大野寺(読み)おおのじ

日本歴史地名大系 「大野寺」の解説

大野寺
おおのじ

[現在地名]市場町山野上

白坂しろさかにある。高野山真言宗。得道山灌頂院と号する。本尊大日如来御所ごしよはらに天智天皇の勅願により創建されたという所伝は別としても、阿波国で最古とされる寺院の一つであり、同様に古い開創を伝える隆禅りゆうぜん(現阿南市)とは住僧の交流があったことが記録されている。嵯峨天皇の勅により堂宇を修復し、新たに末寺一四ヵ寺が建立されたという。これは切幡きりはた寺、山野上の梵光やまのうえのぼんこう(仏殿庵)大野島の良珍おおのじまのりようちん(薬師庵)香美の平地かがみのへいじ神社境内にあった岡ノ坊、香美の南泉坊円常えんじよう(薬師庵)、香美の春日神社境内にあった永福えいふく寺、香美の宮ノ坊善入ぜんにゆう寺、香美の真福しんぷく(虚空蔵堂)尾開おばり真如堂粟島の宝幢あわじまのほうどう寺と、光福こうふく寺・実相じつそう坊・智賢ちけん(現土成町)妙幢みようどう(現吉野町)であったとされる。

大野寺
おおのでら

[現在地名]室生村大字大野

楊柳山と号し、真言宗宝生寺派。本尊は木造弥勒菩薩像であるが、現在では室生むろう川を隔てた屏風びようぶうらという大岩壁に線刻してある弥勒菩薩像のほうが実質上の本尊となっている。寺伝によると白鳳年間に役小角が開創してのち、天長元年(八二四)空海が一堂を建て慈尊院弥勒寺と称し、室生寺(現室生村)の西門ともいわれたという。明治三三年(一九〇〇)一二月の大火で伽藍のほとんどを失った。現在の本堂・鐘楼・庫裏・土蔵などはその後の再建である。本堂には鎌倉末期の木造地蔵菩薩立像(国指定重要文化財)を安置する。

大野寺
おおのじ

[現在地名]堺市土塔町

大門だいもん池の北にある。高野山真言宗。土塔山と号し、本尊は十一面観音。「行基年譜」の行基六〇歳の項に「聖武天皇四年神亀五年丁卯、大野寺在和泉国大鳥郡大野村、二月三日起、尼院同所今香琳寺歟同年」とある。年譜中の神亀五年(七二八)は四年の誤り。行基六〇歳は神亀四年にあたり(大僧正舎利瓶記)、聖武天皇四年は神亀四年である。寺歴や規模など詳細は不明だが境内に古い礎石が残り、本堂南東に土塔があり、その南方斜面を利用して築かれた池を大門池と称することから、建立当初は大規模な寺院であったと推定される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「大野寺」の意味・わかりやすい解説

大野寺
おおのでら

奈良県宇陀(うだ)市室生(むろう)区大野にある寺。楊柳山(ようりゅうざん)慈尊院弥勒寺(みろくじ)と称した。新義真言宗室生寺派に所属する。寺伝によると、681年(天武天皇10)に役小角(えんのおづぬ)が開き、824年(天長1)弘法(こうぼう)大師(空海)が開基したと伝える。宇陀川上流に位置するこの寺域は山水清冽(せいれつ)で風光に富み、寺の対岸に屹立(きつりつ)する岩壁には高さ約11.5メートルの弥勒磨崖仏(まがいぶつ)が刻まれている。この磨崖仏は、鎌倉初期、当地が興福寺の荘園(しょうえん)であったとき、僧雅縁(がえん)の発願により造顕されたと伝えられ、国の史跡となっている。寺に安置する身代り焼地蔵菩薩(ぼさつ)は国の重要文化財。シダレザクラの名所としても知られる。

[里道徳雄]

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デジタル大辞泉プラス 「大野寺」の解説

大野寺

奈良県宇陀市室生大野、宇陀川上流域にある真言宗室生寺派の寺院。「おおのじ」「おおのでら」と読む。山号は楊柳山、本尊は弥勒菩薩。寺伝では役小角(えんのおづぬ)の開山、空海の開基とされる。宇陀川の対岸に刻まれた高さ約13.8メートルの弥勒如来立像(磨崖仏)は国の史跡に指定。しだれ桜が有名。

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