宝積寺(読み)ホウシャクジ

デジタル大辞泉 「宝積寺」の意味・読み・例文・類語

ほうしゃく‐じ【宝積寺】

京都府乙訓おとくに大山崎町にある真言宗智山派の寺。山号は、天王山。神亀4年(727)聖武天皇の勅願により、行基の開創と伝える。板絵着色神像などを蔵する。通称、宝寺たからでら

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精選版 日本国語大辞典 「宝積寺」の意味・読み・例文・類語

ほうしゃく‐じ【宝積寺】

京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町にある真言宗智山派の寺。山号は天王山(古くは補陀落山)。神亀四年(七二七)行基が創建。豊臣秀吉が山崎合戦の時、陣屋とした。福神信仰で知られる。宝寺(たからでら)

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日本歴史地名大系 「宝積寺」の解説

宝積寺
ほうしやくじ

[現在地名]大山崎町大山崎 銭原

天王てんのう山南斜面の中腹にあり、眼下によど川、その向うにおとこ山を見はるかす景勝の地にある。真言宗智山派。天王山と号し、本尊木造十一面観音立像(国指定重要文化財)。山号は古く補陀洛山、江戸時代以降銭原山と称し、寺号も平安時代以来たから寺と通称される。

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔行基開創伝承〕

江戸時代初期につくられた縁起によれば、神亀年中(七二四―七二九)聖武天皇の勅願により行基が開基したとする。「行基年譜」天平一三年(七四一)記には神亀二年九月一二日より乙訓おとくに山崎やまさき郷に山崎橋架橋のことがみえ、天平三年記には「山埼院 在同国乙訓郡山前郷無水河側」と記されている。ただし「続日本紀」宝亀四年(七七三)一一月二〇日条には「河内国山埼院」とあり、行基の乙訓郡山崎での架橋や造寺のことはみえない。しかし近傍には山崎廃寺の遺跡もあり、行基の開基説はあながちに無理な付会ではなく、平安時代後期の「伊呂波字類抄」にも「宝山寺宝寺 宝積寺同寺之異名歟、山崎橋辺、西願寺北、天平年中行基菩薩造之寺歟」とある。

〔宝寺〕

一方、宝寺の寺名の初見は、一二世紀初頭には成立していた「続本朝往生伝」で、長保五年(一〇〇三)入宋した寂照(大江定基)が、渡宋直前に宝寺で法華八講を修したことを次のように述べる。

<資料は省略されています>

当時山崎は賑やかな津になっていたが、当寺の信仰の盛んなさまが知られる。「伊呂波字類抄」が、宝山寺の異名も併せて採録したのもそのせいであろう。前掲縁起では寂照を中興の祖としている。寂照は中国で没したが、天台宗のほか真言宗も受けており、当寺が真言宗である素地はこの時に始まるとも考えられ、また鎌倉―室町時代に八講田・八講料・八講僧膳料などの寄進も行われ(京都大学文学部蔵「古文書集」)、法華八講はその後も重要な年中行事として続けられた。

宝積寺
ほうしやくじ

[現在地名]甘楽町轟

じゆれい山の北腹にある。鷲山と号し、曹洞宗。本尊は阿弥陀如来。延慶元年(一三〇八)律宗寺院として開闢、宝徳二年(一四五〇)小幡実高が菩提所と定め即庵宗覚を請じ禅宗に改め堂宇を建立したと伝える。明和六年(一七六九)の由緒書などによると永禄六年(一五六三)小幡氏一族の内乱で境内でも合戦が行われ、一〇世魯岳をはじめ大衆六〇人が戦死、堂宇は残らず焼失し、一四世石室が再興したという。小幡藩主として入部した織田信良が一時菩提寺と定める。慶安元年(一六四八)朱印地三〇石を給される(寛文朱印留)。盛時には末寺一〇〇余ヵ寺、近末塔司一六ヵ寺、門前百姓三〇軒があったが、その後境内も荒れ寺庵も名ばかりが残り、門前百姓も七、八軒になったという(由緒書)

宝積寺
ほうしやくじ

[現在地名]新発田市上三光 円満

上三光かみさんこうの西南部、字円満えんまんにあり、曹洞宗、山号は金滝山、本尊聖観音。承和一三年(八四六)創建と伝え、はじめは真言宗で新城しんじよう山下にあったが、文明二年(一四七〇)竹俣氏が現在地に移し、耕雲こううん(現村上市)五世徳嶽宗欽を招いて曹洞宗に改め、自らの菩提寺としたという。寺地は広大で、堀をめぐらし土居を築いた、戦国期の居館ともみられる構えであったことが周辺の土地の状況からうかがわれる。

宝積寺
ほうしやくじ

[現在地名]会津若松市花見ヶ丘三丁目

小田おだ山北麓にあり、如意山と号し、曹洞宗。本尊如意輪観音。縁起によれば、康暦元年(一三七九)蘆名直盛が会津に来て建立したという。「宝積寺殿金峯尊公大姉」と記された位牌があり、蘆名盛員の子高盛の室笹谷御前のものと伝える。天正一七年(一五八九)伊達政宗の会津侵入の際、住持が逐電したため、蒲生氏郷は臨済僧陽春を入れた。慶長六年(一六〇一)蒲生秀行が入部し、黙岑を住持とし、この時再び曹洞宗となる。秀行の室陽寿院の崇敬が厚かったという。

宝積寺
ほうしやくじ

[現在地名]山形村小坂

清水きよみず寺の北東の登山口にあり、清水寺の里寺であったと思われる。山号は仏国山。現在は曹洞宗であるが、もとは真言宗であった。

寺伝によると、聖武天皇の天平五年(七三三)僧行基の開基で仏国山念仏ねんぶつ寺といったがのち衰微したとされている。天正一〇年(一五八二)伊那箕輪みのわの城主(松本小笠原氏の幕下)藤沢頼親がこの地を分領した時中興して法借ほうしやく寺と改め、慶安二年(一六四九)筑摩郡洗馬せば村の曹洞宗長興寺の末寺となった。

宝積寺
ほうしやくじ

[現在地名]坂祝町取組

取組の村上とりくみのむらかみにある。大祥山と号し、臨済宗妙心寺派、本尊聖観音。宝徳年間(一四四九―五二)尾州犬山瑞泉ずいせん寺の雲谷が鵜沼うぬま(現各務原市)の字宝積寺に一宇を建立した。これが当寺の開創である。のち土岐美濃守の請いにより武儀むぎ谷口たにぐち(現武芸川町)汾陽ふんよう寺を建立し、雲谷は汾陽寺に入山したので、当寺も移し塔頭となる。

宝積寺
ほうしやくじ

[現在地名]葛巻町葛巻 城内小路

町のほぼ中央、国道二八一号の北側に位置し、参道に松並木が続く。天井山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。大永元年(一五二一)の建立で、開基は秀関という(管轄地誌)。葛巻氏の菩提所で、同氏が一方井いつかたい(現岩手町)転封後、寛文八年(一六六八)再興されたという。文政元年(一八一八)の葛巻村江刈村宗門書上帳(三浦文書)に禅宗宝積寺とみえ、二ヵ村二組合計人数一〇二・家数二四とみえる。

宝積寺
ほうしやくじ

[現在地名]韮崎市穂坂町三之蔵

穂坂町三之蔵ほさかまちさんのくらの三之蔵地区にある。与楽山と号し、本尊は地蔵菩薩。臨済宗妙心寺派。もともとは真言宗寺院だったというが(甲斐国志)、慶応四年(一六六八)の書上(寺記)によれば開山は三光で、その後鎌倉建長寺に属していたという。天正一〇年(一五八二)徳川家康は甲斐入国の際、当寺本尊が霊仏だというので参詣した。このとき甲府長禅ちようぜん寺の陽室が隠居して当寺へ移ったことから妙心寺派に替わったといい、近世は長禅寺の末寺であった。

宝積寺
ほうしやくじ

[現在地名]岩手町一方井 町浦

南を一方井いつかたい川が流れ、天井山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。文亀元年(一五〇一)秀関の開基という(管轄地誌)。その後元禄(一六八八―一七〇四)頃炎上し、天明年間(一七八一―八九)再建して今日に及ぶ(岩手郡誌)

宝積寺
ほうしやくじ

[現在地名]土浦市木田余

木田余きだまりの台地の中腹にある。木田山歓喜院と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。寺伝では嘉元四年(一三〇六)小田宗知の開基。初めは木田余の台地上に建立された。近世になり、土浦藩主朽木氏は木田余城跡の隠滅を防ぐため、宝積寺を城跡に移したが、明治三六年(一九〇三)に焼失し、その後現在地に再建された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「宝積寺」の意味・わかりやすい解説

宝積寺
ほうしゃくじ

京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町にある寺。真言(しんごん)宗智山(ちさん)派に属する。山号は天王山。略称宝寺(たからでら)。本尊十一面観音(かんのん)。神亀(じんき)年中(724~729)聖武(しょうむ)天皇の勅願により行基(ぎょうき)開創と伝える。1001年(長保3)寂昭(じゃくしょう)(寂照)が入宋(にっそう)前に法華八講(ほっけはっこう)を修し、藤原定家(ていか)も訪れている。本尊の胎内に、1233年(天福1)の造営関係文書や十一面観音摺仏(すりぼとけ)4840枚(国重要文化財)が納められ、前年の火災後の復興状況が知られる。鎮守社に板絵着色神像(鎌倉後期)、山門に金剛力士像2躯(く)(鎌倉時代)、閻魔(えんま)堂に閻魔王・司録・司命坐像(しめいざぞう)を安置する。また倶生(ぐせい)神・闇黒(あんこく)童子坐像(鎌倉時代。京都国立博物館寄託)などがあり、本尊十一面観音像、三重塔とともに、いずれも国重要文化財。また、1864年(元治1)会津勢と戦い敗れた真木和泉守(まきいずみのかみ)ら17名の墓がある。4月18日の厄除追儺(やくよけついな)式は「鬼くすべ」ともいわれる独特の民俗行事である。

[田村晃祐]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「宝積寺」の意味・わかりやすい解説

宝積寺
ほうしゃくじ

栃木県中部,高根沢町の中心地区。真岡 (もおか) 西台地の北部にある鍵型の地区。烏山街道沿いを中心として商圏が発達し, その周囲に住宅地が広がる。 JR東北本線が通り,烏山線が分岐する。

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世界大百科事典(旧版)内の宝積寺の言及

【高根沢[町]】より

…鬼怒川東岸に位置し,中央部を五行川,江沼川,野元川などが流れる。中心集落の宝積寺(ほうしやくじ)は1899年東北本線の駅が開設されてから発展し,1922年の烏山線開通後は周辺農村の農産物集散地となった。良質米を産する穀倉地帯で,鬼怒川沿岸の低地は釜ヶ淵用水,五行川沿岸は市ノ堀用水(1656年開削)によって灌漑される。…

※「宝積寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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