宮本武蔵(剣術家)(読み)みやもとむさし

日本大百科全書(ニッポニカ) 「宮本武蔵(剣術家)」の意味・わかりやすい解説

宮本武蔵(剣術家)
みやもとむさし
(1584?―1645)

江戸初期の剣術家。わが剣道史上、異色の存在である二刀流(円明(えんめい)流、二刀一(にとういち)流、二天一(にてんいち)流、武蔵流)の祖。名は玄信、号は二天。伝記はいまなお不明なところが多く、出生地も播磨(はりま)説、美作(みまさか)説の両説がある。幼少から剣を好み、13歳のとき新当(しんとう)流の有馬喜兵衛(ありまきへえ)に勝ったのをはじめ、28~29歳のころまで諸国を歴遊して60回も勝負し、無敗であったという。なかでも京都における吉岡(よしおか)一門との争いや、小倉(こくら)沖の舟島における巌流(がんりゅう)佐々木小次郎(ささきこじろう)との試合は、伝説化された武芸談として、後世の巷談稗史(こうだんはいし)や演劇などの好主題となった。30歳半ばから40歳前後まで播州明石(ばんしゅうあかし)の小笠原家に客分として仕えたが、同家の小倉移封を嫌い、天下の兵法者としての処遇を求めて名古屋・江戸などを転々とした。しかし志を達せず、数年後、小笠原家に仕える養子の伊織(いおり)を頼って小倉に行き、島原の乱には親子で従軍して、足に重傷を負った。1640年(寛永17)の秋熊本に赴き、兵法好きの藩主細川忠利(ただとし)に「兵法三十五箇条」の覚書を上呈したが、わずか1か月後には忠利の急死という不運にあった。その後は世を捨て、家臣有志に剣法を教えるほかは、忠利の菩提(ぼだい)所泰勝寺の大淵和尚(だいえんおしょう)や春山(しゅんざん)らと交友を結び、禅の修養に努め、また書画彫刻にも親しんで、いくつかの傑作を残した。武蔵の遺著として知られる『五輪書』はかならずしも真正の自著といえないが、二刀の剣理を説いた近世初期の代表的兵法書である。

[渡邉一郎]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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