常楽寺跡(読み)じようらくじあと

日本歴史地名大系 「常楽寺跡」の解説

常楽寺跡
じようらくじあと

[現在地名]摂津市千里丘東一丁目

常楽寺は天平年間(七二九―七四九)行基が島下しましも佐井さい(現吹田市)に滞在中、瑞光の導きにより開いたと伝え、七堂伽藍を備えた大寺であったという(「常楽寺縁起」古木家文書)。その後、三宅みやけ(現茨木市)城主三宅氏の菩提寺となったが、元和元年(一六一五)焼失、元禄一三年(一七〇〇)再興されたといい、廃仏毀釈によって明治六年(一八七三)廃寺となった。旧境内は現在墓地となり、そのなかに三宅氏の墓碑とみられる宝篋印塔がある。台座に「前羽大守要叟正三禅定門 永正八年七月二十四日」の刻銘があるが前羽州大守が誰にあたるかは不明。ちなみに永正八年(一五一一)七月一三日和泉深井ふかい(現堺市)における細川澄元・同高国の争いで、三宅氏らは高国方についたが大敗している(瓦林政頼記)


常楽寺跡
じようらくじあと

[現在地名]阿山町上友田

上友田かみともだの北部ぼうだに今熊野いまくまの社に隣接して存したと思われる。東大寺僧宗性の探玄記第十三巻抄の紙背文書(東大寺図書館蔵)の信玄奉唱状断簡に「(端裏宛書)大夫巳講御房 信玄 千阿弥陀仏敬白 奉唱十方檀那、請奉修造伊賀国鞆田庄内字常楽寺阿弥(陀)堂破損事」とあり、鎌倉時代の初期千阿弥陀仏信玄が伊賀国を巡行した時、この阿弥陀堂を訪ね、堂閣が破壊され仏像が朽損じてすでに久しいのを嘆き、その修造を願っている。字常楽寺阿弥陀堂とあるから、常楽寺そのものは荒廃後地名に等しくなり、阿弥陀堂のみ破壊の形の姿をとどめていたとみえる。


常楽寺跡
じようらくじあと

[現在地名]鯖江市上河端町 常楽

上河端かみこうばたの西端にあった真宗寺院。跡地は字常楽にあり、その西側にはぼうこしの字名も残る。真宗誠照じようしよう寺の開祖如覚の弟道光による開基と伝える。朝倉孝景より下付された享禄五年(一五三二)四月日の壁書(誠照寺文書)に「河俣常楽寺」とある。その位置から本坊誠照寺に対してきたの坊と称し、本坊の代理として代々掟(寺法)をつかさどる末寺中最大の大坊であったため、常に誠照寺と対立した。慶長一〇年(一六〇五)村国むらくに(現福井県武生市)にあった証誠しようじよう寺の調停により詫証文を入れていったん和解したが、その後再燃し、ついに無本寺を宣言した。


常楽寺跡
じようらくじあと

[現在地名]田原本町宮古

中世には存在したが、現在廃寺。寺跡は明らかでないが、「三箇院家抄」第二に「常楽寺七丁四反大卅六歩鏡作西辺也、正願院領 城下郡」、「招提千歳伝記」に「常楽寺宮古」とあり、田原本町八尾やお鏡作坐天照御魂かがみつくりにいますあまてるみたま神社の西方宮古みやこにあったことがわかる。


常楽寺跡
じようらくじあと

[現在地名]東白川村神土

神土の平かんどのたいらにあり、昔は常楽院と称し、飛騨御厩野みまやの(現益田郡下呂町)大威徳だいいとく寺の末寺であった。慶長一九年(一六一四)苗木藩主遠山友政により菩提寺雲林うんりん(現中津川市)臨済宗の寺として創建され、以後宗派の統一が図られたため、転派して雲林寺末となり安泰山常楽寺と号し、檀徒は神土村・越原おつぱら村一円とした。大威徳寺末から雲林寺末になったのは、雲林寺旧蔵の過去帳によれば明暦(一六五五―五八)の初期にあたる。


常楽寺跡
じようらくじあと

[現在地名]むつ市小川町二丁目

田名部たなぶ代官所跡わきに位置する。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「常楽寺 八峰山真言、永福寺末寺、在税官所側」とある。応永三年(一三九六)紀州根来ねごろ山の修験良海が田名部念仏車ねんぶつぐるまに草庵を建立したのが始まりという(下北半嶋史)


常楽寺跡
じようらくじあと

[現在地名]熊本市黒髪四丁目

立田たつだ山の南麓、泰勝たいしよう寺跡の南東に位置する。「国誌」によれば寿福山と号し、臨済宗で京都妙心寺末寺。開基は日羅というが、年代不詳、天台宗に属したともいう。のち浄土宗僧侶が再興、寿徳山常楽寺と号したといい、寛文一二年(一六七二)泰勝寺三世乾明がこの寺地を賜り、小笠原備前長英の菩提所となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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