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徳川13代将軍家定(いえさだ)の正室。名は篤子(あつこ)、のち敬子(すみこ)。通称篤姫。幼名は於一(おかつ)。幕府の消滅に立会い、徳川本家廃絶・江戸城武力攻略の回避に力を尽くし、明治期には徳川本家の家格・家名の維持を目ざした。父、島津忠剛(ただたけ)は島津家家臣のうち最上級とされる「一門家(四つの分家)」の一つ、今和泉(いまいずみ)島津家(石高1万3000石)5代目。幕府は11代将軍家斉(いえなり)に1789年(寛政1)嫁いだ島津重豪(しげひで)の娘茂姫(広大院)にあやかって、家定の室を島津家からめとりたいと、島津藩世子の斉彬(なりあきら)(後の11代藩主)に打診、その候補として今和泉島津家の於一が選ばれた。於一は斉彬の養女となった。さらに右大臣、近衛忠熈(ただひろ)(1808―98)の養女として、1856年(安政3)家定との婚儀が行われ、御台所(みだいどころ)となった。次期将軍に慶喜(よしのぶ)を望んだ一橋派・斉彬の懇請に従ったが、周囲に反対され実現できなかった。家定が1858年に没すると落飾して天璋院の号を得、従三位に叙せられる。その後大奥の取締りにあたる。1867年(慶応3)15代将軍慶喜が大政を奉還すると、徳川家の存続と官軍の江戸城攻め回避のため、静寛院宮(和宮)らとともに尽力した。しかし1868年7月、官軍に反発、奥羽越列藩同盟に官軍討伐を願った。その後一橋邸、紀伊藩邸、尾張藩邸、相良(さがら)藩邸と移り、徳川16代当主家達(いえさと)のいた徳川千駄ヶ谷邸で過ごし、1883年(明治16)11月20日、満47歳で没した。徳川家処分の際に位記を剥奪(はくだつ)されていたが、従三位に復し、上野の家定の墓域に埋葬された。
[三木 靖]
『松平乗昌監『天璋院』(1995・鹿児島県歴史資料センター黎明館)』▽『芳即正編『天璋院篤姫のすべて』(2007・新人物往来社)』
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(久保貴子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
…幕府をこれまでどおりに運営すればいいと考える譜代大名の多くが紀州派に集まった。大奥も水戸の斉昭に対する反感から紀州派に傾き,島津斉彬の手で家定の室として送りこまれた篤姫(天璋院)は,苦しい立場に置かれた。家定の継嗣問題は,日米修好通商条約の締結がからんだため,一段と激烈で複雑な政争となった。…
※「天璋院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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