一般には、教育のために用いられる教材を教授・学習活動に沿って適切な形式に編集した図書、すなわち学校における教科用図書をさす。なお、「教科書の発行に関する臨時措置法」によれば、「小学校、中学校、高等学校及びこれらに準ずる学校において、教育課程の構成に応じて組織排列された教科の主たる教材として、教授の用に供せられる児童又は生徒用図書であって、文部科学大臣の検定を経たもの又は文部科学省が著作の名義を有するもの」(2条1項)とされている。
[朝倉充彦・宮﨑秀一]
日本における教科書の起源は、遠く古代にまでさかのぼることができる。最初の教科書といわれているものは、仏教や儒教の教典・経書、国文・和歌、史書などの古典のたぐいであるが、一般に、中世から近世にかけて広く用いられた「往来物」が有名である。往来物とは、もともと書簡文の模範を示したものであるが、その後社会の変化とともに内容も変わり、教訓的なもの、産業的なもの、地理的なものに分かれ、とくに寺子屋を中心に用いられた。その代表的なものに『庭訓往来(ていきんおうらい)』がある。
日本の近代学校教育制度は1872年(明治5)の「学制」発布よりスタートするが、この「学制」期の教科書制度は自由発行・自由採択制であった。このため、この期の教科書は種類が多く多様性に富んでいた。前述の旧来の教科書とともに、欧米の教科書を翻訳したものや欧米の文化・科学を紹介した啓蒙(けいもう)書などが教科書として広く普及していた。また、これら教科書とならんで掛図が教科書と同格のものとして取り扱われ、小学校入門期の主要な教材となっていた。
「学制」期において文部省や師範学校も教科書を編集出版していたが、民間教科書を抑圧し統制することはなかった。しかし、1880年に文部省は地方学務局内に教科書取調掛(とりしらべかかり)を設置し、各府県の教科書の適否を調査し使用禁止を含めた教科書リストを通達した。こうした動きの背景には、明治政府が当時の自由民権運動を抑圧し、民衆教化策として儒教主義的徳育を強く押し進める教育施策をとったことと深い関連がある。そして、翌1881年には各府県が小学校の使用教科書をそのつど文部省に報告することを義務づける開申制がとられた。ついで1883年、教科書採択を開申制から認可制に改め、小学校教科書だけでなく公立中学校・師範学校での教科書も認可制となり、教科書の統制は強まる傾向となった。
1886年には、初代文部大臣の森有礼(もりありのり)による「小学校令」および「中学校令」に基づいて検定制度が始められた。ついで「教科用図書検定条例」が定められ、小学校、中学校そして師範学校の教科書検定制度が確立した。だが、この検定条例は施行後まもなく廃止され、1887年「教科用図書検定規則」が制定される。この検定規則は、その後の教科書検定の基本的規定となった。
小学校の教科書採択に関しては、府県単位の小学校図書審査委員会が審査し、その報告を受けて知事が採択を決定する方法がとられた。審査に関する規則も定められ、教科書の審査採定における不正を防止するための改正が行われるが、教科書採択上の不正行為はなくなることはなかった。そして、1902年教科書採択をめぐる大規模な贈収賄事件が起こった。これがいわゆる教科書疑獄事件である。この事件は1道3府35県に及び、検挙者は知事、視学官、校長、教諭、教科書会社関係者など200名前後にまで達した。この結果、当時の主要な教科書が罰則の適用を受け採択できなくなり、教科書の空白状態となった。この事件が国定教科書制度を導入する決定的契機となるのである。
1903年「小学校令改正」によって国定制度が確立し、翌1904年より施行された。国定教科書はその後修正が幾度かなされ、1941年(昭和16)には、小学校の国民学校への改編とともに、戦時的色彩を帯びた教科書が各教科にわたって新しく編集された。旧制中学校用の教科書については、おおむね検定制度が維持されてきたが、これも1943年の「中学校令改正」によって国定制度へと移行した。
第二次世界大戦後、とくに初等教育については、1945年(昭和20)10月の連合国最高司令部(GHQ)の指令「日本教育制度ニ対スル管理政策」で、軍国主義および極端な国家主義思想の普及が禁じられた。同年12月には、国家神道(しんとう)・神社神道に関する指令、ならびに修身・日本歴史および地理停止に関する指令で、使用中のいっさいの教科書ならびに教師用参考書から、すべての神道教義に関する事項が削除されるとともに、すべての学校における修身・日本歴史および地理の授業が停止されるに至った。さらに、これらの教科に関する教科書および教師用参考書は回収され、それにかわる新教科書および教師用参考書の編集計画が命ぜられた。
なお、その他の教科書についても、戦争に関係のある箇所の削除が指示され、児童が墨で塗りつぶすなどの処置がとられ、いわゆる「墨塗り教科書」が用いられた。
1947年「教育基本法」とともに「学校教育法」が公布されて六三制の新しい学制が成立した。これに伴い国定制度は廃止され、教科書編集が民間で行われる検定制度となった。同年文部省(現文部科学省)から各教科の「学習指導要領(試案)」が出され、これを参考に各学校が教育課程を自主的につくりあげることが期待された。教育の民主化の実現が目ざされたが、検定制度は1947年からすぐには実施されず、整備されるまでとりあえず文部省が学習指導要領に基づいて教科書の編集を進めた。その後、1948年「教科用図書検定規則」および「教科書の発行に関する臨時措置法」が公布され、翌1949年には「教科用図書検定基準」が定められた。
教科用図書検定規則では、検定の基準を「教育基本法及び学校教育法の趣旨に合し、教科用に適すること」と定めて、検定は「教科用図書検定委員会」(後に教科用図書検定調査審議会と改称)の答申に基づいて文部大臣(現文部科学大臣)が行うこと、検定の手続きは原稿審査、校正刷審査、見本本審査の3段階を経て完了すること、そのほか申請の手続きや改訂等について定めている。また、「教科書の発行に関する臨時措置法」には、教科書の意義、教科書の発行、教科書展示会、教科書の需要供給の調整および定価について定めている。こうして検定制度が整備されるにつれて文部省著作の教科書の発行は停止され、1949年から新しい検定教科書が使用され急速に普及していく。
[朝倉充彦・宮﨑秀一]
第二次世界大戦後の教育改革の一環として実施された検定制度をもとに、教科書制度は整備され今日に至っているが、この間、検定教科書には幾多の問題が生じた。とりわけ社会科の教科書は政治問題化した。
1955年日本民主党(当時)が編集刊行した『うれうべき教科書の問題』では、社会科教科書の内容が「偏向教育」として批判され、政治問題化していった。こうした状況のなかで、1956年文部省は検定制度強化をねらった教科書法案を国会に提出した。この法案は審議未了で廃案となったが、その後検定調査委員の増員、専任の教科書調査官の設置等による制度の整備充実が図られ、実質的に検定制度は厳しくなっていった。とりわけ検定申請原稿に対する文部省の検定調査官からの修正意見が強くなり、検定に合格することが困難となっていった。
1958年学校教育法施行規則が改正され、学習指導要領の法的拘束力が明確にされた。翌1959年に告示された小学校および中学校の新学習指導要領は「試案」ではなくなり、教育課程の基準として位置づけられた。検定教科書の内容は、学習指導要領に基づいて編集されることになっているので、学習指導要領の目標・内容がそのまま検定教科書に反映していくことになる。新学習指導要領の実施が始まる1961年度から、教科書発行者の裁量にゆだねられていた検定の時期が規制され、検定を受けつける教科書の発行年度は、小学校の場合は1961年度の次は1965年度とされた。この規定により、小学校用教科書の発行者は、1965年度まで改訂や新規発行ができなくなった。また、発行者が発行できる教科書は原則的に1種類に制限され、教科書の種類は大幅に減少した。
1962年の「義務教育諸学校の教科用図書の無償に関する法律」および1963年の「義務教育諸学校の教科用図書の無償措置に関する法律」によって小・中学校の教科書の無償給与が実施されることになった。この結果、1963年度から年次計画によって無償給与の範囲は拡大され、小学校では1966年度に、中学校では1969年度に全学年無償給与が実現し、今日に至っている。
教科書無償措置法は教科書の採択・発行についても規定しており、採択に関しての教育委員会の権限や任務を明らかにした。これまで教師による学校単位の採択を、市・郡またはこれらを合わせた地域ごとに使用教科書を決定する広域採択方式に切り換えられた。ただし、公立以外の国立・私立の小・中学校の場合、および義務教育ではない高等学校の場合では、教科書の採択は従来どおり学校単位である。また、同法施行令により、採択された教科書は3年間同じものを使用することとされ、検定の申請も3年ごとに行われることになった。
こうした教科書無償措置の実施とともに、教科書の検定もより厳しくなった。とりわけ中等教育の社会科教科書の検定では不合格とされるものが多くなった。こうしたなかで、1965年東京教育大学教授(当時)家永三郎(いえながさぶろう)(1913―2002)は、自著の高等学校日本史教科書が不合格になったことに対して、教科書検定は違憲であるとして訴訟を起こした。これは一般に「家永教科書裁判」とよばれ、1997年(平成9)に最高裁で結審されるまでの32年間にもわたった教科書検定制度についての裁判となった。
教科書の内容の基準となる学習指導要領は、その後小学校が1968年、中学校が1969年というようにほぼ10年ごとに改訂されていく。そして、1977年「ゆとりと充実」を目ざした小・中学校の学習指導要領が告示され、小学校では1980年度から中学校では1981年度から実施された。同時に教科書検定規則が1977年全面的に改正され、これまでの教科書検定制度に大きな変化をもたらした。この改正により、検定は大幅な書き換えやまったく新しい原稿を審査する「新規検定」と、改訂するページ数が全体の4分の1以下の「改訂検定」との2種に区分され、不合格は新規検定に限られた。また、新検定規則では、原稿本、内閲本、見本本の3段階の審査とされ、修正意見に対する意見の申し立てや、不合格の場合の理由の事前通知、反論の聴取、再申請などの手続が定められた。
1981年に刊行された『疑問だらけの中学校教科書』(福田信之・森本真章・滝原俊彦著)によって、中学校社会科公民分野をターゲットにした教科書批判が一部の文教関係の政治家によって展開された。また、翌1982年高等学校の日本史教科書の検定過程で、第二次世界大戦前日本のアジア諸国への「侵略」を「進出」に書き換えさせたことが明らかとなり、日本の教科書記述と検定制に対してアジア諸国から非難され外交問題にまで発展した。その後、同年に中国からも日本の歴史教科書の「中国への進出」や「南京(ナンキン)虐殺事件」の記述についての抗議がなされ、修正を余儀なくされる事態が起こった。急速な国際化の進展のもとで、日本と世界各国、とくにアジア諸国との友好をいっそう進めるうえで、教科書の記述が正確かつより適切なものであることが求められてゆくことになる。
[朝倉充彦・宮﨑秀一]
第二次世界大戦後の学校教育制度の抜本的見直しを目的とした臨時教育審議会(臨教審)が総理大臣直属の諮問機関として1984年に設置された。臨教審は1985年から1987年にかけ4次にわたる答申を出し、教育改革の原則を示した。その答申のなかの第三次・第四次答申では「教科書制度の改革」が提言されており、これに基づいて教科書制度は改正されている。
第四次答申(1987)では、教科書制度の改革について次のように述べられている。
(1)教科書制度改革の基本方向として、個性を尊重した教育を推進する観点に立って、教科書のあり方や利用の仕方を見直し、とくに児童・生徒が使用する学習材としての性格を重視する。
(2)教科書の著作・編集機能の向上と研究開発体制を確立する。
(3)新しい検定制度として、検定基準の見直し、重点化・簡素化、審査手続の見直し、審査過程の簡略化(現行の原稿本、内閲本、見本本による3段階審査の一本化)、教科用図書検定調査審議会、教科書調査官等の制度と構成の見直し、適当な方法による審査過程の概要・合否判定の理由等の公開、検定周期の長期化を図ることなど検定制度の改革を図る。
(4)採択・供給については、採択組織・手続、採択理由の周知などのいっそうの改善を図るとともに、教科書供給体制をより開放的なものとする。
(5)義務教育段階の教科書の無償給与制については、今後、社会・経済や国民の意識・教育観の変化、教科書のあり方をはじめ初等中等教育全体のあり方の動向との関連において検討を続けることとし、当面、義務教育段階の無償給与制を継続する。
(6)教科書制度のあり方については、長期的には検定廃止や自由発行・自由採択への移行という可能性も含めながら、よりよい教科書をつくる観点から、将来もこの教科書制度のあり方についての調査研究を引き続いて行う。
以上の臨教審の答申に沿って教科書制度改革が押し進められている。そして、1988年に教科用図書検定調査審議会は「検定制度改善の骨子について(審議の経過)」を公表し、これに基づいて、1989年4月4日、教科用図書検定規則および検定基準が全面改訂された。
検定規則については、従来の「新規検定」「改訂検定」の別が廃止され、これと関連して、検定周期は3年から4年に延長された。検定申請図書の審査について、客観的に明白な誤記、誤植または脱字が一定基準以上存在する場合は教科用図書検定調査審議会(検定審)の審査に先だち再提出を求めるとした。また、これまでの原稿本、内閲本、見本本の3段階審査を一本化した。検定審査の合否に関しては、これまでの条件つき合格制度を廃止し、一定水準に達しているものは合否の決定を留保して、「検定意見」を事前に通知することとし、必要な記述修正が行われた後、再度審議会の審査を経て合否を判定することとした。文部大臣は、検定審査終了後、申請図書を公開することができるとともに、検定済み教科書の訂正を勧告することができるとされた。
検定基準は、「各教科共通の条件」と「各教科固有の条件」の区分が設けられ、これまでの教育基本法の教育の目的・方針および学校教育法に定める各学校の教育目的・目標と一致するという基本条件は「総則」に規定された。学習指導要領の目標、内容への準拠が強化され、学習指導要領の「内容取扱い」が新たに基準として盛り込まれた。また、体裁、編集技術などは基準を廃止して、執筆者・編集者の創意工夫にゆだねるなどの変更も行われた。
新制度下での検定の重点化、簡素化の方針はさらに推進され、1998年11月教科用図書検定調査審議会は「新しい教育課程の実施に対応した教科書の改善について」の建議をまとめ、文部大臣に提出した。2002年度から小・中学校で、また2003年度から高等学校で実施される新しい学習指導要領に基づく新教育課程に対応して、建議は教科書づくりのための検定基準や、検定手続の改善でさまざまな方策を打ち出した。建議は、
(1)これからの教科書に求められるもの、
(2)新しい教育課程の実施に対応した教科書の改善、
(3)教科書の改善に関連して、
の3部構成となっている。このなかで、検定手続については、誤記、誤植、脱字に関する審査の廃止、検定意見の通知の文書化、検定済み教科書に対して軽微な訂正を行う際の要件緩和などが提言された。
採択については、以下のようにまとめられた。
(1)公立小・中学校の教科書の採択に関して、都道府県教育委員会が市・郡ないし市郡統合の採択地区を設定する(1999年現在、全国478の採択地区)。
(2)都道府県教育委員会は、採択の対象となる教科書について綿密な調査・研究を行って、市町村教委に指導・助言・援助をすることが義務づけられている。このとき、都道府県教育委員会は「教科用図書選定審議会」の意見を聞かなければならない。
(3)関係市町村教育委員会は採択地区ごとに「採択地区協議会」を設け、都道府県教育委員会の指導・助言・援助のもとに、自らも調査・研究を行って、教科ごとに1種の教科書の採択を決定する。
(4)一度採択された教科書は4年間有効である。
文部省の教科書採択のあり方に関する調査研究協力者会議によってまとめられた「教科書採択の在り方について(報告)」(1990年3月)は、(1)採択基準と選定資料などの作成にかかわる各県の教科用図書選定審議会や採択地区協議会への保護者の代表の参加、(2)教科書展示会の形態や期間の拡充、充実、(3)採択結果および採択理由の周知、公表など、適正、公正な採択と同時に「開かれた採択」を提言している。また、行政改革委員会の規制緩和小委員会報告書(1996)は、「将来的には学校単位の採択の実現に向けて検討していく必要がある」とし、「当面……採択地域の小規模化や採択方法の工夫改善を図るべきである」と勧告している。
教科書の発行については、高等学校の場合は別として、義務教育諸学校に関しては、前記の「無償措置法」により指定制度がとられ、文部科学大臣の指定を受けたものでなければ教科書を発行することができない。これら教科書発行者の団体として社団法人教科書協会がある。
教科書の発行者は、教科書を各学校まで供給する義務を負い、この義務を履行するため、各発行者は、全国に所在する特約供給所、取次供給所などの教科書供給業者の団体として社団法人全国教科書供給協会がある。
[朝倉充彦・宮﨑秀一]
諸外国の教科書制度はそれぞれの国情を反映してさまざまであるが、一般的にいって、中国、インド、メキシコなどは国定制、日本、ドイツ、スペイン、イスラエルなどは検定制、フランス、カナダなどは認定制、イギリス、オーストラリア、デンマークなどは自由制となっている。また世界の多くの国々では、義務教育の教科書は無償とされているが、それには無償貸与制と無償給与制とがある。主要国の場合をみると、次のとおりである。
[沖原 豊・川野辺敏]
アメリカには、日本のような全国に共通した教科書制度はなく、州によって教科書に関する制度が異なっている。
教科書の認定・採択については、次の三つの方式がとられている。第一は、地方学区の教育委員会が州の制約を受けることなく自由に教科書を採択する方式であり、第二は、州が認定したリストのなかから地方学区の教育委員会が教科書を採択する方式であり、第三は、州の基準(特定の教科書についての州の認定)に従って地方学区の教育委員会が採択する方式である。大多数の州では、すべての児童・生徒に対して教科書は無償とされている。州によっては、義務教育諸学校の児童・生徒だけでなく、幼稚園児や高校生にも教科書が無償で貸与もしくは給与されている。
[沖原 豊・川野辺敏]
自由制であるイギリスでは、教科書の著作・発行は、民間の教育図書出版社、教材開発出版センターを付置する地方教育当局、各教科教育研究団体などによって行われている。教科書の編集にあたっては、国または地方教育当局などによって定められた公的な基準はなく、自由である。教科書は、1988年7月に成立した「教育改革法」制定以降、10教科(国語、算数など)の学習到達目標と教育内容を教育大臣が定めることとなったため、各出版社はこの「全国共通カリキュラム」や学校で広く採用されている教育内容などに配慮し、編集・発行することとなった。
初等・中等学校段階の教科書はすべて無償である。教科書はまず教師によって選定される。ついで校長の許可を得て備品として購入され、児童・生徒に貸与される。そのため初等学校では、教科書の家庭への持ち帰りは一般に禁止されている。
[沖原 豊・川野辺敏]
認定制であるフランスでは、教科書の編集・著作については、すべて民間の出版社の責任で行われ、それに対する法的な規制はない。しかし実際上は、省令で定められた教育課程ならびに訓令で示される指針に準拠し、具体的な指導方法を考慮して作成され、国によって認定を受ける。認定された教科書は各県の教科書認定委員会が作成するリストに掲載され、各学校はこのリストのなかから選定、採択する。採択は教科書を使用する教員の権限とされており、学校に配分された予算の範囲内で、教員が主体的に行っている。小学校などではとくにそれが職員会議の重要な審議事項の一つになっている。
義務教育段階では、従来、教科書無償の経費は市町村の負担とされていたが、1980年に至り、それまで漸次実施されてきた教科書の国庫負担が全国的に実現した。教科書は貸与制であり、原則として教室に備え付けられ、その学年が終われば、次の学年の生徒が引き継ぐことになっている。
[沖原 豊・川野辺敏]
ドイツは連邦制をとっているため、教科書制度は州によって異なっている。しかし、いずれの州も教科書の検定制度がとられているので、学校では検定教科書を使用しなければならない。新しくドイツに統合された旧東ドイツの4州も今日では従来の旧西ドイツの制度に準じている。教科書の採択は、一般に学校ごとに行われ、州文部省が作成する教科書目録のなかから選択するシステムになっている。採用にあたっては父母代表の意見を取り入れているところもある。義務教育の教科書の無償制は、ほとんどの州で実施されている。貸与制の州が多いが、給与制の州もある。貸与期間は3~4年であり、取扱いをていねいにするように指導されている。
[沖原 豊・川野辺敏]
旧ソ連では教科書は国定制であったが、現在のロシアでは、採択や採用の形態はかなり多様化している。採択制度について大別すると、(1)連邦教育省が個人・集団に著作を依頼する場合、(2)教育省がコンクールを主催し、個人・集団の著作物を選定する場合、(3)民間の出版社が独自に教科書を作成し、教育省から認定を受ける場合、の3種が併存している。各学校は教育省によって認定された教科書のリストのなかから学校の条件に合わせて採択している。しかし、私学や特定の学校(リツェイ、コレージュなど一般の学校と水準の異なる学校)では、自作の教科書や教材などを使って授業を行っているところもあり、現在までのところ制度的には不安定な状況にある。
[沖原 豊・川野辺敏]
教科書は教科指導(学習指導)において、教師の教授活動および児童・生徒の学習活動を組織的に行う際に、直接的に影響を与える教科内容と教材の体系である。教科書は、学習内容を提供し、指導と学習の順序を示唆し、さまざまな資料を提供し、学習を整理したりまとめたりするなど多様な機能をもっている。学校教育法によって教科書使用が義務づけられているが、教科書の使用・活用のあり方には大きく次の二つの立場があるといえよう。
(1)「教科書を教える」という立場。これは、教師の役割を、教科書に与えられている内容やその体系を児童・生徒に習得させることを主眼とするものである。このとき教材は教科書だけに限定され、他のさまざまな教材や学習参考書が利用されず、また児童・生徒の実態や特殊性への配慮を欠き、「わかる・楽しい授業」の創造が困難になる問題をもつ。
(2)「教科書で(あるいは、教科書でも)教える」という立場。これは、教科書およびその内容を自明の前提とせず、教科書の内容や体系に批判的検討を加えながら、教師の日々の教育実践・研究に基づいて教育課程を自主的に編成しようとするものである。このとき教科書は「教材の一つ」にすぎず、他のさまざまな教材や教具も利用・活用される。
教科書の叙述量には自ずと限界があるため簡略な表現にとどまらざるをえず、また教科書の統計や写真の時間的なずれも生じるために、教科書のみを頼りとする授業では十分な教育は行われがたい。したがって、教師自らの手による教科書の再構成が不可欠であり、他の教材の準備や開発が必要とされてくる。また、視聴覚教材(教具)やコンピュータなどの導入と普及に伴い、多様な学習指導方法が可能となっている。このため、教科書だけを教材とした授業への見直しが迫られている。
[朝倉充彦・宮﨑秀一]
教科書には、児童・生徒にとって楽しく感動のわく教材が盛り込まれ、豊かな情操と確かな学力が身につくように構成されていることが求められている。だが、民間の教科書会社によって編集発行され、文部科学省による検定を経てできあがる教科書にはさまざまな問題点がある。たとえばその内容は全国的、一般的、抽象的であって、個々の学校の指導計画や児童・生徒の実態や特殊性が十分考慮されてつくられているとは限らない。したがって教師は個々の授業を通じて教科書研究を日常的に進めていく必要がある。
教科書の内容は、現代科学の成果や真実に裏づけられているか、子供の認識を系統的に発達させるのに有効な順次性をもって配列構成されているか、子供の経験や実生活の問題と結合しているか、記述方法、概念や説明、挿絵、図表などが適切かどうかが、不断に検討されなければならない。こうした内容上の検討が現場の教師や保護者たちにおいて展開され、その成果が教科書の内容や編集に反映されることが重要である。このためにも教科書制度の「検定」の基準や手続のあり方や、「採択」「供給」のあり方なども研究されなければならない。
[朝倉充彦・宮﨑秀一]
『教科書研究センター編『教科書からみた教育課程の国際比較』全6巻(1984・ぎょうせい)』▽『徳武敏夫著『教科書の戦後史』(1995・新日本出版社)』▽『中村紀久二著『教科書の社会史』(1992・岩波書店)』▽『海後宗臣・仲新・寺崎昌男著『教科書でみる近現代日本の教育』(1999・東京書籍)』
学校の各教科の授業で使う書物。法令上は教科用図書と呼ぶことが多い。第2次大戦後の教育改革の一環として制定された〈教科書の発行に関する臨時措置法〉(1948公布)では,教科書とは,小・中・高等学校とそれらに準ずる学校で,その教育課程の構成に応じて組織配列された〈主たる教材〉として用いられる児童・生徒用の図書とされている。しかし教科書といわれる書物は,これらの学校以外の学習の場でも使用される。つまり,大学教育や社会教育など,特定の目的をもって学ぶ者の集団で,その目的達成に必要な知識・技術を習得させるために,その基本的内容を体系だてて編んだ書物のことをいう。しかし教科書を,いったん,いっそう広義に解し,学校教科や特定の文化領域の知識を体系だてて整理したものに限らずに,学習に使う書物全体をふくめておかなければ,狭義の教科書成立の過程やその意義が明らかにならない。
教科書を広義に解すれば,かつて教科書は洋の東西を問わず,古典そのものであった。西洋ではホメロスの詩が最初の教科書であったといわれる。キリスト教の普及は聖書を必読の教科書とし,同様にイスラムのもとでは,コーランがほとんど唯一の教科書とされた。紙に印刷された教科書という書物があったのではなく,たいていは口頭で学ぶべき古典が伝えられ,これを学ぶことによって,当の社会で一人前に成長していったのである。中国や日本では,中国の古典である《大学》《孝経》《論語》など四書五経が教科書の中心であった。多くの場合,これらの古典を,はじめは意味を理解できなくてもひたすら暗記することが求められた。しかし古典そのものが教科書であるとき,学ぶことのできるのは特定の階層の人に限られる。そのなかで,教育内容を順序だてる努力が始まる。貝原益軒が《和俗童子訓》で仮名文字の学習を〈いろは〉からではなく五十音から始めよと提唱するなど〈随年教法〉として系統性を強調したのは,18世紀初頭のことである。子どもの年齢にしたがい,発達段階に即して教材を編成する努力と並んで,視覚に訴える方法が考案された。その先駆者は17世紀のコメニウスである。彼は,はじめに感覚にないものは知性には存在しないとの前提に立ち,感覚が事物の違いをよく理解できるように訓練されれば,すべての知恵や一切の聡明な生活行動の基礎を形成できるとし,図式や絵の入った教科書《世界図絵》(1658)を編んだ。これは近隣諸国に影響をあたえ,彼の存命中にヨーロッパ12ヵ国語のほか,アラビア語,ペルシア語にも翻訳され,以後,各国で入門期の教科書はこの方式によって作成されることになった。このような絵入りの教科書は,当時ようやく発達し普及した印刷術の産物であった。日本の教科書が,この方式で必ずしも遅れをとっていたのではなく,1688年(元禄1)には《庭訓往来(ていきんおうらい)図讃》が作られている。これは《庭訓往来》の内容を絵で示し,それによってその意味を理解させようとしたものである。教育用に使う往来物だけでなく,民衆の間には絵草紙が普及し,彼らは自らこれを使って学ぶということが多くなった。
いまあげた往来物は,はじめ往復一組の手紙を何通か集めた書物であり,日常生活に必要な手紙文の範とされていたが,江戸時代には初等教科書一般を指し,その内容は地理,実業,教訓など多方面にわたるようになった。時代の進展とともに,この往来物の種類は増え,内容も修正されていった。17世紀末,元禄年間に出された《商売往来》には商売に必要な文字・単語が網羅され,それは時代とともに増加していった。その巻末近くには商人にとって必要な心得として読み書き算がかかげられていた。教訓をもった教科書としては《実語教》《童子教》などがもっとも普及した。そこでは人間にとって智が大事であり,そのためには学ぶことが必要だと説かれていた。これらの往来物を使った教育は寺子屋で行われ,それは都市だけでなく農村にもある程度普及し,それによって獲得した能力は,生産向上だけでなく封建領主や村役人の不正を見抜く力になっていった。教科書の普及は,基本的には民衆の生活を向上させ,解放を促したのである。
19世紀に入り,ナショナリズムの興隆とともに欧米諸国で国民教育のために国家の手により学校制度が整備され始め,日本でも,1872年(明治5)の〈学制〉公布とともに,学校教科用の図書として教科書という用語が使われ,各教科ごとに内容を初歩から系統だてて配列することによって教科書をつくる作業が開始された。内容としては,発展しつつある近代科学の成果をとり入れることが,国の富強や個人の幸福にとって不可欠であるとされたが,欧米でも旧教(カトリック)の勢力の強い国や地域では,たとえばコペルニクス説や進化論,あるいは太陽の黒点の発見など,科学上の発見や新しい知識が教科書から締め出されるという事態がつづいた。日本の場合,こういう学説を排除するほどの強い宗教的権威は存在せず,幕末から明治初期にかけ,軍事や医療関係の学問などが積極的に導入され,その学習を効果的に進めるために入門期の教科書が数多く刊行された。福沢諭吉の《訓蒙窮理図解》(1868)はその代表的な著作の一つである。当時は自然科学方面においてのみ革新的な書物が使用されたのではない。人民自由の権を保護するのは政体に無関係な普遍的なことであるという叙述をふくんだ道徳書(たとえば箕作麟祥《泰西勧善訓蒙》1873)も教科書として使用されていた。こういう書物を教科書として使用することができたのは,当時は教科書が自由発行,自由採択であったからである。学校制度が発足したばかりで教科書についての制度を整備する余裕がなかったからこの方式がとられていたのではなく,文部省自身が民間人による教科書編纂を支持し,それが盛んになることを期待していたのである。しかしそのような時代は長くはつづかず,政府は自由民権運動の抑圧にあたり,民権思想を根絶するため学校教科書の統制を開始し,81年小学校教則綱領などを制定し,教材の基準を示すことによって教科書を拘束するとともに,教科書制度を81年に開申制(届出制),83年に認可制と改め,86年森有礼文相による学制改革の際,小・中学校の教科書は検定制に改められた。検定権者は文部大臣であった。
日本では宗教的権威が初等・中等教育の教科書内容に科学の研究成果をとり入れるのを妨げるということはなかったが,19世紀の80年代以降,政治権力が教科書に強く介入し始めた。その際,森有礼文相により学問と教育は別であるという鉄則が示され,これによって教育内容に学問研究の成果を導入することに制限が加えられるようになった。それは,日本人が守らなければならない教えはすべて〈皇祖皇宗ノ遺訓〉に由来するとした教育勅語の発布(1890)によっていっそう強められた。この教育勅語の精神に合致せず,また時の政府の推進する国策に反する内容が教科書に盛り込まれることをおそれた政府は,1903年小学校教科書を国定制に切りかえた(国定教科書)。国定制のもとでは,政府の思いのままに教科書は書き変えられるようになり,歴史上の人物や事件の評価やとり入れる教材の性格などが,政治的圧力により一気に改められることさえ起こった。
教科書の装丁,挿絵などは改訂のたびに子どもに親しみやすいものに改める努力が払われた。算数の場合,最初の国定教科書が通称〈黒表紙本〉,1930年代の改訂版が〈緑表紙本〉と呼ばれているところにあらわれているように,色彩は豊富になり明るい感じのものとなった。小学国語読本では,この〈緑表紙本〉と同時期の1933年から使用され始めた〈サクラ読本〉(一年生用冒頭の教材が〈サイタ サイタ サクラ ガ サイタ〉であるところからきた通称)ではじめて色刷りとなり,子どもたちを喜ばせることになった。しかし親しみやすい外装のもと,内容,とくに修身,国語,国史,地理,唱歌(音楽)の内容は,しだいに軍国主義的・超国家主義的なものに改められ,しかもこれらの教科書を使って子どもの知的好奇心,探求心の発達を抑える授業が行われた。とりわけ日本史の場合それが強化され,天皇の祖先が神であるとか,元寇の際吹いた風が神風であることなどに疑問を抱かせず,日本は神国であると信じ込ませる授業がすぐれた授業であるとされた。しかもこの授業を全国で一斉に行わせるため,国定教科書には教師用書がつくられ,ここに説明材料や子どもへの質問事項が書き込まれていたのである。
第2次大戦後,このような国定教科書への批判・反省から,この制度は検定制に改められた(教科書検定制度)。たとえ戦前の教科書内容が軍国主義的・超国家主義的でなくても,画一的な内容・方法は教室から生気を失わせるとして,教師による自主的な教材選択・指導が文部省によっても重視されるようになった。47年から48年にかけて出された文部省著作の小学校社会科教科書では巻末に〈教師及び父兄の方へ〉という注意書があり,〈無理をしてもこの本に書いてあることだけは理解させなければ,それで社会科の学習が成り立たないと考えたりしては困る〉とされ,教科書以外のさまざまな教材の収集による創意に富んだ活発な授業が期待されていた。唯一絶対の教材としての教科書から,冒頭にあげたように〈主たる教材〉としての教科書に改められ,授業における教科の位置が変えられたのである。しかし学制直後と同様,教師の自由・自主を尊重する傾向は長くはつづかず,教育基本法公布,6・3制発足から10年もたたない1950年代中葉から,ふたたび政府・与党による教科書統制が強くなった。学習指導要領の教科書に対する拘束力が強化され,検定がきびしく行われるようになり,63年には,義務教育諸学校の教科書を無償にする法律において,同時に採択を学校単位から,地方教育委員会単位あるいはいくつかの教育委員会をまとめた単位へと広域化した。このような状況のなかで,高校日本史教科書の著者の一人である家永三郎が,教科書検定を違憲・違法として損害賠償の民事訴訟を,ついで2年後には教科書検定不合格処分取消しを求める訴訟を提起し,後者の審理が先に進み,70年東京地裁で裁判長の名をとって〈杉本判決〉と呼ばれる判決が下された。これは国家の教育権を否定し国民の教育権をうたった原告勝訴の判決であった(教科書裁判)。また民間教育研究運動などによる検定教科書批判と教材の自主編成の成果もあり,70年代には検定は緩和されたが,80年の衆参両院同時選挙における自民党の大勝以後,自民党・政府による教科書統制はまたしても強化され,82年には検定による歴史の歪曲が中国,韓国などアジア諸国から強く批判されたほどであった。
公教育における教科書統制は各国で何らかの形をとって行われており,歴史記述に見られる事実のゆがみが国際的に関心の的になっている。また異文化に対する認識・理解という点でも,多くの問題が指摘されている。教科書は科学や芸術など文化諸領域に向かって開かれていると同時に,その諸領域の体系そのままではなく,子ども,青年など学習者の発達,学力水準に即して学習内容としての系統性・統一性を確立していなければならない。教科書はこの原則に立って不断に改善されていくことが求められているのである。
執筆者:山住 正己
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出典 図書館情報学用語辞典 第4版図書館情報学用語辞典 第5版について 情報
…まず第1には,同時に多くの者が効率よく学習できることである。近代教育の祖といわれるコメニウスが作った母国語による教科書《世界図絵》(1658)はこの典型であろう。さらには広く普及している黒板や掛図があり,最近ではティーチング・マシンやコンピューターによる教育機器の開発も盛んである。…
…たとえば義務教育費国庫負担法による教材基準では,同法の経費援助を受けられる教材とは,ほとんどが教具のことをさしている。教材のうちで主要なものはまずなんといっても教科書であろう。さらに副読本,学習帳,ドリルブック,白地図などの一連の図書教材がある。…
…政府機関あるいは政府の指定する機関が執筆・編集し,政府により全国の学校で一律に使用を強制される教科書。日本の場合,小学校では1904年4月から,中学校では43年4月から,ともに49年3月まで使用された。…
※「教科書」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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