妙喜庵三世功叔士紡は茶人としても名があり、天正八年(一五八〇)一一月二七日には
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町にある禅寺。臨済宗東福寺派に属し、豊興山と号す。明応(めいおう)年間(1492~1501)春嶽士芳(しゅんがくしほう)の開創と伝えられる。士芳は、天王山南麓(なんろく)にあった東福寺末地蔵(じぞう)寺の僧で、当時付近には同寺の塔頭(たっちゅう)が多数あり、妙喜庵もその一つとして創立されたとみられる。連歌(れんが)師山崎宗鑑(そうかん)が当庵に身を寄せたのはこれより後のことであろう。文明(ぶんめい)年間(1469~87)開創とも伝えられるが不詳。3世功叔士紡(こうしゅくしぼう)は茶人として知られ、津田宗及(そうきゅう)、千利休(せんのりきゅう)ら堺(さかい)の茶人と親交があった。1582年(天正10)6月の山崎合戦のあと、豊臣(とよとみ)秀吉は天王山に築城、妙喜庵は城下の「会所」として接客に用いられている。江戸時代の妙喜庵は、離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)の社領内に4石余と円明寺村に44石を領していたが、幕末には衰微し、また明治に入っては、鉄道の敷設や駅舎の建設に伴い、寺地を削られた。書院は文明年間の建築で国の重要文化財、茶室待庵(たいあん)は国宝に指定されている。
[日向 進]
『吉川一郎著『大山崎史叢考』(1953・創元社)』
京都府下山崎の天王山のふもとにあり,臨済宗東福寺の末で豊興山と号する。開創は,明応年間(1492-1501)とも文明年間(1469-87)とも伝えられる。連歌師山崎宗鑑の草庵を寺にしたともいうが,確かでない。室町時代,文明年間の書院(重要文化財)と千利休作と伝える茶室待庵(国宝)があることで知られる。3世住職功叔(?-1594)は茶人として知られ,堺の茶人津田宗及らを招いて茶会を開いていた。彼はまた利休と親交があり,山崎に屋敷を持っていた利休はたびたび妙喜庵を訪れ,功叔あての利休書状も十数通残されている。1582年(天正10)6月の山崎合戦のあと,山崎城を本拠とした羽柴秀吉は妙喜庵を接客施設としてしばしば利用している。このころ秀吉は利休,宗及,今井宗久,山上宗二らを招いて茶会を催したことが記録されているが,それが妙喜庵においてであったかどうかについては確証がない。待庵の造立の事情は明らかでないが,利休好みと信じ得る唯一の遺構である。天正10年ころに山崎の利休屋敷に建てられていた茶室がのちに妙喜庵に移されたものであろう。
執筆者:日向 進
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