られ,《歴代名画記》には長安や洛陽の寺院の壁画に多くの浄土変の存在が記録されている。また善導は浄土信仰の基本的教義書《観無量寿経疏》《観念法門》などを著したほか,生前に300幅もの浄土変を作ったという。しかしこれらの遺品は中原にはなく,西辺の敦煌莫高窟の壁画によってその盛況をうかがいうるにすぎない。現在同地には隋から宋にいたるおびただしい数の浄土変があり,その変遷を展望することができる。その初期のものは阿弥陀三尊および諸菩薩をめぐらす点は他に異ならないが,その後方に極楽宮の宝楼閣を描かない(332洞)。しかししだいに複雑さを増し宝楼閣や舞楽会が加えられ(220洞),8世紀以降には画面の周囲に《観無量寿経》の教説を描き加えたいわゆる〈観無量寿経変〉(観経変)が完成する(321洞,172洞,148洞,217洞)。これらの中には善導の《観無量寿経疏》に依拠するものがあり,やがて海を渡って日本の《当麻曼荼羅》へと受けつがれた。敦煌にはこのほかに釈迦,薬師,弥勒などの浄土も少なからず描かれた。
日本
日本における浄土経典の受容は仏教伝来にやや遅れ,阿弥陀如来や浄土変の造立は8世紀初めごろから本格化した。早期のものには法隆寺金堂壁画(6号壁)や法隆寺橘夫人念持仏などがある。その後,奈良後期には唐代浄土教の影響を受けて浄土変の制作が盛んになり,代表的観経変である綴織(つづれおり)の《当麻曼荼羅》が作られた。平安時代の初め中国よりもたらされた天台教学の中には,阿弥陀如来をめぐって行道する〈常行三昧〉という行法があり,天台第三祖円仁はこれに曲調のある五台山念仏を加味したので,天台宗の中に浄土信仰の色彩の強い不断念仏が栄えた。10世紀には空也によって庶民の間に浄土信仰が醸成される一方,貴族の間には不断念仏と法華経信仰の併修が流行する。
985年(寛和1)源信の撰述した《往生要集》は,現世をいとい来世に往生する手段として阿弥陀如来を念仏する五つの方法や臨終時の作法を説いたが,その中でも最も重視されたのは阿弥陀を観想する法と臨終時に来迎(らいごう)を祈念する法であったとみられる。以後浄土信仰は急速に貴族社会に滲透したが,その際,前者からは定印阿弥陀仏と阿弥陀堂建築が成立し,後者からは迎講(むかえこう),阿弥陀来迎図が生まれる。阿弥陀堂の代表的遺構は11世紀建立の平等院鳳凰堂,法界寺阿弥陀堂,白水阿弥陀堂などであり,葬堂に用いられている中尊寺金色堂も同類である。本尊はいずれも密教系の定印を結ぶ阿弥陀如来である。なお,平等院鳳凰堂は当代の名工定朝作の阿弥陀如来を本尊に,その周囲の扉や壁には観経の説く〈九品来迎図〉や〈日想観〉を描き,周囲の長押(なげし)に雲中供養菩薩をめぐらす。阿弥陀来迎図は源信の発案になると伝えるが,遺品は高野山の《阿弥陀聖衆来迎図》をはじめ,三千院の来迎阿弥陀三尊像などおおむね12世紀以降に隆盛を迎え,鎌倉時代にも知恩院の《阿弥陀二十五菩薩来迎図》や,禅林寺,金戒光明寺の《山越阿弥陀図》などに引き継がれる。このほか平安後期には観経の九品来迎に対応するものとして〈九体阿弥陀像〉が発案されたが,その遺構は浄瑠璃寺にみられる。他方,《往生要集》所説の現世厭離(おんり)の思想は欣求(ごんぐ)浄土を強調する反面,六道輪廻の苦悩や無常を力説し,その中では仏説による地獄や餓鬼の情景描写が注目され,《地獄変屛風》をはじめとして,鎌倉時代には《地獄草紙》《餓鬼草紙》,聖衆来迎寺の《六道絵》などが現れた。このような絵画は浄土信仰の逆説的表現としてきわめて重要な役割を担った。しかも,このような深い現実直視から生まれた鎌倉時代の浄土信仰は法然や親鸞らによって思想的に高められ,民衆の篤い信仰を集めたが,宗教の純粋性に反比例して芸術性は低下するにいたった。ただ信仰の指標として六字名号とともに祖師像が重んぜられ,また祖師の業績を描いた《法然上人絵伝》《親鸞上人絵伝》《一遍聖絵》などのすぐれた絵巻類が多作された。
執筆者:浜田 隆
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浄土教美術
じょうどきょうびじゅつ
浄土教(浄土思想)に基づいて造形された美術。狭義には阿弥陀(あみだ)浄土の関連作品に限られるが、広義では阿弥陀以外の諸仏・菩薩(ぼさつ)の浄土を表現したものも含まれ、数ある仏教美術のなかでももっとも多彩な分野である。
大乗仏教では、さまざまな如来(にょらい)仏がそれぞれの仏国土、すなわち浄土をもつと説かれ、その浄土への往生を願う信仰が展開した結果、此岸(しがん)から彼岸(ひがん)へ渡るという、もっとも大乗的な教義が成立した。釈迦(しゃか)の座(いま)す霊山(りょうぜん)浄土、薬師(やくし)の瑠璃光(るりこう)浄土、弥勒(みろく)の兜率天(とそつてん)浄土などがあるが、とりわけ阿弥陀の西方極楽浄土が説かれると、欣求(ごんぐ)浄土の信仰を発達させ、阿弥陀中心の造形作品が現れ、その浄土を表現する浄土変が制作されて中国・日本において多様な浄土教美術が盛行した。
中国では六朝(りくちょう)時代から浄土信仰が台頭し、阿弥陀浄土を説く『無量寿経(むりょうじゅきょう)』(大経)、『阿弥陀経』(小経)、『観無量寿経』(観経)の浄土三部経が重要視されていたが、唐代に至り、善導(ぜんどう)(613―681)によって『観無量寿経疏(しょ)』が著され、阿弥陀信仰が大成した。その教化活動には善導自身、300幅に及ぶ阿弥陀浄土変をつくったと伝え、浄土変の流行が知られる。遺品をあげると、6世紀初めの竜門石窟(りゅうもんせっくつ)に無量寿仏(阿弥陀)の造立がみられ、その源流をたどることができるが、敦煌莫高窟(とんこうばっこうくつ)の壁画には隋(ずい)から宋(そう)に至るおびただしい数の浄土変が現存する。初期のものは、阿弥陀と観音(かんのん)・勢至の二脇侍(きょうじ)を中心に諸菩薩を配した単純な群像表現だが、唐代の浄土変は、浄土の楼閣や宝池、曼荼羅華(まんだらげ)、天人の楽舞などが加わり、多彩で複雑な形式をもち、なかには善導の教説による観経変と判断できるものもあって、日本の浄土変の原型がみいだせる。『歴代名画記』などの記録によると、長安や洛陽(らくよう)にはとりわけ優秀な浄土変の多かったことも知られ、その一部がわが国に将来され、新たな展開が始まった。
日本においては飛鳥(あすか)時代の小金銅仏に阿弥陀の初期造像例がみられるが、中宮寺の『天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)』は聖徳太子の菩提(ぼだい)供養のためという伝えがあり、わが国最古の浄土変と考えられる。奈良時代に入ると、唐代美術に強く影響された作品が出現する。法隆寺金堂壁画は、四方に釈迦、薬師、弥勒、観音などの仏菩薩を配することで金堂の内部を浄土のように荘厳(しょうごん)するが、とりわけ6号壁の阿弥陀浄土は秀麗である。将来された仏画をそのまま模したと思われる浄土変は文献で確認できるが、遺品としては『智光(ちこう)曼荼羅』『當麻(たいま)曼荼羅』『清海(せいかい)曼荼羅』の浄土三曼荼羅がある。曼荼羅の称は平安後期以後の命名で、いずれも阿弥陀三尊を中心に極楽浄土の情景を描写した浄土変である。當麻寺の『綴織(つづれおり)當麻曼荼羅図』は浄土変の左右と下縁に序分義の観経六縁、定善(しょうぜん)義の十三想観、散善義の九品(くほん)往生図を配すので、善導の観経疏による唐代作品の写しと知られ、代表的な浄土教美術として後世に至るまで多数の模本がつくられた。
平安時代に入ると天台、真言の両宗がおこり、浄土教にも強い影響を与える。比叡山(ひえいざん)に方三間の常行三昧堂(じょうぎょうさんまいどう)が円仁(えんにん)によって建立されたが、これは阿弥陀をめぐって行道(ぎょうどう)する常行三昧を行う堂で、その四周の壁には九品往生図が描かれた。この堂が祖型になって、1053年(天喜1)の平等院鳳凰堂(ほうおうどう)や中尊寺金色堂など、ほぼ同形式の阿弥陀堂建築がこの世の浄土の楼閣のように建立された。他方、真言密教からは、膝上に両手の大頭指を結んだ定印(じょういん)の阿弥陀が出現し、天台系の浄土教にも相互に交渉があった。985年(寛和1)に天台僧源信(げんしん)が撰(せん)した『往生要集』は欣求浄土厭離穢土(おんりえど)によって、阿弥陀を観想する法と臨終における来迎を祈念する法を説き、末法第一年とされた1052年(永承7)を境に浄土信仰は急速に浸透した。その結果、平等院像のような観想のための定印阿弥陀と、高野山(こうやさん)の『阿弥陀聖衆来迎図(しょうじゅうらいごうず)』などの来迎印阿弥陀が流行し、善美を尽くした作品が多くつくられている。
鎌倉時代になると、阿弥陀信仰の高揚から知恩院の『阿弥陀二十五菩薩来迎図』(早来迎(はやらいごう))や禅林寺の『山越(やまごし)阿弥陀』などのように、来迎の速度や臨場感、現実感を伴ったさまざまな形式がみられる。また、浄土への希求とは逆説的に『地獄草紙』『餓鬼草紙』などの六道絵(りくどうえ)も出現した。これらは奈良・平安の浄土教に加えて法然(ほうねん)、親鸞(しんらん)の新仏教が加わり、浄土思想自体が多様性をもったためで、浄土教美術も熟成され、日本的特徴を示すに至った。
[川村知行]
『大串純夫著『来迎芸術論』(1983・法蔵館)』▽『浜田隆著『極楽への憧憬』(1975・美術出版社)』
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浄土教美術
じょうどきょうびじゅつ
仏教的理想世界としての浄土の教説に基づいて展開した,各種の浄土信仰に伴う造形美術一般をいう。大乗仏教は阿弥陀仏の極楽浄土,薬師仏の浄瑠璃世界,弥勒 (みろく) 仏の兜率 (とそつ) 天浄土などのような多くの仏国土,すなわち浄土を説いたが,なかでも深く人の心をとらえたのは,阿弥陀仏とその西方極楽浄土であり,特に中国,日本で教義的に整備発展して広く普及し,浄土教美術といえば大部分は阿弥陀仏関係のものをさす。中国では特に唐代において阿弥陀三尊の造像や,各種の阿弥陀浄土変相の制作が盛行し,これに伴って他仏の浄土変相も多く生み出された。また日本では奈良時代の法隆寺金堂壁画の『四仏浄土図』,『当麻 (たいま) 曼荼羅』『智光曼荼羅』のような浄土変相図の伝来ないし制作などに,唐代浄土教美術を積極的に取入れたありさまがうかがわれる。平安時代に源信が『往生要集』を著わし,極楽往生思想を説くなど,浄土教信仰は王朝貴族を中心に著しい隆盛をみた。変転きわまりない無常の現世からの離脱の願いを,来世の極楽浄土における阿弥陀の救済に託した貴族たちは,きそって阿弥陀堂を建立し,丈六阿弥陀像を祀り,壁や扉に浄土変相図や九品 (くぼん) 来迎図を描くなど,浄土教美術は造形美術の各部門にわたって総合的にめざましい展開を示した。平等院鳳凰堂はその代表的な遺例である。平安時代後期は浄土教美術の最盛期で,往生思想の流行とともに,来迎相の阿弥陀仏,阿弥陀三尊像や,阿弥陀聖衆来迎図なども盛んに制作され,一方,六道の醜悪,悲惨な世界が経説に基づいてリアルに描かれた (→六道絵 ) 。次いで鎌倉時代には新宗派が相次いで生れ,この易行の浄土教信仰を広く民衆に浸透させた。浄土教関係の仏像,仏画もまた大衆化,多様化の傾向をみせ,なかでも絵画では阿弥陀三尊来迎図,阿弥陀二十五菩薩来迎図をはじめ山越阿弥陀図,二河白道図など各種の図様が多く生み出された。なお浄土教の盛行に伴い弥勒,観音などの浄土図や来迎図も描かれ,また地獄の救主地蔵や十王の造像,作画も行われた。
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浄土教美術【じょうどきょうびじゅつ】
浄土信仰に基づく仏教美術。日本では平安〜鎌倉時代に密教美術に匹敵する大きな位置を占めた。貴族たちは財力を投入して阿弥陀堂を各地に建立,本尊として慈愛に満ちた阿弥陀如来像を安置して極楽往生を祈願した。特に仏師定朝(じょうちょう)のつくる阿弥陀像の相好は貴族たちに受け入れられ,定朝様式は平安後期の彫刻界を風靡(ふうび)した。また浄土世界を求めて,浄土図,来迎(らいごう)図が屏風(びょうぶ)や掛幅,堂内の四壁に描かれ,平等院鳳凰(ほうおう)堂の壁画,高野山の《阿弥陀聖衆来迎図》等多くの傑作が生まれた。同じ思想から,破戒者の陥る地獄の姿を絵画化した地獄絵,六道絵が掛幅や絵巻としてつくられ,浄土思想の普及をたすけた。→浄土教
→関連項目国風文化|十界図|浄土変|当麻曼荼羅|山越阿弥陀図
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浄土教美術
じょうどきょうびじゅつ
浄土教の信仰にともなって制作された仏教美術。種々の仏菩薩とその浄土への往生が希求されたが,平安時代以降,浄土教はふつう阿弥陀如来とその極楽浄土への往生を願う信仰をさした。阿弥陀如来をはじめとする造像,極楽浄土への賛仰から阿弥陀堂建築・浄土庭園・浄土変相,極楽往生への欣求(ごんぐ)から九品来迎図などの来迎美術,また現世を穢土(えど)とみて輪廻(りんね)からの解脱を勧める六道(ろくどう)絵・十界(じっかい)図・二河白道(にがびゃくどう)図などの造形が行われた。唐代浄土教の影響をうけて奈良時代から浄土図などが描かれたが,浄土教美術は平安中期以降盛んになり,平安後期に最も活況を呈した。鎌倉時代にはより一般に流布したが,造形的には類型化した作品を多作したにとどまった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の浄土教美術の言及
【仏画】より
…《当麻曼荼羅》下縁の九品来迎が平安時代の浄土教の発達に伴い独立した九品来迎図のほかに,《阿弥陀二十五菩薩来迎図》《阿弥陀三尊来迎図》《山越阿弥陀図》が描かれ,鎌倉時代になると,弥勒,十一面,地蔵などの[来迎図]も現れる。また《二河白道図(にかびやくどうず)》や地獄,餓鬼などの[六道絵]や十王図が盛行する([浄土教美術])。(3)顕教画 大乗仏教の発達につれて,大乗経典による変相以外に,多数の如来や菩薩が出現し,薬師,盧舎那仏などの如来,聖観音や千手,如意輪などの変化観音,文殊,普賢,弥勒などの諸菩薩や,梵天,帝釈,四天王などの天部画像も描かれる。…
【平安時代美術】より
…なお和歌山有志八幡講十八箇院の五大力菩薩中の3幅は9世紀風の尊像表現の残るこのころの大作として忘れることはできない。 10世紀はまた叡山に発する浄土教美術の発展期である。まず951年ころ空也が都に建てた西光寺の旧仏と伝える十一面観音立像等(六波羅蜜寺)をあげるべきであろう。…
※「浄土教美術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」