妙喜庵(読み)みょうきあん

精選版 日本国語大辞典 「妙喜庵」の意味・読み・例文・類語

みょうき‐あん メウキ‥【妙喜庵】

京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町にある臨済宗東福寺派の寺。山号は豊興山。明応年間(一四九二‐一五〇一)春嶽士芳が創建。もと山崎宗鑑庵室で、天正一〇年(一五八二豊臣秀吉千利休津田宗及今井宗久らと茶会を催した。利休趣向で造られた茶室待庵(たいあん)は国宝。

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デジタル大辞泉 「妙喜庵」の意味・読み・例文・類語

みょうき‐あん〔メウキ‐〕【妙喜庵】

京都府乙訓おとくに郡大山崎町にある臨済宗東福寺派の寺。山号は、豊興山。明応年間(1492~1501)ごろ、山崎宗鑑が結んだ待月庵が、のち、禅院となったもの。豊臣秀吉千利休に建てさせたと伝えられる茶室、待庵たいあんは国宝。

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日本歴史地名大系 「妙喜庵」の解説

妙喜庵
みようきあん

[現在地名]大山崎町大山崎

離宮りきゆう八幡宮の東にある。臨済宗東福寺派。豊興山と号し、本尊聖観音。明応年中(一四九二―一五〇一)春嶽士芳が東福とうふく荘厳しようごん(現京都市東山区)末として開創したと伝えるが、文明年間(一四六九―八七)開基ともいう。西側には、延文二年(一三五七)東福寺荘厳門派の友山士偲が開創した正続山地蔵寺があり、清源せいげん庵・景陽けいよう庵・円通えんつう庵・宝珠ほうじゆ庵・正法しようぼう庵・金蔵こんぞう寺・永福えいふく寺などがその末寺として天王てんのう山山麓南東側にあった。妙喜庵も同じ門派であるから、地蔵寺末の一庵として創建されたものであろう。妙喜庵は、連歌師山崎宗鑑の草庵を寺にしたとの説もあるが、確証はない。

妙喜庵三世功叔士紡は茶人としても名があり、天正八年(一五八〇)一一月二七日にはさかい(現大阪府堺市)の宮内卿法印(松井友閑)のもとで、銭屋宗訥・津田宗及とともに茶会に出、翌年四月七日には妙喜庵で道是・津田宗及をよんで茶会を開き、霰釜にこふくら茶碗を用い、床の後に茶四斤ばかり入る真壺の大壺を置いていた(宗及他会記)。功叔は千宗易(利休)と親交があり、宗易はたびたび妙喜庵を訪れた。功叔宛の宗易書状(妙喜庵蔵)は十数通に達する。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「妙喜庵」の意味・わかりやすい解説

妙喜庵
みょうきあん

京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町にある禅寺。臨済宗東福寺派に属し、豊興山と号す。明応(めいおう)年間(1492~1501)春嶽士芳(しゅんがくしほう)の開創と伝えられる。士芳は、天王山南麓(なんろく)にあった東福寺末地蔵(じぞう)寺の僧で、当時付近には同寺の塔頭(たっちゅう)が多数あり、妙喜庵もその一つとして創立されたとみられる。連歌(れんが)師山崎宗鑑(そうかん)が当庵に身を寄せたのはこれより後のことであろう。文明(ぶんめい)年間(1469~87)開創とも伝えられるが不詳。3世功叔士紡(こうしゅくしぼう)は茶人として知られ、津田宗及(そうきゅう)、千利休(せんのりきゅう)ら堺(さかい)の茶人と親交があった。1582年(天正10)6月の山崎合戦のあと、豊臣(とよとみ)秀吉は天王山に築城、妙喜庵は城下の「会所」として接客に用いられている。江戸時代の妙喜庵は、離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)の社領内に4石余と円明寺村に44石を領していたが、幕末には衰微し、また明治に入っては、鉄道の敷設や駅舎の建設に伴い、寺地を削られた。書院は文明年間の建築で国の重要文化財、茶室待庵(たいあん)は国宝に指定されている。

[日向 進]

『吉川一郎著『大山崎史叢考』(1953・創元社)』

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改訂新版 世界大百科事典 「妙喜庵」の意味・わかりやすい解説

妙喜庵 (みょうきあん)

京都府下山崎の天王山のふもとにあり,臨済宗東福寺の末で豊興山と号する。開創は,明応年間(1492-1501)とも文明年間(1469-87)とも伝えられる。連歌師山崎宗鑑の草庵を寺にしたともいうが,確かでない。室町時代,文明年間の書院(重要文化財)と千利休作と伝える茶室待庵(国宝)があることで知られる。3世住職功叔(?-1594)は茶人として知られ,堺の茶人津田宗及らを招いて茶会を開いていた。彼はまた利休と親交があり,山崎に屋敷を持っていた利休はたびたび妙喜庵を訪れ,功叔あての利休書状も十数通残されている。1582年(天正10)6月の山崎合戦のあと,山崎城を本拠とした羽柴秀吉は妙喜庵を接客施設としてしばしば利用している。このころ秀吉は利休,宗及,今井宗久,山上宗二らを招いて茶会を催したことが記録されているが,それが妙喜庵においてであったかどうかについては確証がない。待庵の造立の事情は明らかでないが,利休好みと信じ得る唯一の遺構である。天正10年ころに山崎の利休屋敷に建てられていた茶室がのちに妙喜庵に移されたものであろう。
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百科事典マイペディア 「妙喜庵」の意味・わかりやすい解説

妙喜庵【みょうきあん】

京都府大山崎町にある臨済宗東福寺派の寺で,茶室待庵(国宝)がある。山崎宗鑑草庵であったともいわれる。待庵は千利休の作と信じ得る唯一の遺構で,荒壁に囲まれた2畳の茶室。躙(にじり)口前の飛石も当時のままを伝えるとされ,狭い空間を鋭い造形手法で緊密に処理している。
→関連項目大山崎[町]如庵

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「妙喜庵」の意味・わかりやすい解説

妙喜庵
みょうきあん

京都府大山崎町にある臨済宗東福寺派の寺。俳人山崎宗鑑が室町時代に結んだ草庵を,のちに禅寺に改めたものといわれる。国宝の茶室待庵は,豊臣秀吉が千利休につくらせたものと伝えられ,桃山時代の千流茶室の典型。茶室 (2畳) ,次の間 (1畳板畳付) ,勝手の間により構成され,切妻造 (きりづまづくり) ,柿 (こけら) ぶき竿縁 (さおぶち) 天井がみられる。なお待庵は書院,明月堂に付加されたもので,書院は室町末期の風雅を残す傑作として,重要文化財に指定されている。

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家とインテリアの用語がわかる辞典 「妙喜庵」の解説

みょうきあん【妙喜庵】

京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町にある臨済宗東福寺派の寺。明応年間(1492~1501)に春嶽士芳(しゅんがくしほう)の開創と伝わる。境内に千利休(せんのりきゅう)の茶室として名高い国宝の待庵(たいあん)がある。

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