小浦村(読み)こうらむら

日本歴史地名大系 「小浦村」の解説

小浦村
こうらむら

[現在地名]宿毛市小筑紫こづくし町小浦

宿毛湾奥東岸にある漁村(浦方)。「土佐州郡志」に「以下七浦通曰奥内、此浦也、東連田野浦、西接海際、其間七十間許、北限宿毛界宇土之鼻、南抵外浦界磯辺、其間十町余、有港南向、其縦八十間許横六十間余、有逆浪則不船、戸凡二十三、船数艘、其土黒多白砂」とある。同書によれば奥内おくうち七浦とは小浦・田野たの浦・そとノ浦・うちノ浦・みなと浦・大海おうみ浦・小尽こづくし浦をさしているようだが、宝永七年(一七一〇)の下灘浦々縮書が「奥内浦」として記す七浦には田野浦が含まれず、栄木さかき(榊)浦が入っている。


小浦村
こうらむら

[現在地名]富山町小浦

不入斗いりやまず村の南西に位置し、房総往還が通る。北西は海に面する。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高六六石余、うち田二九石余。目録の「北郡知行方」の項に入っているが、弘治三年(一五五七)里見氏の寄付により清澄せいちよう(現天津小湊町)領となっており、慶長九年まで同寺領であった(清澄寺文書)。同一一年七月三日、紀州高野山西門さいもん院に当村六六石余が寄進され(「里見忠義寄進状」西門院文書)、同一五年の里見家分限帳でも西門院領。西門院は里見氏と縁の深い寺で、里見氏関係史料が伝存する。里見氏改易後の領主の変遷は久枝くし村に同じ。

正保郷帳によると田高二九石余・畑高四二石余。万治二年(一六五九)の佐倉藩勝山領取箇帳(吉野家文書)によると先高七二石余、うち九石余は無地高。


小浦村
こうらむら

[現在地名]日出町平道ひらみち

辻間つじま頭成かしらなり町の南、十文字原じゆうもんじばる高原東麓に位置し、東は別府湾に面する。南は小坂おさか(現別府市)。小浦湊があり、頭成湊に続く。慶長五年(一六〇〇)二月細川忠興領となった竈門かまど庄小坂村(「速見郡・由布院知行方目録写」北九州市立歴史博物館蔵)に含まれていたが、翌六年頭成町を含む辻間村の一部が森藩領となった際、しよう川を境に五〇石余をもって小坂村から分離して日出庄に属する一村となった(「伝承辻間村分り之覚」高倉家文書)。このとき幕府領となり、細川家臣松井康之の預地となる。元和二年(一六一六)小坂村など竈門庄の村々とともに日田藩石川忠総領となるが、村はそのまま残された。寛永一〇年(一六三三)石川氏が転封になると幕府領となったが、翌年松平忠昭が亀川かめがわ(現別府市)に入封するとその領地となった(「豊城世譜」県立大分図書館蔵)


小浦村
こうらむら

[現在地名]厳原町小浦

阿須あず浦の北東にあり、南は南室なむろ村と接する。北は山を越えて根緒ねお(現美津島町)に通じ、南東に枝郷のまがりがある。西方火立の隈ほたてのくまという嶺は古代の烽の遺跡か、近世の狼煙場跡かとされる。文明三年(一四七一)閏八月一五日の宗貞国安堵書下(馬廻判物帳)に「こうらのかま(塩焼であろう)とみえ、宗中務少輔に安堵された。同一三年「こうら」の竈ならびに在庁田が古河治部少輔に給分として宛行われた(同年六月一二日「宗貞国宛行状」同判物帳)。大永三年(一五二三)「こうら」など四ヵ所と佐護臨時役の麦が某(古河氏であろう)の知行とされた(同年一二月六日「宗盛長書下」同判物帳)


小浦村
おうらむら

[現在地名]能登島町野崎のざき

長崎ながさき村と南方野崎村の中間に位置し、富山湾に東面する。天正一三年(一五八五)六月一八日の免定写(当摩文書)に「大浦」とみえ、免引は三ツ。同一七年九月一三日の年貢皆済状写(同文書)には「島野崎村之内大浦村之内」とあり、野崎村と一括して皆済状が出されている。同二〇年八月一五日の向田こうだ白山宮建立棟札(伊夜比神社蔵)には小浦とみえる。慶長年間(一五九六―一六一五)一村あげて越後国塩屋しおや新田村(現新潟県上越市)へ移転して村を開いたと伝える(日野宮神社石碑銘文)。無住となったため村高は野崎村が持添、村役人も同村役人が兼帯した(「絵図面洩村等書上帳」金沢市立図書館蔵)。正保郷帳では野崎村と一括して高付される。


小浦村
こうらむら

[現在地名]東陽村小浦

北は南種山みなみたねやま村、南は猫谷ねこだに(現八代市)境から北流する小浦川に沿い、西は竜峰りゆうほう山系、東は台地河俣かわまた村の分水嶺に至る。慶長国絵図には村名がみえず、「国誌」は「新開村重見村筒井村仁田尾村屋形原村今屋敷村池原村木場村箱石村等ノ小村アリ」と記す。「国誌」所引の「陣迹誌」に「南種山ノ内小浦村」とあり、種山手永に属した。主邑館原やかたのはる陣内じんない城主蓑田善内兵衛の館跡で、薬師堂があり、菩提所跡に真宗福音ふくおん寺があった。


小浦村
おうらむら

[現在地名]能都町小浦

珠洲すず郡に属し、西は羽根はね村、南は内浦に臨む。「三州志」に垣内として崎山さきやまがみえる。正保郷帳に村名がみえ高六九石余、田方三町四反余・畑方一町二反余。承応三年(一六五四)の村御印の高八六石余、免三ツ五歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(栄田文書)の高九四石、免四ツ、小物成は山役四五匁、猟船櫂役三〇匁(ほか二〇匁は退転)、網役三六匁、烏賊役七匁(うち四匁は出来)であった(三箇国高物成帳)


小浦村
おうらむら

[現在地名]海山町小浦

大谷おおたに(三八〇・三メートル)の南、白石しらいし湖の北にある。「神鳳鈔」記載の入江いりえ御厨について、本居内遠の「紀伊国古昔国界考」は「入江御厨トアルハ小浦ノ入江ニテ此村ノ事カ、但シ所々ニ入江アレバ詳ナラス」と記している。慶長検地高目録(和歌山県間藤氏蔵)に「大浦村」とある。相賀組に属し、寛政五年(一七九三)の大差出帳(徳川林政史蔵)に家数一七、人数一一四、牛二とある。

白石湖は北東に延びた自然湖で、満潮時には海水が船津ふなつ川を遡流して入る。


小浦村
おうらむら

[現在地名]志賀町小浦

大津おおづ村の北に続き、西は日本海の集塊岩の荒磯で、海岸段丘の後背地に耕地がある。通称ドニヤチからは能登式製塩土器が出土。元和二年(一六一六)の高一六一石余、役棟四(「苦竹運上極」雄谷文書)。正保郷帳の高一六二石余、田八町二反余・畑二町六反余、免三ツ二歩八厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印には高一六九石、免四ツ五歩、小物成は山役八〇目・苦竹役一八匁、鳥役二匁(出来)とある(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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