山城村(読み)やましろむら

日本歴史地名大系 「山城村」の解説

山城村
やましろむら

[現在地名]河南町山城・大宝だいほう一丁目・同四―五丁目など

一須賀いちすか村・だいつか村の南にあり、南東部を流れるうめ川と西の村境を北流する千早ちはや川に挟まれた丘陵地に位置する。北西の外れで千早川が石川に合流する。天平勝宝二年(七五〇)三月二三日の勘籍(正倉院文書)によると、山代伊美吉大村の養老五年(七二一)籍に「山代郷」がみえ、これは当地一帯にあたるとされる(河内国の→石川郡。南端に楠木氏一族が設けたといわれる大宝寺だいほうじ城、または別井べつい城・山城城とよばれる城跡があり、口の城・中の城・奥の城の字名が残る。伊香賀いかが(現枚方市)の地頭で足利尊氏方に属した土屋宗直の建武四年(一三三七)一一月日付軍忠状(土屋文書)に一〇月一九日のこととして「御向于東条之時加御手、(中略)焼払山田・山城」とみえる。

山城村
やまぐしくむら

[現在地名]石川市山城やましろ

嘉手苅かでいかる村の南東にあり、東は東恩納ひじやうんな村・伊波いふあ村。当村内に源を発した天願てんがん川が南東へ流下する。山城やまぐしく集落の始まりは、伊波いふあから分家した前殿内めーぬとうんち(長男)安平あびら(次男)下庫理屋阿しちやぐやー(三男)のミムートゥ(三元)で、のちに橋口はしぐち徳門とうくじよー仲加なーか新屋みーやのナナチネー(七戸)になったという(石川市史)。新屋は泉安平いじゆんあびらともいう。安平の元の屋号は大屋うふやという。シマ立てした場所はウガミとよばれ、ウマチー(稲穂祭)などの際に拝みが行われている。

山城村
やましろむら

[現在地名]植木町田底たそこ

平島ひらしま村の北にあり、合志こうし川下流域の微高地を占め、北は葦原あしわら村に接する。来民くたみ町道が通り、分田ぶんだ溝が流れる。村名は大橋おおはし城に由来するという。慶長一三年(一六〇八)検地帳では田三六町一反一畝余・畠二〇町二反三畝余、分米六一七石四斗余、家数二八・人数八七、馬牛一四、下ケ名には前田・ひら嶋口・分田井手・野入などがある。近世は正院手永に属する。村内合志川筋の盗人瀬ぬすどのせは川幅が狭く、洪水の時には山城村・葦原村側と合志郡橋田はしだ(現菊池郡七城町)側のどちらの堤防が早く決壊するかで被害が分れた。

山城村
やまじようむら

[現在地名]四日市市山城町・あさけがおか・あかつきだい八千代台やちよだい

朝明あさけ川の南岸にあり、村域を支流大谷おおたに川が流れる。対岸には中里なかざと村。山城・中里・北山きたやまの三村は中世下野しもの(霜野)三郷と称され(櫟木文書)、文明一二年(一四八〇)の宿職売券写(同文書)に「朝明郡下野三郷村人」と出る。元禄郷帳・天保郷帳では西大鐘にしおおがね村も下野に含まれる。「五鈴遺響」は、村名の由来を当村の北側にある山城によるとする。

山城村
やまぐしくむら

[現在地名]久米島町山城やまぐすく真我里まがり銭田ぜんだ

仲里なかざとう間切の南部、小高い丘陵上に立地し、北は比嘉ひが村、西は儀間じま村、南は島尻しまじり村に接し、東は東シナ海に面する。絵図郷村帳・琉球国高究帳では具志川ぐしちやー間切に属し、山城村とみえる。琉球国高究帳では高頭一九一石余、うち田一六三石余・畠二七石余。拝所は比嘉ひざ御嶽・山城ノロ・山城ヲヒヤ・久根城くねぐしくヲヒヤで(琉球国由来記)、祭祀をつかさどるのは山城ノロ。山城村はもと仲里間切に属していたが、伊敷索城按司の次男、具志川按司がサバチ橋を改修した功績により国王から山城村を賜り、以後具志川間切に属するようになった。

山城村
やましろむら

[現在地名]鏡野町山城

吉井川右岸にあり、東は小座おざ村・真加部まかべ村、西は中谷なかだに村、南ははら村・高山たかやま村、北はいり村に接する。正保郷帳に高一九〇石余、うち田方五九石余・畑方一三〇石余とある。「作陽誌」では家数四三・人数二一二。村名の由来について「葛下城在此地、峭壁峻峙、故名村」とある。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高一三六石余、開高二五石余。分郷の蕎麦尾そばお分があり、文政元年(一八一八)の津山領郷村帳では本村分二七九石・蕎麦尾分七三石余。明治五年(一八七二)合併して山城村となる。領主の変遷は越畑こしはた村と同様の経緯をたどるが、明和七年(一七七〇)から貞永寺ていえいじ村同様で、文化一四年(一八一七)津山藩領となるが、天保九年(一八三八)幕府領となり直ちに津山藩預となる。

山城村
やまぐすくむら

[現在地名]糸満市山城やまぐすく束里つかざと

福地ふくじ村の南東に位置し、南は海に面する。「おもろさうし」巻二〇の一一に「一 やまきたらすさへ(山内太郎兄部)/よかるたらすさへ(良き太郎兄部)/あやより くせよりか みもん(綾なる踊り 奇しき踊り 見物)/又 やまくすくおわる(山城におられる)/いちへききよらあんしの(優れた美しい按司が)/又 きみよしきや したに(君良し〔神女〕の下に)/よほこりきや まへに(世誇りの前に)」とみえる。

絵図郷村帳・琉球国高究帳に喜屋武ちやん間切山城村とみえる。

山城村
やましろむら

[現在地名]院内町山城

恵良えら川中流域、院内盆地の南部に位置し、北は大副おおそい村、南と西は原口はるぐち村。元禄豊前国絵図によれば、恵良川に沿って四日市よつかいち陣屋(現宇佐市)と豊後国玖珠くす郡を結ぶ往還が南北に走る。正平一〇年(一三五五)九月一八日の左衛門尉某感状写(高並文書)に「於豊前国山城、去十一日北面山にて合戦之時」とみえる。天正一五年(一五八七)一二月二三日の佐田鎮鋼知行坪付(佐田文書)に「山城分之内一所八反 はる名」「一所五反 三社領」「一所壱町三反 岩坂名」「山城分内一所 浮免岩坂拘五反 岩坂名」とみえる。小倉藩元和人畜改帳では高三六四石余、家数三八・人数一五四(うち百姓一六・牢人一・名子一九・とぎ一)、牛一〇・馬五。

山城村
やましろむら

[現在地名]川越市山城・南台みなみだい

大袋おおふくろ村の南、新河岸川左岸の低地に立地。東から南は大袋新田。「風土記稿」によれば亀窪かめくぼ(現大井町)名主庄右衛門の由緒書に北条氏邦の旧臣三上山城守氏郷の息山城守某が開発し、山城村と称したとみえるという。慶安(一六四八―五二)頃までは山城新田と称したという。検地は同元年以後数度実施された(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田高五石余・畑高一八石余、ほかに野銭永一五四文、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高七七石余、反別田一町二反余・畑一〇町九反余、武蔵野分高二二石余(反別畑四町八反余)

山城村
やましろむら

[現在地名]作東町山城

川崎かわさき村の東、山家やまが川右岸に立地し、対岸南は竹田たけだ村。正保郷帳に村名がみえ、田九一石余・畑八二石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高四四石余・開高八石余、村位は下。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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