崇福寺跡(読み)そうふくじあと

日本歴史地名大系 「崇福寺跡」の解説

崇福寺跡
そうふくじあと

[現在地名]西吉野村黒渕

奥吉野に至る旧道の東側に寺跡がある。丘陵両側丹生にう川の曲流絶壁で要害地形をなす。近年ダム建設により、すぐ下方に祀ってあった春日神社が当跡地へ遷座された。古老の言では現在の春日神社入口から「南朝三帝黒木之御所趾」の碑の付近にかけて寺跡の礎石があり、その一部は手水舎の積石になっていたという。山号は金輪山。「大和志」には「後村上帝皇居在黒淵村俗呼黒木御所有(崇)福寺故址」とあり、元禄六年(一六九三)三月竹村代官宛書上(堀家文書)には「(崇)福寺表六間裏三間除地」「住(持)弘哲」とあるから、享保二〇年(一七三五)頃までの間に退転したことになる。

崇福寺跡
そうふくじあと

[現在地名]太宰府市白川

大宰府横岳よこたけに所在した禅宗寺院跡。天正一四年(一五八六)島津氏の岩屋いわや城攻めによって崇福寺は焼失し、慶長五年(一六〇〇)以降黒田氏により博多に再建されるが(福岡市博多区の→崇福寺、横岳の地には同寺塔頭の勝禅しようぜん院が残り、これが現在の臨済宗大徳寺派瑞雲ずいうん寺となっている。瑞雲寺には一二世紀に作庭され、室町時代と明治時代に改修されたという庭跡が残り、本堂の裏には四基の無縫塔、二基の宝篋印塔などがある。

崇福寺跡
すうふくじあと

[現在地名]大宇陀町大字岩室

岩室いわむろ集落の西方山中にあったが、荒廃して大日堂を残すのみ。伝説によると弁慶の居住したところといい、境内(現八坂神社境内)に弁慶供養塔と伝える塔の残欠がある。背後の谷はてら谷と称し、坊舎の跡という。大日堂には藤原時代の薬師如来立像大般若経六〇〇巻などがある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「崇福寺跡」の解説

すうふくじあと【崇福寺跡】


滋賀県大津市滋賀里町にある寺院跡。比叡山南麓、市内滋賀里(しがさと)の谷を隔てて南北に並ぶ丘陵上に位置する、天智天皇が神託を受けて大津京の鎮護のために建立したという寺。大津に遷都した翌年の668年(天智天皇7)に建立され、平安時代には東大寺、興福寺とともに十大寺の一つに数えられる大寺院だったが、鎌倉時代以降、歴史からその姿を消した。平安京から旧山中越え(志賀越え)の道を進み、百穴(ひゃっけつ)古墳や大きな石仏を通り過ぎると山中の三つの尾根上に寺跡が残り、北尾根には弥勒堂、中尾根には小金堂や塔跡が、南尾根には金堂や講堂があったことがわかっていて、かなり大きな寺であったと考えられる。塔心礎から壮麗な舎利容器(国宝)が出土し、中に濃緑色の瑠璃(るり)製小壺などが納められていたことから有名になったが、現在は近江神宮に所蔵されている。参道には鎌倉時代の作で峠の道中安全を見守る石仏として知られる高さ約3mの「志賀の大仏(おぼとけ)」がたたずみ、南丘陵の金堂跡には「崇福寺跡」という碑が立てられている。1941年(昭和16)に国の史跡に指定された。京阪電鉄石山坂本線滋賀里駅から徒歩約20分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報