笑い(読み)ワライ

デジタル大辞泉 「笑い」の意味・読み・例文・類語

わらい〔わらひ〕【笑い】

笑うこと。また、その声。えみ。「もうかりすぎて笑いがとまらない」
(「嗤い」とも書く)あざけり笑うこと。嘲笑ちょうしょう。「聴衆の笑いをかう」
性に関係するもの、春画淫具などの総称。
石を積むとき、間にモルタルなどを詰めず、少しあけておくこと。また、そのあけた所。
[下接語]愛嬌あいきょう笑い愛想あいそ笑い薄ら笑い薄笑い大笑い思い出し笑い豪傑笑い忍び笑いせせら笑い空笑い高笑い千葉笑い追従ついしょう笑い作り笑い泣き笑い苦笑い盗み笑い馬鹿ばか笑い初笑い独り笑い含み笑い福笑い物笑いもらい笑い
[類語](1笑み微笑み哄笑朗笑爆笑微笑苦笑微苦笑嘲笑嗤笑一笑冷笑失笑嬌笑呵呵大笑破顔一笑抱腹絶倒笑壺噴飯スマイル/(2笑止千万ばかばかしい馬鹿らしい馬鹿臭い詰まらない馬鹿愚か愚かしい阿呆らしい阿呆臭い下らない馬鹿げる愚劣無思慮ぶしりょ無考え浅はか浅薄せんぱく軽はずみ軽率笑い事笑止片腹痛い噴飯物噴飯大笑い高笑い哄笑爆笑呵呵大笑抱腹絶倒笑い崩れる笑いける笑い転げる吹き出す腹の皮をよじ腹の皮を腹を抱える御中おなかを抱えるおとがいを解く愚にも付かぬへそで茶を沸かすへそ茶聞いてあきれるちゃんちゃらおかしい

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精選版 日本国語大辞典 「笑い」の意味・読み・例文・類語

わらいわらひ【笑・咲】

  1. 〘 名詞 〙 ( 動詞「わらう(笑)」の連用形の名詞化 )
  2. 笑うこと。えみ。また、その表情やその声。
    1. [初出の実例]「さすがに、忍びてわらひなどするけはひ、ことさらびたり」(出典:源氏物語(1001‐14頃)帚木)
    2. 「なに事ぞ、今つきもない時のわらひや」(出典:咄本・醒睡笑(1628)五)
  3. あざけり笑うこと。ものわらい。嘲笑。
    1. [初出の実例]「恥を忍で苟も生る者は、立(たちどこ)ろに衰窮の身と成て、笑(ワラヒ)を万人の前に得たる事を」(出典:太平記(14C後)一一)
    2. 「バンミンノ varaito(ワライト) ナル〈訳〉民衆、あるいは皆の軽侮の対象となる」(出典:日葡辞書(1603‐04))
  4. 性に関係あるもの、春画、春本、淫具などの総称。
    1. [初出の実例]「笑ひとはそら言よがる道具なり」(出典:雑俳・末摘花(1776‐1801)四)
  5. 和解すること。仲直りすること。
    1. [初出の実例]「お浜の衆と汐留の若い衆との喧嘩の時、〈略〉組元顔役が、仲へはひって笑(ワラ)ひになり」(出典:歌舞伎・金看板侠客本店(1883)四幕)
  6. 石を積むのに、目地が少しあくように積んで、そこにモルタルを詰めないでおくこと。また、そのところ。
  7. 取引市場が景気づくこと。相場が上騰すること。〔新時代用語辞典(1930)〕

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改訂新版 世界大百科事典 「笑い」の意味・わかりやすい解説

笑い (わらい)

人間における感情表出の一つ。日本語における笑いにはさまざまなニュアンスが含まれており,その違いは,たとえば〈微笑〉〈苦笑〉〈冷笑〉〈大笑〉〈嬌笑〉〈哄笑〉といったごとく形容詞を頭につけることによって表される。これに対して英語では,声をたてるかたてないかをおおまかな基準としてlaugh(笑い)とsmile(ほほ笑み)の区別がある。上の例でいえば,前3者はsmile,後3者はlaughの範疇に入る。

動物に笑いを認めるかどうかは議論の分かれるところであるが,ヒト以外の動物では,表情筋が発達していないという解剖学上の理由もあって,はっきり人間の笑いと同一視できるものはない。しかし,少なくとも笑いの原形とみなしうるような表情が高等動物,ことにイヌやサル類にみられる。動物行動学者ファン・フーフJ.A.R.A.M.van Hooffは,人間の笑いのうちのsmileとlaughが別の起源をもつと主張している(1972)。すなわちsmileは高等霊長類の劣位の表情に,laughは威嚇の表情に由来するというのである。劣位の表情は逃走の際,それも退路を断たれたようなときによくみられるもので,耳を倒し,〈キーキー〉といった声を出すか,あるいは沈黙したまま唇を引いて歯をむきだす。これは服従ないし防衛,つまり敵対心の放棄の意味をもち,転じてチンパンジーでは親愛の信号としても用いられる。人間の〈ほほ笑み〉が親愛の意思表示としてだけでなく,強者に対する〈へつらい〉や〈おべっか〉という文脈で用いられることとよく符合する。これに対して威嚇の表情は追撃の際などにみられるもので,大きく口を開き,しばしば〈オー〉とか〈アー〉とかいう発声を伴う。この表情には攻撃的・優越的な意味合いが明白であるが,転じてチンパンジーでは,〈陽気〉な気分の表出として遊びの信号としても用いられる。大声を伴う人間の〈笑い〉がしばしば攻撃的な文脈でみられることとよく符合する。実際にサンでは〈笑い〉は悪態と並んで,攻撃衝動の発散に重要な役割を果たしている。
執筆者:

人間の笑いは,生後に学習するのではなく,生まれつき備わった能力によるのであり,目が見えず耳も聞こえない幼児でも,母親がくすぐってやると笑顔が現れる。新生児が生まれてまもなくから,ミルクを飲んだあと目を閉じてまどろんでいるときなどに笑顔をみせることは昔から知られ〈神様がくすぐるのだ〉などという言い方がされてきた。また,3ヵ月くらいになるとだれかが顔を近づけたり面を近づけると,笑うようになる。これは3ヵ月微笑と呼ばれ,対人関係のための自発的な笑いとして,幼児の正常な心身の発育の指標とされる。ただし発現の遅速の個体差はかなりの幅がある。3ヵ月微笑は,捨子の養育院などで世話された母親をもたない新生児では,発現がひどく遅れたり観察されなかったりすることが知られている。発育が正常であれば8ヵ月では人見知りによる不安を示すようになる。また特定の愛情対象に対する笑顔が明瞭になる。こうして発現する新生児の笑いは,単に新生児の発育の指標であるばかりでなく,母親や保育に当たる人にとっても重要である。母親は新生児の笑顔,とくに自分に向けられた笑いによって育児の苦労をいやされる面がある。乳幼児のきげんのよい笑いは,単に保育の場で効果があるだけでなく,周りの成人たちの積極的な関心をひくばかりか,その場の雰囲気を明るくなごやかにする。したがって笑いは一般的に,自発的積極的な対人関係の開発や連帯の維持の基礎の一つとして発現してくるといえる。言い換えれば精神の生理的基礎の一つである。

 笑いは,成人においてどのように複雑微妙な発現形式をとっても,人間関係のなかで最も頻繁に採用される感情表出の一つである。怒り,威圧,屈服,要求などの対人関係の危機的場面においても,なお関係を維持したいという表現のためには笑いが加えられる。決然として対人関係を破局に導くことは,怒り,要求などのあからさまな感情表出の結果でもあり,そこには一種の割り切れた爽快さもありうるが,それをそこなうかわりに,そこに加えた笑いは関係を維持する意思表示となりうる。反面,本人がほんとうにおかしく思っている笑いや,成功の会心の笑いなど,本来そのまま笑ってよいはずの場合でも,居合わせる人への配慮から,抑えた笑いになることもある。笑いはこうして,成人の間では対人関係における文化現象としての笑いという性質を獲得する。これは学習の結果であり,生育環境や気質によって現される複雑な感情表出である。それゆえ文化現象としての笑いは,時,所,場合によって適切な笑いがあり,成人,老人といった年齢により,また,男らしさ女らしさの笑いがある。社会的地位や職業によっても,それらしい笑いの型のあることは俳優の演技によって知られる。人間はみずから笑うだけでなく,他人の笑いを学習する。必ずしも意識的にではなく,むしろ共感による同一化によって習得するのである。したがって笑いは文化集団によって,また同じ文化集団でも時代によって,異なる様式をもつことは他の文化現象と同様である。日本でも,男子は人に歯を見せて笑うものではないと教育した時代があった。ポリネシア文化トンガ王国では,人は朗らかに笑うのがよいとされ,全身で笑っているような例がふつうにみられる。アフリカのサバンナでの遊民生活の人々では,ふだんの顔つきはむしろきびしく,笑いには明快さとでもいえる雰囲気を感じる。また,人を笑わせる職業を含んでいる文化は多く,なかでもトリックスターには社会の中で特殊な地位が与えられるのがふつうであり,人間における笑いの意味は深い。
執筆者:

日本の民俗儀礼の中には,胞衣(えな)を埋めるときに3度笑うエナワライ,猟師の成年式にあたるサケフリマイ,さらに婚礼での出家式の際の笑いや小正月の火祭(オンベ笑い,サイゾウワライ),田植後のサナブリのほか,各地の笑い祭,悪態祭,山の神祭などに儀礼的な笑いをみることができる。これらの笑いには,古い死すべきものを笑いとばして,新しいもの生成すべきものを出現させるという機能をみることができる。〈来年のことを言うと鬼が笑う〉とか〈笑う門には福きたる〉ということわざにもそれがうかがえ,伊勢・志摩地方では正月のしめ飾に〈笑門〉の文字を書く風もある。笑いは逆転やさかしまのイメージと結びつき,公的なもの,権威あるものを一瞬のうちに破壊しひっくり返すところから,年や季節の変り目といった時間のはざまや人生の節目には笑い祭などの笑いの儀礼が行われるのである。こうした笑いは,古く記紀の天の岩戸神話にもみられる。この神話では,天鈿女命(あめのうずめのみこと)の神憑り(かみがかり)による卑猥な踊りに八百万の神々がどっと哄笑すると,岩戸に隠れていた太陽神の天照大神が再び姿を現したと語られており,笑いを契機に冬から春へ,夜から昼へ,さらに太陽の更新といった転換がなされている。

 笑うのは人間だけであり,笑いは徹頭徹尾生の世界に結びつき,生を創出させるものでもある。したがって,生の世界であるこの世とは異なった死の世界(冥界)では笑いは禁じられている。このことは〈猿地蔵〉のような昔話で,隣の爺が笑いのタブーを犯したためにひどいしうちを受けると語られていることをみてもわかる。笑いの禁止のテーマは広く世界各地の神話や昔話の中にもみられる。また,日本には初物を食べるときには大声で笑って食べるという風習をもつ地方もある。これは初物という神のもの,未知のものを,笑いによって人間のものへ,食べることができるものへと変えるのである。笑いは結びつきそうもない対立するものが急激に衝突したときにも発生する。その典型は生と死の同居であり,〈絵姿女房〉譚の中にははらみ女が真っ二つに切られたのを見て笑わぬ姫が笑ったという筋の話がある。笑いは,生と死という転換のプロセスだけでなく,その両極をも含んだ包括的で両義的なものといえるのである。グロテスクな笑いはカーニバルの中に頻出する。この笑いは,日本の民俗や民話の中にもゆるめられた形ではあるがみることができ,笑いは生から死へといった連続から不連続へ移る際に発せられている。
嗚呼(おこ) →笑話しょうわ) →笑い話
執筆者:

人はなぜ笑うのか。〈笑いとは何か〉の問題はヨーロッパにおいて,古代ギリシアの昔から論じられてきた。プラトンはすでに《フィレボス》の中で,笑いがたいていの場合,他人の犠牲のもとに生じるものであることを語り,笑いにおける〈悪意ある性格〉を指摘している。これは笑いの一面,それもとりわけ重要な一面を言い当てているだろう。笑いの定義のうち,ホッブズが《人間論》(1658)に述べているところがとくに有名である。ホッブズによると笑いとは〈他人の弱点,あるいは以前の自分自身の弱点に対して,自分の中に不意に優越感を覚えたときに生じる突然の勝利〉を表すものだというのだが,この〈笑い=優越感=勝利の表現〉という考え方は,永らくヨーロッパの人が笑いを考える際の定式となってきた。例えばベルグソンの《笑い》(1900)には,ホッブズの名前は一度も言及されていない。しかし笑いを究明するにあたってベルグソンが立てた〈生きものの上にはりつけられた機械的なもの〉というテーゼに,ホッブズ的笑いの定式を読みとるのはさほど困難ではない。S.フロイトは潜在意識にさぐりを入れて,《機知--その無意識との関係》(1905)の中で,〈制約されていた衝動が突然満たされたときに生じる心的状態〉に笑いの発生をみているが,そこにも明らかにホッブズ流の〈笑い=勝利の表現〉という見方がみてとれる。劇作家M.パニョルが《笑いについて》(1947)で語っているところも同様である。笑いという〈この世で最も複雑な人間表現〉を定義してパニョルはこう述べている。〈笑いは勝利の歌である。それは笑われる人に対して笑い手のうちに突然見いだされた優越感の表現である〉。この点,笑いを語った著名な文献の中で,ボードレールの《笑いの本質》(1855。のち《審美渉猟》に収録)は異色のものだろう。詩人であるとともに卓抜な美術批評家であったボードレールは,ゴヤやカロやドーミエの風刺画を通して,グロテスクな笑いや悪魔的な笑いといった,すこぶる20世紀的な笑いの分野をいち早く的確にとらえている。

 ホッブズ的笑いの定義の背後には,ホッブズが生きた17世紀ヨーロッパがあった。身分制社会の中で,階級的ルールやエチケットが支配する宮廷やサロンや社交界であり,そこでは〈笑いもの〉になることが命とりにもなりかねなかった。すなわち笑いが社会的制裁としての役割を果たしていた。ホッブズと同時代に生きたフランスの文人ラ・ロシュフーコーがアフォリズムの一つに記している。〈滑稽は不名誉よりも人の名誉をそこなう〉。ベルグソンの場合にも,その《笑い》が書かれた1890年代の終りという時代性を考えなくてはならないだろう。ベルグソンは肉体と精神の両面にわたって,本来しなやかであるべきところに入りこむ機械のような〈こわばり〉や硬直を問題にした。その〈こわばり〉や硬直は,至るところに〈機械化〉が始まった時代に特有の現象であり,19世紀的科学信仰の成果と切っても切れない関係にある。ベルグソンの笑いの理論は大衆娯楽や無声映画の登場を背景としている(チャップリンにおける笑いの方法を語るのにうってつけなのはそのせいである)。つまり,笑いそれ自体と同様に笑いの理論化にも時代性が無視できない。

 社会的制裁としての役割に限らず,笑いは有効な批評の機能を備えている。中世ヨーロッパの笑話や笑劇や謝肉祭劇や阿呆文学はしばしば,おかしみや滑稽を通して,教会のドグマや身分制社会のひずみや人間性そのものに鋭い疑問を投げかけてきた。笑いは中世的なモラルや処世の秘訣を教えるための楽しい手段である一方で,性的なことも含め,世の中のさまざまなタブーに挑戦する機会を与えた。笑いはつねにそれがもたらす解放感によって健全な人間精神のあかしであった。〈愚者の自由〉はまた民衆の声であった。

 グリム童話をはじめとしてヨーロッパの伝承話には,笑いを忘れた人間をテーマとする類話がある。生まれてこのかた一度も笑ったことのない人間がいて,それを笑わせた者が大きな幸を得る。〈笑わない人=病人〉だからであって,笑いに精神的な治療の力をみていたからだろう。ボッカッチョの《デカメロン》(1353)には,笑いに対するこのような考え方が生かされている。100の笑話の語り手はペストを逃れて田舎にやってきた人々である。心ふさぐ十分な理由があり,状況が危機的であるからこそ,それだけ切実に笑いが必要であった。状況とのコントラストが笑いにとっていかに有効であるか。笑いの要素の色濃い文芸作品にひとしくみられる構造的な原理といえる。

 16世紀の中世的な価値の崩壊から18世紀の近代社会の確立までの間に,ヨーロッパは3人の偉大な〈笑い人間〉を生み出している。ラブレーとセルバンテスとスウィフトである。ラブレーにとって笑いは〈人間の本性〉だった。《ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語》全5巻(1532-64)には,ありとあらゆる笑いがあふれている。けた外れのスケールをもった主人公は,この世の古びたもの,固着したもの,窮屈なもの,笑うべき愚かしいもののいっさいを笑う。セルバンテスの《ドン・キホーテ》においては,主人公の時代錯誤的な〈こわばり〉と同時に,従者サンチョ・パンサとの対比,無垢な心と世間的処世知とのコントラストが笑いをさそう。さらに主人公の笑うべき〈高貴な単純さ〉が時代の断層を映し出す鏡の役目を果たしている。スウィフトの場合,笑いと怒りという相反した感情表現が強引に結びつけられている。食糧問題を解決するため人間の赤ん坊の食用化を提案した風刺作品《おだやかな提案》(1729)にみるように,笑いという仮装の下に政治に対する手厳しい怒りが語られており,それはシニカルな笑いに,グロテスクな笑いに,悪魔的な笑いにまで高まるものであった。ラブレーもセルバンテスもスウィフトも,たえず笑いを通して賢と愚,正気と狂気,破壊と創造といった両義的な価値を問題にした。近代ヨーロッパの大きな過渡期は新しい笑いの生まれ出る過程でもあった。

 ヨーロッパにはまた〈ノンセンス物〉と呼ばれる笑いの表現の伝統がある。風刺やパロディが社会批判の役割をもった攻撃性の強い笑いだとすれば,こちらは比喩や言葉遊びに基づいて〈おかしみ〉を楽しむ要素がより強い。その種の愉快な伝承歌謡〈マザーグース〉をもつイギリスは,E.リアの《ノンセンスの絵本》(1846)やL.キャロルの《不思議の国のアリス》(1865。アリス物語)といった代表作を生み出した。その反面でノンセンス物の発達は,すみずみまで市民モラルが支配していた19世紀ビクトリア朝イギリスにおける心的状態をも示している。人工的な言葉の操作による意味と無意味とのたわむれの中で,社会的な緊張から隔りをとり,つかの間の自由と解放を求めたわけで,笑いが心理的安全弁の役割を果たしていたといえるだろう。20世紀になってダダイストやシュルレアリストたちもノンセンスの笑いを愛用した。彼らの場合,その役割はより攻撃的であった。〈黒いユーモア〉と呼ばれる言葉や物体のコミカルな変形・変造を通して,市民モラルや時代の一般的な見方・考え方に挑発をしかけ,人々の意識に変革を及ぼそうとした。

 第2次大戦以後のマス・メディアの急激な発達は,笑いの量とともに笑いの質を大きく変化させた。笑いは本来,威厳や体面をそこない,価値の下落をうながすものであって,だからこそ批判の一つの方法であり厳しい攻撃性を帯びていたのだが,マス・メディアから次々に送り出されてくる笑いは,もはやそのような機能をもちえない。今日の笑いは需要に基づいて供給される〈商品〉の性格が著しい。送り手と受け手の双方がたえず新しい笑いを求める一方で,その無害化とコピー性が進行しないではいないのである。現代の笑いは社会的制裁や批評機能としてよりも心理的安全弁の役割をもち,今後ますますその性格を強めていくだろう。この点,文学キャバレー(カバレット)と呼ばれ,ヨーロッパの都市に必ず備っていた批評性の強い笑いの場が姿を消すか,あるいは単なる娯楽の場に変化したのは象徴的である。現代の道化やトリックスターは,意味と無意味の間の微妙な世界でみずから楽しみ,人を楽しませるよりも,めまぐるしい瞬間をときほぐすべき〈とめどない笑い〉を強いられている。その種の管理された〈笑いもの〉がマス・メディアを徘徊している。このような傾向を,笑いの量的拡大による質的失墜とする見方は当然である。と同時に,長い歴史の中でさまざまな笑いのサンプルを生み出してきたヨーロッパもまた,新しい笑いへの過渡期にあるとみることもできる。意味と無意味との間のたわむれが意味をもつノンセンス詩や,意味をもたないテキストとしての小説や,廃品の組合せによる造形(ジャンク芸術)などが示しているように,笑いの意味と機能の転換が着々と進行している。
道化 →トリックスター
執筆者:

《古事記》の天の岩屋戸の段に,天宇受売(あめのうずめ)命が日影蔓(ひかげのかずら)をたすきにかけ,真拆蔓(まさきのかずら)を髪飾として,笹の葉を持ち,岩屋戸の前で〈うけ(桶のように空洞の容器)〉をドンドコと音を立てて踏み鳴らし,神がかりして〈胸乳(むなち)をかき出で裳緒(もひも)をほとにおしたれ〉るという所作をするところがあって,この所作を見た八百万(やおよろず)の神々はともにどっと笑ったとある。これは天宇受売の所作がおかしくて笑ったわけであるが,同時に,悪霊を追い払い,悪しき現状を変えようとする演出でもあった。これは物語としては,天照大神が岩屋戸に隠れて天地が暗黒になり,神々の計略で再び天照大神が出現し,光を回復するというものだが,同時にそれは鎮魂の祭式とこだまし合っており,天照大神の岩屋戸からの出現は,祭式的な再生であり更新でもあった。しかも,その更新は単なる生命の更新や社会的・宇宙的な秩序の回復を意味するのではなく,ひとつの試練を経て,高天原の至上神,天空に輝く太陽神として新たに誕生することであった。このように《古事記》の中の笑いは,物語のレベルと祭式的なレベルとが重なり合って多義的なものとなっている。この《古事記》の中にかいま見られる祭式的な笑いは,古代の多くの祭式の中でも現実に見られたと考えられるが,こういった流れの中から散楽,猿楽が現れる。平安時代の猿楽の様は《新猿楽記》や《明衡往来(雲州消息)》に見ることができる。

 一方,文学としても笑いが目的となることもあって,古く《万葉集》巻十六などには笑いをさそう歌が多くみられる。たとえば大伴家持の〈瘦(や)せたる人を嗤咲(わら)ふ歌二首〉として〈石麿(いわまろ)にわれ物申す夏瘦に良しといふ物そ鰻取り食(め)せ〉〈瘦す瘦すも生けらばあらむをはたやはた鰻を取ると川に流るな〉などである。こういった滑稽な歌の伝統は,《古今集》になると〈雑〉の部に収められ,誹諧歌という名称が与えられる。《新古今集》になると,その歌は新たな芸術的高まりをみせるものの,この誹諧歌が十分に評価されず,笑いの伝統はむしろ短連歌などの分野に受け継がれ,やがて《誹諧連歌抄(犬筑波集)》などの誹諧の連歌が行われ,近世に入ると貞門俳諧,談林俳諧を経て,蕉門に至って笑いと芸術性が真に止揚されるに至る。

 散文の世界では,平安時代に《竹取物語》があって,神話的な世界と密接にかかわる竹取の翁とかぐや姫の物語をパロディ化することによって,新しい〈物語〉というジャンルを作り上げた。その文体も,神話的言語を相対化する新しい言語意識によって息づいている。物語の祖と称されたゆえんであろう。その後,《伊勢物語》の世界のパロディのような《平中物語》も現れるが,笑いを文学の重要な要素として自覚したのが《今昔物語集》をはじめとする説話文学であった。《今昔物語集》巻二十八には〈おこばなし〉が収められ,《古今著聞集》では〈興言利口〉の部が立てられた。このような動きは,室町~戦国期になると,御伽衆(おとぎしゆう)の活躍などとあいまって,口頭でもさかんに行われていたらしいが,近世になると《曾呂利咄(そろりばなし)》などとして刊行され,中国の《笑府》などの影響もあってか,笑話集《昨日は今日の物語》《醒睡笑》なども現れる。これらの笑話(しようわ)はのちの落語の源流ともいわれている。

 演劇では,笑いは中世の狂言に代表される。近世に入ると,笑いは歌舞伎の中に未分化な形で含まれているものの,近世の日本では,喜劇はジャンルとして成立することがなかったようである。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「笑い」の意味・わかりやすい解説

笑い
わらい
laughter

一般には、一連の顔面筋を共動させる一定の表情運動を伴う快適な情動反応をいう。笑いには、微笑、哄笑(こうしょう)、苦笑、冷笑、嘲笑(ちょうしょう)、失笑などさまざまなものがある。微笑は乳児期にすでに出現するもので、当初は哺乳(ほにゅう)の満足時に生じるが、やがて他人からの刺激によって引き起こされる社会的微笑が出現する。その後しばらくすると、物理的刺激を突発的に与えたりすることで哄笑するようにもなる。笑いは(1)身体への刺激による笑い、(2)うれしさの笑い、(3)おかしさの笑い、(4)てれ隠しの笑い、(5)演技としての笑い、(6)病的な笑い、のようにも分類できる。

 身体への刺激とは、くすぐるような場合であって、乳児期にもみられるし、幼児では遊びに取り入れている。うれしいという情動に伴う反応であるうれしさの笑いとともに、人間以外のサルにもみられることから、身体への刺激による笑いとうれしさの笑いとは、笑いの原型と考えられている。おかしさの笑いは機知wit、滑稽(こっけい)comic、諧謔(かいぎゃく)humorの三つに大別される。てれ隠しの笑いは、人前で失敗したとき恥ずかしさを隠すために笑う場合をいう。演技としての笑いの代表は挨拶(あいさつ)における笑いであって、内心はうれしくもおかしくもないのに他人に微笑してみせることがある。病的な笑いには、統合失調症(精神分裂病)にみられることがあるもので、他人にはなぜ笑っているのか理解できない空笑(そらわら)いleeres Lachen(ドイツ語)や、笑うべき理由なしに現れるてんかん性の短い笑いである笑い発作laughing attackなどがある。

[花沢成一]

笑いと哲学

笑いにはきわめて多様な人間的内容が含まれており、それを引き起こす要因として、身体的生理的原因や心理的原因さらに他人との関係が考えられ、哲学者は古くからその性質を規定しようとしてきた。古代には滑稽(こっけい)を道徳と関連して説明しようとする傾向があり、アリストテレスは生理的ないし道徳的な醜さ、劣悪さのなかに滑稽をみようとしたが、これはすでに自分の徳を実際以上に優れていると思い込む人間の無知に滑稽をみるプラトンの問答のなかに表されており、また笑いを嫉妬(しっと)の情に快感が混入しているとするプラトンの対人的関係を底流にした考察は、さらに変化して、近代になると自己との比較において他人のなかに劣ったもの、不完全なものをみて、そこに自己の優越性を感ずることが笑いになると考えられてくる(ホッブズ、デカルト)。

 ところで、笑いが自分と他の人との比較によって生ずるとするなら、笑いは知的な観察の結果であるということにもなる。この知的な認知を中心にした理論として、笑いは抽象的に考えられた事柄と現実のさまざまな対象との間の不一致を突然把握することから生ずるとする見方(ショーペンハウアー)や、生きた人間において無生命的、機械的なメカニズムを思わせるようなものを認めること、生のメカニズム化、自然的なものになんらかの人為的なものが置き換えられることによって表されるとする立場(ベルクソン)がある。また、笑いは内面的にはある心的過程の結果として表される反応である。そこで、カントは笑いを、張り詰めた期待が突然無に解消することから生ずる、つまりある期待に緊張していた心が突如として緩められ、ほぐれてしまうことによって生ずるとする。さらに、笑いを引き起こす機知、滑稽、ユーモアなどの心理的過程を、心的エネルギーの抑制と消費、消費の違いのメカニズムから包括的に説明しようとするのがフロイトの理論である。とにかく、笑いには笑い手に平静な心が必要であり、他人や自分を一定の距離を置いてみることが条件になる。不安や恐怖に駆られていたり、激しく憤慨していたり、深い哀れみや同情の思いにつかれている場合には笑いは生じない。したがって、笑いは安全感や危険がないという感情を土台にした反応であり、そのなかでの個人の快さの体験であり、不快を紛らす表現であるといえよう。

[吉沢慶一]

笑いと人類学

笑いは喜怒哀楽などを顔面に表出させる表現様式の一つであり、社会的な生理現象である。人間固有のものとされ、その本性については古来からさまざまに言及されてきた。たとえば、ホッブズは、笑いとは自己に突然卓越性を認めたときの優越感であると論じ、ベルクソンは、流動的であるべき生が、こわばり、機械化したときに笑いが生じるとし、フロイトは、心的エネルギー消費の節約という観点から笑いを力動的にとらえた。また近年、このような論点をまとめ、笑いを総括的に理解しようとする動きもある。すなわち、人間は広い意味での枠組みによって世界と接していると仮定し、この枠組みが突然のできごとによって混乱した際に、その枠組みを維持していた心的エネルギーが解き放たれて笑いが生じる。そして笑いが持続している間、その枠組みのもつ現実らしさが生理的に消し去られる、と論じる。

 社会のなかでの笑いに目を転じれば、多くの文化において笑いは、さまざまな形で儀礼的に制度化されている。代表的な例は冗談関係joking relationshipといわれるものである。アフリカの父系の民族集団ゴゴの人々は、集団分類、法的権威、地位などにかかわる父方の人々に対して、祖父と母方の人々に出会ったときには、親しみと敵意の入り混じった冗談をいって笑い合うのである。このような笑いは、人間を分類し格づける社会的枠組みと深くかかわっており、共同体の基本秩序をなす集団と共同意識を実現する秩序外集団とを切り離すと同時に結び付けている。その意味でかかる笑いは一つの境界状況となっており、宇宙論的広がりを実現しているといえる。笑いは実に、精神、身体、社会の接続点なのであり、生の基本要件なのである。

[永渕康之]

笑いの比較行動学

笑いはうれしさ、おかしさという陽気な感情を表す精神・身体運動である。笑いを引き起こす精神内容や、身体に表れた動きはきわめて複雑である。英語では発声を伴う笑いをlaugh、伴わないものをsmileと分けて用いるが、日本語では後者を笑(え)みとよび、これに対し前者を狭義の笑(わら)いとする。怒りや悲しみは人間以外の動物でもみられるが、笑いは一般的でないために、人間だけが「笑うことのできる動物」と称される。しかし、チンパンジーはある種の人間的な笑顔をつくる。また、発情した牝(めす)ウマの尿は独特な匂(にお)いを放つため、牡(おす)ウマはその匂いをより多く吸い込むように鼻孔を広げる独特の表情をつくる。これをウマが笑う(フレーメンFlehmen)という。イヌはしっぽなど、全身で喜びを表すが、顔の筋肉は単純であり、人間の笑いに相当する動きは示さない。

[香原志勢]

笑いの起源

オランダの動物行動学者バン・フーフJ. A. R. A. M. van Hooffによれば、smile(ほほえみ)とlaugh(笑い)とは人間以前のサルに別々に起源をもつ。窮地に陥ったサルは唇を横に引き、歯をむき出して、服従、防衛、または敵対心放棄の心情を示す。この際キーキー鳴くこともあるが、声を出さないままのことがあり、これが親愛の情の表示に発展し、人間のsmileに通じるが、追従やへつらい、せじ(世辞)笑いに変ずることもある。一方、威嚇的な態度をとるサルは口を大きく開いてにらみ、次の段階でオーまたはアーと声を出し、相手に対し優越性を表すが、人間のlaughはこれが発展したものである。人間が高笑いをするときには、多分に攻撃的であるとみられる。子供たちの間でも、服従的な子がいばっている子と友達になろうとするときのほうが、優位の子が弱い子と仲よくしようとするときよりも、笑ってみせることが多い。そのことは、友好関係を願う人間が相手にほほえむのは、サルが恐ろしい相手にただ歯をむき出すのとそれほど違わないことを示唆する。

 通常、顔に表れる笑いが目につく。それはにっこりとか、にやにやとか、また莞爾(かんじ)とかいうことばで表現されるが、いずれも表情筋の運動によってつくられる。その程度が強まるにつれて、口がやや開き、口角が外側方へ引かれ、目元が細くなり、目じりに皺(しわ)が寄る。感情がさらに強くなると、呼吸運動が笑いに加わる。横隔膜が断続的にけいれんすることにより、小刻みに呼気が発せられ、声を伴うようになる。日本語ではハハハ、ホホホ、フフフ、ヘヘヘ、ヒヒヒと表現されたりして、これらは開放的から抑制的なものへ、また情緒的から作為的なものへ移っていく。これらの笑いでは顔はやや上向きであるが、遠慮がちな笑いの際には顔は下を向き、クックックッと押さえた声が出る。日本語でも英語でも、さまざまな笑いは擬態語で表現される。思わず引き込まれた笑いとか、爆笑、哄笑(こうしょう)など、自然な笑いの際の顔は左右対称な動きを示すのが普通で、苦笑、嘲笑(ちょうしょう)、へつらい笑いなど、作為的な笑いの際には、顔の動きは非対称的になる。

 笑いは人類に普遍的であり、その高い精神性が身体に表れたものであるが、その発現の仕方はそれぞれの社会のもつ文化によって異なる。笑いは多分に社会的であり、1人でいるときにはあまり笑わないが、他者がいると、笑いは大きくなり、伝播(でんぱ)する。また、愛想笑いが生まれる。欧米人は表情の切り替えが早く、一方、日本人の笑いは長く残り、しばしばオリエンタル・スマイルとよばれる。欧米人が舌打ちするような自己の失敗を、日本人はてれ笑いで処理する。笑いの違いはしばしば異文化間の人々の誤解のもととなるが、それはとかく文化の相互理解の不足によって引き起こされる。

[香原志勢]

『ベルクソン著、林達夫訳『笑い』(岩波文庫)』『カント著、大西克礼訳『判断力批判』上巻(岩波文庫)』『懸田克躬他訳『機知――その無意識との関係』(『フロイト著作集4』所収・1970・人文書院)』『香原志勢著『顔の本』(1986・講談社)』『I・アイブル=アイベスフェルト著、伊谷純一郎・美濃口坦訳『比較行動学』(1978・みすず書房)』

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最新 心理学事典 「笑い」の解説

わらい
笑い
laughter,smile

表出者が,喜び,幸福,あるいはなんらかの快感情を抱いていると受信者に推測させる顔面表出(典型的には頰と口角両端の上昇とを伴う)や,それに伴う非言語的音声が笑いで,顔面表出としては笑顔である。表出時の内的な情動状態とは必ずしも一致するわけではなく,快感情を伴わずに愛想笑いを表出したり,逆に快感情をもちながら笑いを表出しなかったりすることも可能である。また,怒りや恥じらい,不安を隠蔽する際に笑いを表出することがあることも,ダーウィンDarwin,C.以来指摘されてきた。しかし,たとえば真の笑顔とつくり笑いとの表出の時系列パターンには,微細な相違が存在することが報告されている。また,笑顔に関連する口角の筋運動を誘導することによって内的感情が操作されうる(顔面フィードバック効果)ことからも,笑いの表出と内的な幸福感・快感情との間には,強い相互作用が存在するといえる。コミュニケーションの文脈で表出された笑いは,社会的絆を形成・維持するうえで重要なメタ・シグナルとしての機能をもつ。

 笑いは,喜劇における滑稽としての笑いがもたらされる要因の分析を主たる射程としつつ,プラトンPlaton,アリストテレスAristoteles以来の考察対象となってきた。ベルクソンBergson,H.は,社会という環境において発現する笑いの社会的役目(機能)を検討する必要性を指摘し,笑いの中心的な意味を,円滑な社会的活動からの軽微な逸脱に対する懲罰ととらえた。フロイトFreud,S.は,社会規範上本来ならば不適切な感情や恐怖を,社会的に許容できるかたちで解放するのが笑い話であり,その機能を身体的に表現したものが笑いであると指摘した。

 一方,行動学的・心理学的研究は,笑いという行動様式の社会的機能についての研究を進展させている。「笑い」という語からまず連想されるのは,多くの場合が哄笑laughterであるが,これと並行して論じる必要があるのが微笑smileである。微笑と哄笑には連続的な側面も多いが,両者の相違点についても考慮する必要がある。フーフHooff,J.A.R.A.M.vanは,ヒトを含む霊長類の表情表出の比較を通して笑いの系統的起源を論じ,哄笑が遊び場面であることをメタ的に示すプレイ・フェイスplay faceを起源とするとした。これに対し,微笑は,優位個体と対面したときに劣位個体が口を開け,口角を後ろに引き,歯列をむき出しにする劣位信号(グリメイスgrimace)をその起源とすると述べた。プロバインProvine,R.は,チンパンジーの遊び場面における呼吸パターンが儀式化したものがパンティングpantingとよばれる音声表出であると述べており,同様な連続性をヒトの笑い声にも想定している。ヒトの笑い声も,チンパンジーのパンティングと音響学的に類似した側面があり,短い間隔での断続的な音声の連続によって構成されるが,ヒトの笑い声が息を吐く際のみに発せられるのに対し,パンティングは呼気時・吸気時の発声をどちらも含んでいる。音声言語を構成するうえで不可欠となる精細な呼気調節機能は,笑いの呼気調整にも反映されていると考えられる。微笑に関しては,随伴して表出される特異的音声パターンはとくにない。

 笑いの発達的起源に関しては,出生直後から乳児期初期にかけてのREM睡眠時には,新生児微笑あるいは初期微笑とよばれる,口角を上げて微笑んでいるような表出が観察される。微笑を引き起こす外的な要因が存在しないと考えられる状況下でのこの表出は「内的な快感情の表出」とはとらえにくいため,自発的微笑spontaneous smilingともよばれる。この行動はヒト特有のものではなく,チンパンジーやマカクザルの乳児においても報告されている。生後3ヵ月ころには,周囲のおとなの顔を見た際などにコミュニケーションの文脈における社会的微笑が出現する。哄笑の出現は生後3~4ヵ月ころである。ただし,自発的微笑が,その後出現する社会的微笑とどのような関連をもつかについては必ずしも明らかではない。

 くすぐられる場合のような触覚的な感覚は,ヒトのみでなく類人猿においても笑いを引き起こす。しかし笑いが引き起こされるには,くすぐる行為につながっていく行動の文脈や,「くすぐり手がだれであるのか」という参与者間の関係性が強く影響する。また,ヒトの笑いが表出される文脈やその解釈については文化差があり,たとえば失敗場面で観察される笑いの頻度は,アメリカよりも日本で高く,この傾向は幼児期でも報告されている。また,精神衛生上の効果も指摘され,笑いが痛みの緩和や免疫機能の向上に効果をもつことも報告されている。
〔橋彌 和秀〕

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「笑い」の意味・わかりやすい解説

笑い
わらい
laughter

多様な生理,心理的過程によって生じる感情反応の一種で,主として顔面表情として現れる。くすぐりなどの身体的刺激によって生じる以外に,喜びや満足感に伴って生じるうれしさの笑い,機知,滑稽,諧謔に対するおかしさの笑い,他人に対するほほえみによって代表されるような演技としての笑いなどが区別される。笑いの発生機構については,優越感,緊張からの解放,期待と現実とのずれなど古くから多くの説があり,またその社会的機能として,社会的緊張の緩和,苦痛からの防衛,愚行に対する拒絶行為,自由にして柔軟な生に対立した凝固状態に対する社会的罰としての役割などが指摘されている。

笑い
わらい
Le Rire: Essai sur la significance du comique

フランスの哲学者アンリ・ベルグソンの著作。 1899年刊。同年の『パリ評論』に掲載された3編の論文をまとめたもので,喜劇的なものの意味論的分析の書。主たる論点としては,人は他人との協調関係でしか笑わないところからみて,笑いには社会 (人間間の結びつき) を形成する機能があり,社会の枠を飛出した人を呼び戻す働きをもっていること,笑いは機械的に硬直して見えるものに対する反応で,所作や言葉での,動現象を生むことなどがある。

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世界大百科事典(旧版)内の笑いの言及

【喜劇】より

…演劇の歴史のなかで,ふつう,悲劇とともに演劇の二大分野の一つをなすといわれる。明確な定義があるわけではないが,通念上の最大公約数的な定義をすれば,何らかのかたちで笑いをよびおこす演劇一般,ということができよう。しかし,実際にはたとえばチェーホフが,《桜の園》や《かもめ》のような作品の副題に,わざわざ〈喜劇四幕〉とことわったことに象徴されるように,とくに近代以降においては喜劇の概念はあいまい化しており,そのような分類自体が無意味であると考える人も少なくない。…

【笑い】より

…人間における感情表出の一つ。日本語における笑いにはさまざまなニュアンスが含まれており,その違いは,たとえば〈微笑〉〈苦笑〉〈冷笑〉〈大笑〉〈嬌笑〉〈哄笑〉といったごとく形容詞を頭につけることによって表される。これに対して英語では,声をたてるかたてないかをおおまかな基準としてlaugh(笑い)とsmile(ほほ笑み)の区別がある。…

【挨拶】より

…こうした攻撃的身ぶりに対して,多くの挨拶は友好関係の表現のようにみえる。その代表的例が笑いやほほえみであろう。エスキモーは〈笑う人〉とよばれたりするが,来客をとりかこんでただにこにこと笑ったり,互いに笑いころげたりするのである。…

【口】より

…口と口もとは人相学でさまざまに論じられている。一方,アイブル・アイベスフェルトらは,攻撃と親愛の二元的行動により動物の諸行動を分析する中で,口がおもに表情をつくる笑いについても触れている。彼らによれば,人間のほお笑みは口裂を横に開いて歯をむき出す威嚇の表情から攻撃性が失われたものである。…

【ほお(頰)】より

…柔らかく盛り上がる曲面がほおの本領である。 ほおの筋肉が収縮して表す感情にはいろいろあるが,ここでは笑い顔と泣き顔について簡単にふれることにする。ヒトだけが笑うのではなく,イヌも笑うとかサルも笑うとかいわれる。…

※「笑い」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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