徳永村(読み)とくながむら

日本歴史地名大系 「徳永村」の解説

徳永村
とくながむら

[現在地名]西区徳永・周船寺すせんじ三丁目・横浜よこはま一―三丁目

志摩しま女原みようばる村の西にある。怡土いと郡に属する。村域は南北に細長く広がり、北端いま山は入海を挟んで志摩郡浜崎はまさき浦と相対する。文和二年(一三五三)四月二九日、田尻たじり四郎丸名の田地二五町などの地が兵粮料所として一色直氏から、「細峯城衆」得永助五郎(実種)・同一族中へ与えられた(「一色直氏宛行状」徳永文書/南北朝遺文(九州編)三)。細峯城は当地に築かれた城とみられ、得永(徳永)氏が拠っていたのであろう。同城は少弐方の城となり、康安元年(一三六一)七月には同城で深堀氏ら菊池武光方と松浦党・龍造寺氏ら少弐頼国方の軍の間で合戦があり(延文六年九月日「龍造寺家平軍忠状」龍造寺文書・正平一六年九月日「深堀時勝軍忠状」深堀文書/南北朝遺文(九州編)四)、正平一七年(一三六二)一一月二七日の征西将軍宮令旨(九州大学文学部所蔵来島文書/南北朝遺文(九州編)四)によれば、松浦中島五郎の「得永合戦」における忠節が賞されている。文明一〇年(一四七八)八月一三日には大内政弘から永久和泉守資長に永久弥七郎範資跡である徳永村二一石の地(田数五町八反小)が与えられ(「大内政弘下文写」正任記)、同年一〇月一三日には仲間若狭守盛秀に八木蔵人跡である得永五町八反が宛行われた(「大内政弘下文写」同書)


徳永村
とくながむら

[現在地名]大和町徳永

名皿部なさらべ村の東、長良川左岸段丘山地にある。大間見おおまみ川と栗巣くりす川に南北を挟まれ、越前街道に沿って集落がある。兼戸かねとに猿ヶ清水(千代清水)があり、往来の人馬が喉を潤したと伝える。大間見川には大野口おおのぐち橋が架かり、栗巣川にも土橋があり、文政六年(一八二三)の三ッ山巡り(国会図書館蔵)に「クルス川土橋徳永村」とみえる。薬師平やくしだいらに六世紀中頃に属する薬師平古墳があり、七鈴五獣鏡(県指定重要文化財)が出土した。栗巣川と長良川の合流地付近、北の徳永村薬師堂と南の河部かべ村薬師堂のほぼ中間地一帯を八日町ようかまちと称する。薬師信仰による八日の縁日に市場が立ったことからの地名と考えられる。恩善おんぜん寺蔵の方便法身像裏書に、明応九年(一五〇〇)一〇月一九日「大榑□養寺門徒濃州郡上郡山田庄栗栖郷八日市 願主釈妙浄」とみえ、八日市ようかいち山田やまだ栗栖くりす郷の内であった。


徳永村
とくながむら

[現在地名]八田村徳永

下高砂しもたかすな村南の御勅使みだい川扇状地末端浸食崖下に発達した複合再設扇状地上にあり、耕地は釜無川氾濫原にある。当村地籍分は広く下高砂村の北・西・南を取巻いて前御勅使まえみだい川右岸にまで及んでいる。南は西野にしの村・上今諏訪かみいますわ(現白根町)。「一蓮寺過去帳」によれば、文明一一年(一四七九)一二月晦日供養の浄阿弥陀仏に「トク長」の注記があり、これは当地のこととも考えられる。天正一二年(一五八四)と推定される申年一二月付の徳川家奉行人連署証文写(寺記)に「徳永之長盛院」とみえ、徳川氏から前年未歳分から棟別銭二軒分を免除された長盛ちようせい院があった。慶長六年(一六〇一)の徳長之郷検地帳(県立図書館蔵)によれば田七町七反余・畑二一町八反余、ほかに熊三不作の畑八町七反余、弾正不作の畑四反余。屋敷は三七筆で計二千九五八坪。


徳永村
とくながむら

[現在地名]御調町徳永

南の丸河南まるかなん村と御調川で接する。御調川沿いに平坦地が広がり、北部の山地部には南東流する支流下谷しもだに川の開析谷の下谷と、その西に中連なかつら谷がある。中連谷には弥生時代後期の土器が出土した高神こうじん遺跡や、箱式石棺を有する徳永古墳群があり、人骨が出土した古墳もある。川沿いの平坦地には条里制の遺構が認められる。「御調郡誌」によると、室町末期には栗原くりはら(現尾道市)千葉氏の支族今田氏の領地。

欠年の八月二九日付の宮実信書状(「閥閲録遺漏」所収高須直衛家文書)に「神村之内徳永」とあり、もとは神村かむら庄に含まれていた。


徳永村
とくながむら

[現在地名]佐賀市久保泉町くぼいずみまち大字上和泉かみいずみ字徳永

西は徳永川(巨勢こせ川)を挟んで東名とうみよう村、南は薬師丸やくしまる村・九郎名くろうみよう(上九郎)、東は上和泉村・下和泉村、北は来迎寺らいごうじ村・川久保かわくぼ村に接する南北に長い村。文化一四年(一八一七)の郷村帳によれば篠木野・光岡・川原の各集落を含む。徳永飴で知られる薬師丸村の徳永町とは隣接しているが別の村。現在でも徳永村は久保泉町、徳永町は金立きんりゆう町に属し、区別を明確にするため徳永村を村徳永とよんでいる。

承元三年(一二〇九)に肥前留守所から河上かわかみ神社の五月と八月の流鏑馬の勤行を指示した文書(河上神社文書)の中に、佐賀郡に得永とくながという地名がみえ、これが徳永と考えられるが明確ではない。


徳永村
とくながむら

[現在地名]中伊豆町徳永

大見おおみ川の支流ひえ川と徳永川の最上流域谷間にある村。西は冷川ひえかわ村、東は冷川峠を挟んで鎌田かまだ(現伊東市)。永享六年(一四三四)一二月二九日の中原師貞打渡状(円覚寺文書)に、長尾左衛門尉景仲が横領した伊豆国伊東庄内の一村として徳長・源田げんだがみえ、万寿寺雑掌に打渡されている。源田は当地の字名。岩徳高いわとくたか神社の天正二年(一五七四)の上梁文に「伊豆国徳永之百姓中」(増訂豆州志稿)とある。文禄三年(一五九四)八月に代官頭彦坂元正による検地が行われ、五日付の検地帳(冷川区有文書)に「大見之内徳永村」とある。上田二町二反余・中田五反余・下田二町五反余、上畑一町余・中畑五反余・下畑一町三反余、当不畑一畝六歩、屋敷三反余。


徳永村
とくながむら

[現在地名]豊津町徳永、行橋市東徳永ひがしとくなが

はらい川東岸の段丘上に村落が形成され、対岸は田中たなか村、東は当村から分れた袋迫ふくろさこ(現行橋市)。元和八年人畜改帳では給人一人分の高三三二石余、家数一四・人数二三(うち庄屋一・百姓四・鍛冶一・名子など三)、牛三・馬一。郷村高帳では高四八五石余、うち新田高一五二石余。旧高旧領取調帳では高四〇七石余。定免制施行後の年貢率は二三・五パーセント(嘉永五年仲津郡本田畑御勘定帳)


徳永村
とくながむら

[現在地名]協和町三郷さんごう

中央を観音かんのん川が南流し、北は古郡ふるごおり村、南は荻島おぎしま村。延宝五年(一六七七)の常陸国新張郡徳永村田方名寄帳・畑方名寄帳(中島家文書)によると、田が六町二反一畝二八歩、畑が一五町二反六畝二六歩で、延享三年(一七四六)には、見付畑・林畑・芝畑を合せ七町余が新田として検地されている(「常陸国真壁郡徳永村原地新田検地帳」同文書)。安政三年(一八五六)の助郷免除の願書(同文書)には、「私共村方之儀は、北南ハ谷原附地窪之村方ニ殊ニ天水至地味悪敷、降続キ候得は、水湛悪水吐所無之」とあり、水干の難儀をもつ村であった。


徳永村
とくながむら

[現在地名]美山町徳永

武儀むぎ川北岸にあり、岩佐いわさより谷合たにあいに至る道と、柿野かきのに至る道の分岐点にあたる。南は佐野さの村。佐野四ヶ村のうちで、慶長郷帳のうち小物成之覚に「多芸郡 徳永」とあり、山年貢・紙舟役を記すが、武儀郡の誤りである。初め幕府領、元和五年(一六一九)尾張藩領となる。慶安四年(一六五一)の人数一五〇、馬二二(明暦覚書)。元禄郷帳では高四一石余。


徳永村
とくながむら

[現在地名]篠山市徳永

大山中おおやまなか村の南部に位置し、南に波賀尾はがお岳がある。中世、大山庄の地頭中沢氏の所領があったという。承応三年(一六五四)頃に大山中村から分立したという。「丹波志」に大山庄大山中のうち「徳永」とみえ、高七七石余。天明三年(一七八三)の篠山領内高並家数人数里数記では大山組のうち徳永村とあり、家数二一・人数九七。「多紀郡明細記」によれば、山役米一斗のほか、小物成茶役や薪一〇荷・瓦焼木六束を納めていた。


徳永村
とくながむら

[現在地名]行橋市徳永

延永のぶなが村の北西、平尾ひらお台の東麓に位置する。元和八年人畜改帳に村名がみえ、高三九六石余、家数二九・人数五八(うち百姓七・名子四)、牛七・馬五。郷村高帳では高四四三石余、うち新田高四九石余。旧高旧領取調帳では高三七三石余。元禄一五年(一七〇二)の京都郡薪札御改帳(郡典私志)に、薪札運上銀納の村として徳永村分と徳永村がみえる。


徳永村
とくながむら

[現在地名]西尾市徳永町

市の南西に位置し、寺津てらづ村の東に隣する。東の水田地帯は三角州平野。応永(一三九四―一四二八)の頃、徳永小七郎義雄なる者がこの地を領し、城を築いたところからこの村名が生れ、不退院上衍じようえん寺も、同人が悦山暢喜を開山として建立したという(不退院文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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