平山村(読み)ひらやまむら

日本歴史地名大系 「平山村」の解説

平山村
ひらやまむら

[現在地名]南種子町平山

茎永くきなが村の北にあり、北は坂井さかい(現中種子町)、西は中之なかの村、東は海(太平洋)に面していた。太平洋に注ぐ大浦おおうら川や広田ひろた山から流れ出るあみすき川(阿武鋤川)が流れ、仮屋元(向里)のほかに平畠ひらはた山田やまだ水牛すんぎゆう前田まえだ・広田・徳瀬とくせ古田ふるた浜田はまだ浦・岩屋いわや国政くにまさなどの里があった(種子島記)。元禄二年(一六八九)の「懐中島記」では高七九九石余、男女四三〇、うち給人九二、牛馬九四。延享(一七四四―四八)頃の高八五八石余(三州御治世要覧)。化政期の高九二二石余、竈数九七、総人躰七五〇、うち郷士五五・足軽六三・在郷五六〇・水手七二(種子島記)


平山村
ひらやまむら

[現在地名]荒尾市平山

まえ(二九一・九メートル)の北西裾に立地する。東は小岱しようだい山を境に福山ふくやま(現玉名市)、西は川登かわのぼり村・井手いで村、南は府本ふもと村、北は上井手かみいで村に接し、三池みいけ往還が村央を南北に通る。野原八幡宮祭事簿(野原八幡宮文書)によると「平山ハ水嶋中分一村ニ候テ勤申候」とあり、野原のばら八幡宮大祭の大行事を勤める四ヵ村のひとつに含まれ、文永一一年(一二七四)の項の「御放生会大宮司平山仁藤入道」をはじめ当村住人の名が散見し、享禄三年(一五三〇)の項には「ひら山村上庄山」と村名が付けられている。

慶長一〇年(一六〇五)の検地帳によると田六一町七反六畝・畠居屋敷四一町八反六畝、屋敷筆数五六、分米九四七石四斗余、田畠所有者八二、居屋敷所有者四九を数える。


平山村
ひらやまむら

[現在地名]緑区平山町

有吉ありよし村の北東にあり、村の北端部を東金とうがね道、南端部を土気とけ往還が通る。寛政期(一七八九―一八〇一)東金道には松並木三〇五本、土気往還には同じく四九本あった(「東金往還並木一村限帳」石原家文書)。永承期(一〇四六―五三)源頼義に属して奥州で軍功を尽した千葉介常将が創建した平山寺(千葉大系図)は当地か未詳であるが、常将は父平忠常らの冥福を祈るため来迎らいこう寺・芳泰ほうたい寺・西光さいこう寺・浄光じようこう寺の四寺院を創建したという伝説がある。地内東光とうこう(現真言宗豊山派)の裏手の堂山から平安後期とされる常滑壺が発見されている。平山城とよぶ城跡はその地名から長谷部おそべ城とも称され、千葉介輔胤が居住し(七仏薬師如来由来記)、胤持らもここに住み(千学集抜粋)、輔胤は延徳四年(一四九二)平山で没したというが(妙見実録千集記)、史料に乏しく、遺構も土塁・空堀が分断されているため郭の配置や形態など明らかではない。


平山村
ひらやまむら

[現在地名]川辺町平山

現川辺町の中央、湾曲しながら流れる広瀬ひろせ(万之瀬川)のほぼ右岸に位置する。東は広瀬川を境に両添りようぞえ村・今田いまだ村・小野おの村、南は同川を境にみや村、西は田部田たべた村、北東は野間のま村に接する。川辺郷の中心地で、村内に同郷の地頭仮屋が置かれ、麓と野町が形成されていた。農村部は現在のかみなかしも六丁ろくちようにあたる。中世の平山城(川辺城)跡がある。鎌倉末期、河辺郡は北条得宗領となっており、嘉元四年(一三〇六)四月一四日の千竈時家譲状(千竈文書)によると、得宗被官の時家は三男熊夜叉丸に「ひらやまのむら」などを譲っている。正平一一年(一三五六)七月には、千竈本阿が「平山村并久辺田両村」の知行について令旨の下賜を求めているが、これは興国七年(一三四六)八月二七日の令旨によって兵粮料所として下賜され当知行とされていた両村を、阿多あた(現金峰町)の鮫島家成が返付するようにと要求してきたことに対しての処置であった(正平一一年七月日「千竈本阿申状」同文書)


平山村
ひらやまむら

[現在地名]熊本市松尾町平山まつおまちひらやま

金峰きんぼう(六六五メートル)の西斜面に位置し、東は面木おものぎ(現飽託郡河内町)、北は西流する河内かわち川に沿い野出のいで村・河内村(同上)、西は近津ちこうづ村・河内村、南は池田手永の松尾まつお村に接する。建久九年(一一九八)三月吉日の栗崎完国・牛嶋公縄覚書写(牛島文書)に「平山・池神之内、龍正石一石、ちかふ津明神・ちかふ津之嶋いりましわりて、池神・河内の境候」とある。


平山村
ひらやまむら

[現在地名]長崎市平山町・平山台ひらやまだい一―二丁目

竿浦さおのうら村の南にある。東部に八郎はちろう岳・小八郎こはちろう岳、南部に住敷すみしき岳・松尾まつお岳があり、八郎岳を水源とするおお川が荒毛あらけ川を合せて南東に流れる。彼杵そのき戸町とまち浦のうちで、暦応五年(一三四二)四月日の深堀時広申状並具書案(深堀文書)に「戸町浦内平山沢浦」とみえる。時広はこの浦を深堀明意(時通)の養子として譲られていたと思われるが、明意の子の時元・清時らの刈麦・放火・刃傷狼藉などがあったとして、北朝方の九州探題一色道猷に訴えており、同じ日付で浦への乱入者として深堀・河原・伊佐早・樒の諸氏一五人を書上げた注文を作成した(同年四月日「狼藉人交名注進状」同文書)


平山村
ひらやまむら

[現在地名]君津市平山

小櫃おびつ川の上流右岸、浦田うらた村の南にある。集落は平山本村と宇坪うつぼ集落に分れる。北は浦田村を通り久留里くるり城下へ、西は川越えに小滝こたき村へ通ずる道が通る。永禄一〇年(一五六七)九月八日の大寺造像札(大寺熊野神社蔵)に「大旦那亀山宇津保星野右京丞信春」とみえ、信春や舎弟・子息らから巣郷すごう(菅生)(現木更津市)大寺おおてらに薬師像が寄進されている。


平山村
ひらやまむら

[現在地名]土佐山田町平山

曾我部川そがべがわ村の東、新改しんがい川西岸沿いの村で、長岡郡に属し、古く穂岐山ほきやま六名とよばれた地の中心。元禄地払帳などには穂岐山本村と記される。「土佐州郡志」は六名を一括して「東限大法寺村・佐岡村・韮生村、西限上倉、南限入野村・天行寺村、北限豊永本山、東西二里余、南北二里余」と記し、六名として東川ひがしがわ(甫喜山)平山之里ひらやまのさと(平山)宗我部川そがべがわ(曾我部川)成相なれあい四手任しでとう(四手藤)北瀑本きたたきもと(北滝本)を記す。

天正一六年(一五八八)の平山之里地検帳には総地積二二町三〇代五歩半とあり、うち五町四反余が切畑。


平山村
ひらやまむら

[現在地名]毛呂山町岩井いわい

毛呂本郷もろほんごうの北東、毛呂川右岸台地上に立地。小田原衆所領役帳に他国衆の平山長寿の所領として「平山」とみえ、同氏は入西につさい郡小山(比定地未詳)と檜原(比定地未詳)の地と合せ一六貫二二八文の地を与えられていた。また同衆の平山善九郎は「入西郡平山分」で一六貫七〇〇文を与えられていた。近世初めは毛呂村に含まれていたが、その後同村が分立して成立。元禄郷帳に「毛呂平山村」とみえ、高一二五石余。領主の変遷は毛呂本郷と同じであったが、その後旗本長沢領、次いで旗本三枝領となり幕末に至った(宝暦六年「村明細帳」平山家文書・改革組合取調書など)


平山村
ひらやまむら

[現在地名]三ヶ日町平山

宇利山うりやま川の上流域に位置し、南西は本坂ほんざか村。同川支流の平山川上流には江戸期に開発された奥平山おくひらやま地区があり、山村の風情に富む。三州さんしゆう街道といわれる道は当村から宇利峠(標高一五四メートル)を越えて三河下宇利村(現愛知県新城市)に入るので、平山越ともいわれる。寛正二年(一四六一)一二月一二日に建立された大福だいふく寺不動堂の棟上に際し、「平山」の陵苔・七郎左近・太郎左近が計三五〇文の銭を奉加している(「大福寺不動堂建立記」大福寺文書)


平山村
ひらやまむら

[現在地名]日南市平山

益安ますやす村の南東に位置し、南東は日向灘に面する。北東は風田かぜだ村、南西は広渡ひろと川を挟んで平野ひらの村。海岸線は風田村から続く松林となっていた。下東弁分しもひがしべんぶん村からの道(平山往還)が通じ、平野村から広渡川を渡って当村に入り、風田村・宮浦みやのうら村を経て鵜戸うど神宮へ至る道も通っていた。村内は平坦地が多く運輸の便はよかったが、水害と潮風の害に苦しんだ(日向地誌)。寛文四年(一六六四)の飫肥藩領郷村高辻帳に村名がみえる。検地古今目録(日向国史)によると慶長一〇年(一六〇五)には高三五一石余・田畑屋敷三〇町四反余、寛保二年(一七四二)には高四五六石余・田畑屋敷三〇町八反余。


平山村
ひらやまむら

[現在地名]吉井町平山

上塩木かみしおぎ村の南にある。桂応寺かつきようじ山から南に緩やかな傾斜地が広がり、山手やまて(現赤坂町)に至る。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)軽部かるべ庄に平山村とあり、寛永備前国絵図では高二三二石余。正保郷帳によれば枝村はおく村・長田ながた村。「備陽記」では枝村北谷きたたに・長田。田畠三三町八反余、家数五三・人数三二九、池一一。文化年間の「岡山藩領手鑑」によれば枝村長田・奥・小野地・北。直高二九四石余、家老池田伊賀給地。田方二六町九反余・二一七石余、畑方六町五反余・三八石余、開方畑一町二反余で、貞享元年(一六八四)赤坂郡高目録(池田家文庫)では一石余であった引高が一二石余、加損米七石余。


平山村
ひらやまむら

[現在地名]長井市平山・清水町しみずちよう二丁目

川を挟んで寺泉てらいずみ村の南方対岸にある。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「四十仁〆五百文 ひら山」とみえる。同一六年一月八日の伊達晴宗充行状写(伊達家文書)に「下長井之内かみとのゝ分ひら山」とみえ、当地の「えんとういやしき在家」「くほのさいけ」「ひこ四郎やしき」「ほうそういやしき」「えんとう弥七之分いやしき」一貫文の地が片倉図書助に与えられている。同一八年二月一〇日伊達晴宗は松岡源三郎に当地の「近江屋敷田町」二千刈、年貢三貫五〇〇文の地を与え、棟役・諸公事・地頭役を免除している。


平山村
ひらやまむら

[現在地名]東庄町平山

高部たかべ村の西に位置する。北は須賀山すかやま村。元和三年(一六一七)の柑子木数帳(谷本家文書)では須賀山の割当て計一〇本のなかに平山「みつ蔵院」分一本とある。「寛文朱印留」では下野鹿沼藩領。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高三五六石余で、同藩領。宝暦一三年(一七六三)の取米一二一石余、小物成永一八二文余・芝野永二五〇文、家数六一・人数三三八(高岡家文書)。天保九年(一八三八)の小見川藩領郷村高辻帳(関家文書)では高三五六石余が同藩領であるが、同一〇年の水野氏領分一四村高帳(多田家文書)では遠江浜松藩領となっている。


平山村
ひらやまむら

[現在地名]山鹿市平山

東部を平山川が南流し岩村いわむら川に合して西流、東はじよう村、南は小群おむれ村といわ(現玉名郡三加和町)、北は上平山かみひらやま村、西は板楠いたくす(現同前)と接する。下平山村とも称した。天正一七年(一五八九)の下平山村検地帳によると田三三町六反五畝余・畠屋敷一七町五反二畝余、分米五〇八石一斗余、下ケ名に屋敷ノうしろ・天神さこ・天神免などがある。近世は山鹿手永に属する。寛永郷帳の高九四七石四斗余、正保郷帳の高一千五八石三斗余(田八七三石三斗余・畠一八四石九斗余)とあり、宝暦(一七五一―六四)頃までに上平山村が分村し、「国誌」には高五四四石余、「湯山村西福寺村二板村前河内村後河内村上ノ原村等ノ小村アリ」とある。


平山村
ひらやまむら

[現在地名]日野市平山一―六丁目・東平山ひがしひらやま一―三丁目・西平山にしひらやま一―五丁目・旭が丘あさひがおか一―四丁目・富士町ふじまちなど

たいら村の西にあり、あさ川を挟んで南北に分れている。中世平山郷の遺称地。寛永一四年(一六三七)の検地によれば田方六町七反余・畑方二四町一反余・屋敷一町五反余(「多麻郡平山村検地帳」国文学研究資料館史料館蔵富沢家文書)。田園簿によると田方一六三石余・畑方二四三石余、うち幕府領高九二石余(うち八石余は年々川欠け)・旗本中山領高一六八石余(うち三〇石余は同上)・同桑島領高一四六石(うち一二石余は同上)


平山村
ひらやまむら

[現在地名]静岡市平山

庵原郡に所属。長尾ながお川の上流に位置し、南は長尾村。西は安倍あべ北沼上きたぬまがみ村。竜爪りゆうそう(一〇四一メートル)の南麓にあたる。天正八年(一五八〇)一二月一九日の武田勝頼判物(村松定孝氏所蔵文書)によると、御宿友綱から子息綱貞へ譲与された「平山段銭共」二八貫余が安堵されている。領主の変遷は有渡郡中島なかじま村と同じ。元禄郷帳では高二六石余。旧高旧領取調帳では小島藩領二六石余。平山一帯は諸村の入会で、入会村々は米二石余と銭一〇貫二七二文を上納して利用した(駿河記)龍爪山りゆうそうざん権現社・牛頭天王社などと曹洞宗三枝さんし庵がある(同書)。現在、竜爪山の山頂にある穂積ほづみ神社は明治三年(一八七〇)に龍爪山権現が改称。


平山村
ひらやまむら

[現在地名]碓井町平山

東は千手せんず川を隔てて上臼井かみうすい村、西は穂波ほなみ土師はじ(現桂川町)、南は平原ひらばる村と穂波郡九郎原くろうばる(現嘉穂町)。文明元年(一四六九)に宗貞国が永泉えいせん寺に「臼井荘之内平山五町五段」を安堵している(同年九月五日「貞国書下」永泉寺文書/筑穂町誌)。元和九年(一六二三)の知行高目録(「長興公御代始記」県史資料二)に村名がみえ、高一千二〇六石余が秋月藩領となり、幕末に至る。元禄五年(一六九二)には高一千二三〇石余(田圃志)


平山村
ひらやまむら

[現在地名]岡山市平山

中島なかしま村の北に位置する。正林山に古城跡があり、高松たかまつ城攻めの際には羽柴秀吉側の陣営となり、この山から鉄砲を撃始めて諸陣がみなこれに続いたと伝える(吉備の志多道)。慶長六年(一六〇一)木下家定に平山村八〇五石余が与えられた(「徳川家康宛行状」足守木下家文書)。寛永備中国絵図も同高で、足守藩領。以後も同藩領。正保郷帳に「日損所大」とある。貞享二年(一六八五)の高六八二石余、家数五二・人数二六二(「賀陽郡・上房郡寺社改帳」総社市史編さん室蔵)。天保八年(一八三七)の賀陽郡御道筋諸品書上帳(足守木下家文書)によれば、同二年一部が幕府領となり、足守藩領は高四〇八石余となった。


平山村
ひらやまむら

[現在地名]山北町平山

東と北境を酒匂さかわ川が流れ、西はヶ村、南は内山うちやま(現南足柄市)と接し、北端を谷ヶ関所道が通る。近世は小田原藩領。寛永初期の村高五〇石余(小田原領西筋村々高ノ帳)。寛文一二年(一六七二)の村明細帳(県史四)によれば田七町一反余、畑一六町八反余、山畑二三町二反余、用水はまりけ川と滝水を用い、漆三八三束と五所柿・柿渋・独活などを納め、農間には薪を伐り小田原で商売をした。宝暦五年(一七五五)八月、入会山での馬草刈をめぐって金井島かないしま(現開成町)や内山村と争いが起こっている(「入会山馬草苅妨害につき願書」県史五)


平山村
たいらやまむら

[現在地名]牧村平山、浦川原うらがわら坪野つぼの

高谷たかたに川左岸で北側に緩傾斜した所に位置。平山・一ッ屋ひとつやすももの集落と堂徳どうとく・坪野(現浦川原村)の集落があり、それぞれの鎮守社がある。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「たいら山村 上」、背後に「たいら山」と記される。正保国絵図に村名があり、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では八八石四斗余。天和三年郷帳では高六五石八斗余、うち山高七斗一升四合・漆高四石二斗五升・青苧高一石二斗六升、反別田一町八反余・畑屋敷一〇町二反余・山林六町余・青苧畑七畝一八歩で漆木五〇六本。


平山村
ひらやまむら

[現在地名]諫早市平山町

栗面くれも村の北に位置し、東大ひがしおお川が流れる。近世は諫早郷に属し、はじめ肥前佐賀藩親類同格の諫早家領であったが、元和七年(一六二一)に佐賀本藩に上知されたうちの一村とされる。正保国絵図に平山村とあり、高八三石余。元禄国絵図でも高八三石余。天保一四年(一八四三)の諫早郷鑑によれば、田畠二九町六反余・地米七七石余で、農業一人につき五斗四升八合余の負担、人数二九五のうち農業人一九三、諸職人そのほか一五歳以下一〇二。


平山村
ひらやまむら

[現在地名]三国町平山

西谷にしたに村の東北に位置する。室町時代中期以前の記録「坪江下郷三国湊年貢夫役等事」(大乗院文書)坪江下つぼえしも郷各善番頭配下の在家として平山があり、当村の起源と思われる。寛永元年(一六二四)福井藩領から丸岡藩領となった。

慶長三年(一五九八)の検地帳の末尾部分を記録した越前丸岡領水帳写(吉沢家文書)によれば、総石高七三八・七八石、田方二三町九反余・畑方二〇町三反余。


平山村
ひらやまむら

[現在地名]大月町平山

天地あまじ村の南東、浦尻うらじり川河口に西方から流れ込む谷川の流域にある。「土佐州郡志」は「東西十九町許南北十三町許、其土黒多砂」と記す。村名は天正一七年(一五八九)の小間目七村地検帳にみえ、検地面積四町六反余、屋敷数二うち居屋敷一。江戸時代の当村は元禄地払帳によると総地高五九石余、うち本田高四六石余で蔵入地、新田高一二石余で貢物地。


平山村
ひらやまむら

[現在地名]日立市東河内ひがしごうど

標高七〇―二〇〇メートルの多賀山地丘陵上に位置し、西を里川が南流し、川沿いを棚倉たなぐら街道が通る。南は良子ややこ村。寛永二一年(一六四四)の御知行割郷帳に「平山村」と記されるが、天保一三年(一八四二)東河内上ひがしごうどかみ水瀬みつせ・良子三村と合村して東河内村となった。


平山村
ひらやまむら

[現在地名]安心院町平山

船板ふないた村の西、中山なかやま谷の中央部にある。北は中山村、西は落狩倉おちかくら(現院内町)。近世の領主の変遷は妻垣つまがけ村に同じ。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、高三二石余、人数一一、うち百姓一・名子二、牛二・馬一。


平山村
ひらやまむら

[現在地名]瑞浪市釜戸町かまどちよう 平山

荻島おぎのしま村の南、土岐川南岸の山上にある。土岐郡の東端に位置し、釜戸一一ヵ村の最東部にある。正保二年(一六四五)の国絵図作成時の高四二石(「安藤氏覚書」安藤文書)


平山村
ひらやまむら

[現在地名]天城町瀬滝せたき

瀬滝しだき村の東に位置したが、明治期に廃村となった。「三州御治世要覧」では西目にしめ間切一五ヵ村のうちに「平山村」とある。


平山村
ひらやまむら

[現在地名]門司区伊川いかわ

伊川村の北東に位置する。文永九年(一二七二)一〇月九日の門司六ヶ郷惣田数注文写(甲宗神社文書/鎌倉遺文一五)によると、伊川郷内に平山三町などの名田が散在した。天保郷帳に記載がない。旧高旧領取調帳では平山村として高一二五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android