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洋画、彫刻、建築の美術団体。帝国美術院改組に反対して結成された在野団体である第二部会のうち、新鋭作家猪熊(いのくま)弦一郎、内田巌(いわお)、小磯(こいそ)良平、佐藤敬(けい)、三田康(やすし)、中西利雄(としお)らは、1936年(昭和11)7月同会を離脱し、伊勢正義(いせまさよし)、脇田和(わきたかず)らと新制作派協会を設立、美術界における政治的抗争を排し純粋な芸術活動に専念する旨を宣言した。同年11月第1回公募展を開催。鈴木誠(まこと)、野田英夫(ひでお)、荻須高徳(おぎすたかのり)らを加える一方、39年国画会彫刻部を脱退した本郷新(しん)、佐藤忠良(ちゅうりょう)、舟越保武(やすたけ)らの参加により彫刻部を、さらに49年(昭和24)谷口吉郎(よしろう)、丹下(たんげ)健三らを迎えて建築部を新設、51年には当時日本画壇の前衛と目された福田豊四郎(とよしろう)、上村松篁(うえむらしょうこう)らの創造美術と合流、会名を今日の新制作協会に改めたが、74年日本画部は袂(たもと)を分かち創画会を結成した。絵画部の傾向は都会的な近代感覚が主流を占め、彫刻部には前記会員のほか高田博厚(ひろあつ)、菅原(すがわら)安男らがいて写実的な具象作品が多い。
[佐伯英里子]
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…翌年野田英夫,つづいて三岸節子,荻須高徳らを会員に迎えた。39年に本郷新,舟越保武,佐藤忠良,柳原義達らの参加で彫刻部,49年に丹下健三,谷口吉郎,前川国男らにより建築部が設けられ,51年には創造美術協会の合流で日本画部ができて会名を新制作協会に改めた。しかし74年に日本画部会員が脱退し,現在は絵画部,彫刻部,スペースデザイン部として毎年秋,公募展を開催している。…
※「新制作協会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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