日本の文人画の最後の代表的作家。京都に住み,詩文に通じ,書を能くした。その画業は風景,花鳥,人物などを描き,みずから〈古人の筆意を学んで,人格で画をかく〉(《書画叢談》)と称した。生涯多作(小品を含めての絵画は2万点以上といわれる),晩年に至って,水墨と彩色のいずれにおいても独創的な様式を生み出し,近代日本の芸術家としても傑出する。梅原竜三郎は,将来の日本美術史が〈徳川期の宗達,光琳,乾山とそれから大雅と浮世絵の幾人かを経て,明治・大正の間には唯一人の鉄斎の名を止めるものとなるであろう〉といった。
鉄斎は,京都の法衣商十一屋伝兵衛富岡雅叙の次男として生まれた。名は猷輔,後に百錬,字は無倦(むけん)。鉄斎のほかにも鉄崖,鉄史の号がある。幼にして国学を大国隆正に,漢学を岩垣月洲に学び,後に陽明学を春日潜庵に,詩文を叡山の僧羅渓慈本に学んだ。絵は大角南耕,窪田雪鷹,小田海仙(文人画),浮田一蕙(大和絵)に就いたが,特定の師の系統をひくというのではない。文人画,大和絵,円山派,琳派,浮世絵などの諸派の作品から取るものを取って,独学工夫したといえるだろう。明清の諸家の影響は,おそらく大きい。西洋画の直接の影響はほとんどまったくない。
1855年(安政2),19歳で,大田垣蓮月尼と北白川の雲居山心性寺に同居し,蓮月尼の製陶の手助けをしたことがある。その20歳代,幕末の動乱期には,いわゆる〈勤王の志士〉たちとの交際の範囲が広かった。30歳代から40歳代の前半にかけて,明治初期の鉄斎は,全国を旅行し,結婚して,最初の妻の急死ののち再婚し,離別し,三度結婚し,いくつかの神社の宮司となり,《称呼私弁》(1869)などの著作を出版すると同時に,その画業をつづけていた。45歳のとき(1881)に兄伝兵衛が死に,大阪の宮司の職を辞して京都に帰り,上京区室町通一条下ル薬屋町に住んで,その後は読書と書画の制作に専念する。南画協会の創立(1896)に参加,多くの展覧会の審査員となり,また帝室技芸員(1917),帝国美術院会員(1919)でもあった。しかし自作の展覧会への出品は,南画協会の場合を例外として他にはほとんどない。新日本画(狩野芳崖から横山大観まで)や油絵に対抗して,伝統的文人画を擁護したといえる。1924年12月,88歳で急逝。寺町四条下ル大雲院にて葬儀,富岡家墓地に葬る。法名は無量寿院鉄斎居士。
絵は60歳以後,ことに80歳以後に妙味を加え,成熟して,独特の世界をつくり出した。その画題は,明清画の伝統に従い,風景にしても人物にしても,中国の古典に材をとることが多い。しかしそこにも個人的な好みはあらわれていて,儒・仏・老荘の三教一致の立場をとった鉄斎は,好んで釈迦,観音,達磨,孔子,老子を併せて描き,また道教的桃源境の図を多く作った。また実景を写実的に描くこともあり,たとえば富士は,ことに好んだ題材である。円熟した時期の画面の構成は,とりわけ風景画において,余白を残さず,近景から遠景へ重畳して隈なく書きこむことを特徴とする。その迫力は,洒脱の味からもっとも遠く,むしろ西洋の近代絵画に近い。たとえば《旧蝦夷風俗図》(1896,東京国立博物館)の大画面は典型的である。水墨の筆法は,薄い墨で山や水や樹木を描き,そこに濃い墨を加えて,律動感をつくり出す。濃墨は描写的にも用いられるが,また描写を離れて,抽象的表現主義的な効果のためにも用いられる。たとえば《東瀛神境図》(1915,清荒神清澄寺)。水墨のこのような用法は,大雅にも,石濤にも,みられないわけではない。しかし鉄斎は,はるかに徹底して,水墨の抽象的表現主義を追求し,独創的な画面をつくった。また色彩家としても,中国日本の伝統的な画家のなかで際立つ。たとえば《聚沙為塔》(1917,清荒神清澄寺)にみるように,緑,紺青,朱,金泥の配合は,墨の明暗と相まって,まさに抜群の色感を示す。近代日本において,油絵の影響を受けることもっとも少なかった鉄斎は,伝統的材料と手法とを駆使して,筆勢においても色感においても,西洋の油絵の傑作にもっとも近い画面をつくり出した。
鉄斎の評価がきわめて高くなったのは,日本国内でも,国外でも,主として第2次大戦後である。梅原竜三郎や中川一政,美術史家ケーヒルJames Cahillや画家ビニングB.C.Binningは,鉄斎を世界美術史上の天才とし,しばしばセザンヌと比較した。作品は多く宝塚の清荒神清澄寺にあつめられ,鉄斎美術館が設けられている。その蒐集は,主として,鉄斎に師事した清澄寺法主坂本光浄による。
執筆者:加藤 周一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
近代の巨人的日本画家。天保(てんぽう)7年12月19日、京都の法衣商十一屋伝兵衛(富岡維叙(これのぶ))の次男として生まれる。名は初め猷輔のち道節、さらに百練と改める。字(あざな)は無倦(むけん)。号は初め裕軒(ゆうけん)のちに鉄斎、ほかに鉄崖(てつがい)、鉄道人がある。山本園(やまもとばいえん)に読み書きを習い、15歳のころ平田篤胤(ひらたあつたね)の門人大国隆正(おおくにたかまさ)に国学を、岩垣月洲(いわがきげっしゅう)に儒学を学ぶ。20歳のころには心性寺(しんしょうじ)に太田垣蓮月(おおたがきれんげつ)の学僕として住み込み、その薫陶を受けて春日潜庵(かすがせんあん)に陽明学を学び、梅田雲浜(うめだうんぴん)の講義を聴く。また頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、板倉槐堂(いたくらかいどう)、藤本鉄石(ふじもとてっせき)、山中信天翁(やまなかしんてんおう)らと交際するなど、幕末動乱のなかで勤皇思想に傾倒し、国事に奔走する青年期を過ごした。維新後は、歴史、地誌、風俗を訪ねて各地を旅行したり、奈良石上神宮(いそのかみじんぐう)、和泉(いずみ)の大鳥神社の宮司となって神道復興に尽くすが、1881年(明治14)京都に帰り画業に専念、徐々に画名も高まっていった。
画(え)は19歳のころ大角南耕、窪田雪鷹に南画の手ほどきを受け、長崎旅行(1861)の際、木下逸雲(きのしたいつうん)や鉄翁に画法を問うたりもしたが、ほとんど独学である。南画や明清画(みんしんが)、大和絵(やまとえ)などの諸派の研究、また写生をその基礎に独自の画風をつくりあげたが、特色とするところは、生新な色彩感覚と気迫に満ちた自由放胆な水墨画風のものにあり、多く晩年に傑作を残している。活発になった明治画壇で、各種の展覧会や博覧会の審査員となるが、自身は南画協会、後素如雲社展(こうそじょうんしゃてん)以外は出品せず、自適の生活のうちに在野の学者としての態度を貫いた。「万巻の書を読み、万里の道を行く」文人哲学を指標に、博学多識、稀覯(きこう)の書の収集家としても聞こえた。1917年(大正6)に帝室技芸員、1919年に帝国美術院会員に任ぜられている。大正13年12月31日京都に没。代表作に『不尽山全頂図(ふじさんぜんちょうず)』『安倍仲麿明州望月図(あべのなかまろめいしゅうぼうげつず)』『旧蝦夷風俗図(きゅうえぞふうぞくず)』などがあり、『小黠大胆図(しょうかつだいたんず)』のような小品にも優れたものを残した。宝塚(たからづか)市の清荒神(きよしこうじん)内に鉄斎美術館がある。
[星野 鈴]
『小高根太郎著『富岡鉄斎』(1962・平凡社)』▽『小林秀雄他著『富岡鉄斎』(1965・筑摩書房)』▽『青木勝三編『富岡鉄斎』(1971・至文堂)』▽『小高根太郎著『現代日本美術全集1 富岡鉄斎』(1973・集英社)』
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明治・大正期の日本画家(南宗派)
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1836.12.19~1924.12.31
明治・大正期の南画家。京都生れ。石門心学・国学・漢学・陽明学など幅広く学問を修め,大田垣蓮月の感化もうけた。小田海僊(かいせん)・浮田一蕙(いっけい)を訪ねて絵画制作を始め,明・清画に接して文人画を描く。幕末には勤王派として奔走。維新後は立命館の教員,神社の宮司などをへて,1881年(明治14)隠棲。以後文人生活をし,南画壇の中心的存在となった。京都市立美術工芸学校の修身担当教員,帝室技芸員,帝国美術院会員。代表作の「安倍仲麻呂明州望月」「円通大師呉門隠棲」は重文。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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