コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

富岡鉄斎 とみおか てっさい

美術人名辞典の解説

富岡鉄斎

南画家。京都生。名は猷輔のち百錬、別号に鉄人・鉄史等。幼少より国学漢学詩学等を学び、また歌人大田垣蓮月学僕となって多大な人格的影響を受ける。幕末期には、勤王志士らと盛んに交流し、国事奔走した。維新後は、大和石上神社・和泉大鳥神宮等の宮司となるが、のち辞し隠棲。田能村直入・谷口藹山らと日本南画協会を発足、学者としての姿勢を貫きながら自由な作画活動を展開し、その学識と画技により文人画壇の重鎮となった。帝室技芸員・帝国美術院会員。大正13年(1924)歿、89才。

出典|(株)思文閣美術人名辞典について | 情報

デジタル大辞泉の解説

とみおか‐てっさい〔とみをか‐〕【富岡鉄斎】

[1836~1924]日本画家。京都の生まれ。名は猷輔、のち百錬。国学・儒学を修め、幕末は勤皇学者として国事に奔走。維新後は絵画に専念。南画・明清(みんしん)画・大和絵などを研究。水墨画に独自の画境をひらく。作「不尽山頂全図」「蓬莱仙境図」など。

出典|小学館デジタル大辞泉について | 情報 凡例

百科事典マイペディアの解説

富岡鉄斎【とみおかてっさい】

幕末〜大正の南画家。京都生れ。本名百錬。号は鉄斎のほか鉄人,鉄史など。国学,儒学,仏典を学び,勤皇派の志士と交わり,明治以後諸神社の宮司を勤めた。絵は特に師につかず,初め大和(やまと)絵,中期以降中国文人画の手法を学び,国内各地を旅行して独自の画境を形成。
→関連項目富田渓仙

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト百科事典マイペディアについて | 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

富岡鉄斎 とみおか-てっさい

1837*-1924 明治-大正時代の日本画家。
天保(てんぽう)7年12月19日生まれ。国学,漢学,仏教,詩文をまなぶ。勤王家とまじわり,維新後,各地の神社の宮司となる。明治14年郷里の京都にかえり,読書と画業に専念。自由奔放で独自な文人画の世界をきりひらいた。帝室技芸員,帝国美術院会員。大正13年12月31日死去。89歳。名は猷輔,百錬。字(あざな)は無倦(むけん)。別号に鉄崖,鉄史。作品に「旧蝦夷(えぞ)風俗図」など。
【格言など】画家も長生きしなければいいものは描けない。このごろになって,どうやら思うような絵が描けるようになった(死の直前のことば)

出典|講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて | 情報 凡例

世界大百科事典 第2版の解説

とみおかてっさい【富岡鉄斎】

1836‐1924(天保7‐大正13)
日本の文人画の最後の代表的作家。京都に住み,詩文に通じ,書を能くした。その画業は風景,花鳥,人物などを描き,みずから古人筆意を学んで,人格で画をかく〉(《書画叢談》)と称した。生涯多作(小品を含めての絵画は2万点以上といわれる),晩年に至って,水墨と彩色のいずれにおいても独創的な様式を生み出し,近代日本の芸術家としても傑出する。梅原竜三郎は,将来の日本美術史が〈徳川期の宗達光琳乾山とそれから大雅浮世絵幾人かを経て,明治・大正の間には唯一人の鉄斎の名を止めるものとなるであろう〉といった。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

大辞林 第三版の解説

とみおかてっさい【富岡鉄斎】

1836~1924) 日本画家。京都生まれ。名は猷輔、のち百錬。歌道・儒学・詩文・仏教などを学ぶ。大和絵から南画に進み、独特の筆致と淡い色調の個性的な絵を残す。代表作「掃蕩俗塵」「不尽山頂全図」

出典|三省堂大辞林 第三版について | 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

富岡鉄斎
とみおかてっさい

[生]天保7(1836).12.19. 京都
[没]1924.12.31. 京都
江戸時代末期~大正の代表的南画家。京都三条の法衣商,十一屋伝兵衛の次男。通称は猷輔。名は道節,のち百錬。字は君 筠。幼少から国学,漢籍,陽明学,画事を習い,安政2 (1855) 年頃歌人太田垣蓮月尼の薫陶を受けた。万延1 (60) 年鉄斎の号を用い,翌年長崎へ行って海外の情勢を探る。文久2 (62) 年帰京して聖護院村に私塾を開き,志士の藤本鉄石,平野国臣らと交わって,『孫呉約説』ほかを出版。明治維新後は,神社の復興を念願して石上 (いそのかみ) 神社少宮司,大鳥神社大宮司として献身的に尽力し,鉄史,鉄崖と号した。 1881年以降は京都に定住して学者,画家としての生活を続け,おりにふれ日本各地を旅行,『旧蝦夷風俗図』 (96,東京国立博物館) などを描く。その鮮麗な色彩と個性的で奔放な筆線は,晩年になるほど円熟した。なお絵をもって説法することを考えて画賛に凝り,古今東西の書物から引用して,独特の書体で書いた。帝室技芸員,帝国美術院会員などを歴任。主要作品『山荘風雨図』 (1912頃) ,『阿倍仲麿明州望月図』 (14,重文) ,『蘇子会友図』 (21) ,『蓬莱仙境図』 (24,清荒神清澄寺) ,画集『貽咲 (いしょう) 墨戯』 (23) ,『水墨清趣図』 (24) 。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

富岡鉄斎
とみおかてっさい
(1836―1924)

近代の巨人的日本画家。天保(てんぽう)7年12月19日、京都の法衣商十一屋伝兵衛(富岡維叙(これのぶ))の次男として生まれる。名は初め猷輔のち道節、さらに百練と改める。字(あざな)は無倦(むけん)。号は初め裕軒(ゆうけん)のちに鉄斎、ほかに鉄崖(てつがい)、鉄道人がある。山本(やまもとばいえん)に読み書きを習い、15歳のころ平田篤胤(ひらたあつたね)の門人大国隆正(おおくにたかまさ)に国学を、岩垣月洲(いわがきげっしゅう)に儒学を学ぶ。20歳のころには心性寺(しんしょうじ)に太田垣蓮月(おおたがきれんげつ)の学僕として住み込み、その薫陶を受けて春日潜庵(かすがせんあん)に陽明学を学び、梅田雲浜(うめだうんぴん)の講義を聴く。また頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、板倉槐堂(いたくらかいどう)、藤本鉄石(ふじもとてっせき)、山中信天翁(やまなかしんてんおう)らと交際するなど、幕末動乱のなかで勤皇思想に傾倒し、国事に奔走する青年期を過ごした。維新後は、歴史、地誌、風俗を訪ねて各地を旅行したり、奈良石上神宮(いそのかみじんぐう)、和泉(いずみ)の大鳥神社の宮司となって神道復興に尽くすが、1881年(明治14)京都に帰り画業に専念、徐々に画名も高まっていった。
 画(え)は19歳のころ大角南耕、窪田雪鷹に南画の手ほどきを受け、長崎旅行(1861)の際、木下逸雲(きのしたいつうん)や鉄翁に画法を問うたりもしたが、ほとんど独学である。南画や明清画(みんしんが)、大和絵(やまとえ)などの諸派の研究、また写生をその基礎に独自の画風をつくりあげたが、特色とするところは、生新な色彩感覚と気迫に満ちた自由放胆な水墨画風のものにあり、多く晩年に傑作を残している。活発になった明治画壇で、各種の展覧会や博覧会の審査員となるが、自身は南画協会、後素如雲社展(こうそじょうんしゃてん)以外は出品せず、自適の生活のうちに在野の学者としての態度を貫いた。「万巻の書を読み、万里の道を行く」文人哲学を指標に、博学多識、稀覯(きこう)の書の収集家としても聞こえた。1917年(大正6)に帝室技芸員、1919年に帝国美術院会員に任ぜられている。大正13年12月31日京都に没。代表作に『不尽山全頂図(ふじさんぜんちょうず)』『安倍仲麿明州望月図(あべのなかまろめいしゅうぼうげつず)』『旧蝦夷風俗図(きゅうえぞふうぞくず)』などがあり、『小黠大胆図(しょうかつだいたんず)』のような小品にも優れたものを残した。宝塚(たからづか)市の清荒神(きよしこうじん)内に鉄斎美術館がある。[星野 鈴]
『小高根太郎著『富岡鉄斎』(1962・平凡社) ▽小林秀雄他著『富岡鉄斎』(1965・筑摩書房) ▽青木勝三編『富岡鉄斎』(1971・至文堂) ▽小高根太郎著『現代日本美術全集1 富岡鉄斎』(1973・集英社)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

富岡鉄斎の関連キーワード清水六兵衛(4代)富山県水墨美術館日下部 弁二郎辰馬考古資料館西川一草亭大河内夜江正宗得三郎富岡 冬野富岡益太郎青山 二郎今村 紫紅本田 成之鉄斎美術館小高根太郎新見美術館石黒連州今村紫紅車折神社日高昌克水越松南

今日のキーワード

俳句甲子園

1998年から松山市で開かれる全国高等学校俳句選手権大会。高校生が5人1組で句の優劣をディベートで競い合う。チームでの勝敗とは別に、個人の最優秀句も選ぶ。今年は過去最多の41都道府県から121校、15...

続きを読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android

富岡鉄斎の関連情報